32.「崖際にて」
なんとか侵入できた穴ぐら内部でも、やはり戦闘は繰り広げられていた。赤いバンダナをつけていないのでタソガレ盗賊団と分かる。戦う彼らを無視してひたすらに上へと駆け上がった。
崖の内部は粗野で、岩壁は剥き出しだった。アジトの岩の部屋と似た雰囲気だ。しかし、内部の削りかたひとつ取ってもかなり神経を注いであることが分かる。階段は均一に掘りだされ、その表面は鋼鉄で加工されていた。
『親爺』のいる秘密の部屋についてミイナたちは一切教えてくれなかったが、おそらく崖の右側にはないのだろう。それらしい抜け道も、入り組んだ場所も特になかった。
じき五分、といったところでわたしの耳はギイギイギイという無数の金属音を聴いた。子鬼が鋭い牙の揃った口を開閉する音だ。敵を襲う前の威嚇音と言われている。通常は群のリーダーのみが鳴らす音だが、それは絶え間なく、数も正確に把握できないほど多くの威嚇音だった。とすると、子鬼の集団がいくつも集まっているのだろう。ひとつひとつの音が集団の数だとすると、崖の下は確かに骨さえ残らない。そしてわたしたちも夜明けまで無傷でいられるはずがない。歯を食い縛り、崖の上を目指して駆けた。
最上階には縄が降りており、それを伝って崖の上に出ることが出来るようだった。まずジンに先行させ、次にわたしが昇った。最後、ジンの手を借りて崖の上に出ると、付近の巨大な岩にロープが結ばれてあった。緊急時、こうして崖の上から脱出するのだろう。
崖の上には既にミイナとアカツキのメンバーがいた。しかし、全員というわけではない。少なくない数の犠牲が出たことを思わせた。
少し遅れてヨハンが昇ってくる。
「いやはや、随分疲れましたよぉ」
ヨハンの軽口に答える者はいなかった。
「これで全員だな」
ミイナは張りつめた声で呟いて、最上階の部屋に垂らされていたロープを手繰り寄せた。気丈を装っているような、そんな表情で。
誰もが沈黙していた。その緊張した表情の下で、犠牲になった仲間のことが頭を離れず、それでも夜明けの訪れていないこの場所で戦意を保っておかなければならないと必死に言い聞かせているに違いない。
崖下を覗き込むと、案の定子鬼が無数に蠢いていた。ところどころに子鬼が小山になっている箇所がある。考えたくはないことだが、そこには敵とも味方とも分からない犠牲者がいることだろう。朝が来れば、彼らがいた痕跡すら残らない。装備の一片、血の一滴すらも全て子鬼の胃袋のなかだ。
「ヨハン」とミイナは静かに呼びかけた。
「はいはい、なんでしょう?」
ミイナはなにか言いかけて口を閉ざした。そしてしばしの沈黙を置いて「よくやった」とだけ呟いた。
きっと、やるせない思いが渦を巻いているのだろう。これはやり過ぎじゃないかとか、なぜ事前に全ての作戦内容を伝えなかったとか、そんな言葉が喉まで出かかったに違いない。しかし蓋を開けてみたら、おぞましくはあるがおおむね理想的な状況だと思わざるを得ない、そんな理性がミイナの口を重くしたのだろう。
ヨハンはなにも返さなかった。この場においては沈黙が最も賢い返事であることを察したのだろう。どこまでも小賢しい男だ。
月は既にだいぶ傾いていた。あと一時間もすれば空が白み、暁が夜を破るだろう。
しばらくして、反対側の崖の上に人影が現れた。髭面で金の短髪の大男と、白髪の少年、続いてならず者らしい風体の男が五人ほど。向かい側にもここと同様、崖の上に出るためのロープがあるようだ。こちらは彼らの倍以上の人員がいる。それを鑑みれば、作戦自体は成功と言えるのだろう。決して認めたくないことではあるが。
不意に、ふらり、とミイナは崖際に寄った。
「グレゴリー!!」
ミイナが大声で叫んだ。大男が崖際まで歩を進める。グレゴリー、というのが彼の名前であり、おそらくタソガレ盗賊団のリーダーであることは装いからすぐに判断できた。牛をなめした上等な上着、光沢のあるヒョウ柄の開襟シャツは胸の前で大きくはだけさせており、首には金の鎖。褐色の肌によく映えている。ズボンと靴はおそらくワニ革だろう。まだら模様がなんとも威圧的だ。全体的に圧力の強いファッションである。単純に、悪趣味だ。
男は怒気をはらんだ表情をミイナに向けた。
「ミイナ! てめえ、ぶち殺してやる! どこまでえげつねえことしやがるんだ!」
男の言葉には完全に同感である。このやりかたは確かにえげつない。
「ああ、良かった。アタシも丁度オマエを殺したかった」
ジンが弓を構えると、白髪の少年も含め、相手の盗賊団のメンバー全員が弓を構えた。アカツキの戦力を見回しても、遠距離に対応できそうな武器はなかった。弓を使える人数だけでいえば六対一であり、圧倒的に不利である。
「ミイナ! 取引だ! 矢は撃たないでやる。てめえらの命も保証する。だからてめえらの親爺の居場所を教えやがれ!」
グレゴリーの言葉の意図が読み切れなかったが、なにか理由があるに違いない。そもそもタソガレのリーダーがこの場所にいること自体が異常なのだ。縄張り拡大のための拠点確保だけが目的なら、腕の立つメンバーを常駐させればいいだけであり、襲撃の危険があるのに自分が出しゃばってくる必要はないはずだ。すると、奴の発言にもあった通り、『親爺』が真の目的なのではないだろうか。アカツキ盗賊団を捕らえて拷問にかけるかして『親爺』が『関所』にいることを知ったのだろう。だからこそ、奪取したばかりのこの場所に留まっているのだ。グレゴリーが具体的に欲しているのが『親爺』の持つ魔具なのか、魔具製造の能力なのかは分からないが。
わたしはほっとひと息ついた。見た目通り、奴は頭が回らないようだ。取引条件として提示した内容それ自体が、『親爺』の無事を物語っている。ミイナを筆頭に、アカツキのメンバーもとりあえず安心した事だろう。
「撃てよ。全部叩き落してやる」
ミイナは執行獣を肩で構える。明らかにハッタリではあるが、『親爺』の生死に関わる取引は一切受け付ける気はないのだろう。勿論、ジンやアカツキのメンバーも同じ思いであるだろう。
ヨハンがわたしの横に来て、囁いた。「大変なことになりましたねぇ」
「うるさい」
「おお、こわいこわい。しかし、この距離といえども矢で射られれば無事ではないでしょうねぇ。勿論、わたしやお嬢さん、団長さんはかわせるでしょうが、ジンさんや他のメンバーは難しいでしょうなぁ」
「なにが言いたいのよ」
「奴を逆上させるのは得策ではない、ってことですよ。とはいえ盗賊団同士だと話は平行線。いずれはどちらかが全滅するか矢が尽きるかでしょうね」
「だから、どうしろって言うの」
「要は、ですね。時間を稼ぐべきなんですよ。撃ち合いが始まるのを少しでも遅らせる。そうすれば、腹を空かした子鬼はどうなります?」
わたしはヨハンの言葉から想像を働かせる。崖を這い上がる無数の子鬼。
「ねえ、あんたはさあ、どうしてそんな卑劣な作戦ばかり思いつくの?」
「へっへっへ」
わたしは多分、口角が上がっていたことと思う。これ以上ない作戦だ。今火蓋が切って落とされたら、余計な犠牲が出る。わたしたちが争おうと争うまいと子鬼はこちらまで登ってくるのだ。結果が変わらないなら、可能な限り時間を引き延ばすのが得策だ。それに、こちらにはミイナとわたし、ヨハンがいる。子鬼相手だとジンの魔具は不利だろうが、彼を守りつつ切り抜ければいい。この場所自体は『関所』に面していない箇所も崖になっているので逃げ場はない。子鬼さえ現れれば、後はふたつの組織の消耗戦だ。互いを構っている暇はない。
「ちょっと待って!」
わたしが叫ぶと、引き絞った矢が一斉にこちらを向いた。気分の良い状況ではなかったが仕方ない。
「なんだ、女!」
こいつも失礼な奴。いや、格好で想像はついていたけど。
わたしは不快感をなるべく声に出さないように叫んだ。
「わたしはアカツキ盗賊団のメンバーじゃないの! ただ雇われた兵士よ! こんな状況で矢を撃たれたらひとたまりもない!」
アカツキ盗賊団の鋭い視線を感じたが無視した。
「知るか!」
確かに、と納得してしまう。見切り発車過ぎた。
ヨハンはわたしの狼狽を察したのか、すかさず助け舟を出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私も盗賊団とは無関係の外部の人間です! 命乞いをするわけじゃありませんが、どちらの組織にとっても得になる提案があるんです!」
「よし、分かった! 言ってみろ! 場合によっては殺さないでやる」
ヨハンは一拍置いて、返答のために息を吸った。その瞬間のことである。
一本の矢がわたしの顔の横を通り過ぎていった。




