311.「頂の草原」
橋の中央はさすがに風が強かった。しかし危機感を覚えるほどではない。太く張られた縄は手すり代わりにもなるし、万が一突風にあおられて倒れこんでも身体を支えてくれるくらい頑丈である。足元の板にも脆い箇所は見受けられなかった。ともあれ真下を覗き込むと、さすがに冷や汗が出る。太陽が昇っても、光が底まで照らさないとは……。
正面突破。わたしとヨハンが共通で抱いたプランである。シンクレールを見つけ出すには、それが適切な方法のはずだ。彼がいまだ山中にいる可能性はあったが、どうしても低く見積もらなければならない。なぜなら――。
「テレジアがシンクレールを見逃すかしら?」
「さあ、分かりません。ですが、あまり彼女を甘く考えないほうがいいでしょうなぁ。単独行動する魔術師を放置するような立場ではないでしょうし」
ヨハンも同じ考えである。彼女がシンクレールをどう扱うにせよ、手がかりはキュラスにしかない。ともあれ、推測の域を出なかった。
もしシンクレールが遭難しているのなら、それはそれでかまわない。テレジアに捕まるよりはずっとマシだろうから。
「キュラスに入ったら隠れつつ進みましょう」
「身を隠す場所があれば、ですが」
隠密行動はヨハンの得意分野だったが、彼としても魔術の使用は控えたいようである。それも当然か。拡大鏡越しに目が合ったことを考えれば、迂闊な行動は出来ない。
橋は見た目以上に長く感じた。拡大鏡で確認したときは大した距離とも思えなかったが、こうして実際に渡ってみるとそれなりに時間がかかる。
「わたしたちがこうしてキュラスに入るのも予測されてるかも……」
「でしょうなぁ。豊かなご馳走と温かいベッドを用意してくれる相手なら文句なしですが」
ヨハンは飄々と笑って見せたのだが、その顔にはどこかぎこちなさがあった。
やがて橋が終わると、無意識に長い吐息が漏れた。
山頂とは思えないほど青々と茂った草原。遠くには畑が見える。街というよりも村の風情だ。まだ末端部分なのでキュラスの中心地がどうなっているのかは分からないけど。
幸いなことに人影はなかった。誰かが現れたら絶対に見つかってしまう。広々とした草原に身を隠せるような物は見当たらない。
「牛ですなぁ」
ヨハンが指さした方角を見ると、牛の一群がせっせと草を食んでいた。いかにも平穏な景色である。
「そういえばテレジアはなんのために橋を渡ったのかしら」
彼女は武装した信徒らしき者を連れていた。すると、夜間防衛だろうか。あるいは、橋に至るずっと前からわたしたちの存在に気付いていて、捕まえるために……。
ヨハンはこちらを一瞥し、「お嬢さんの考えていることと大差ありませんよ。魔物の討伐か、不審者の捕縛か」と呟いた。
察しのいい奴……。
「でも、わたしたちを捕まえるためなら、こうして泳がせてるのは妙よね」
どれだけの距離があっても相手を察知出来るのなら、今頃わたしたち二人も彼女に捕らえられているだろう。そうなっていないということは――。
「ええ。ですので、魔物を狩っていたと思いたいですなぁ」
とぼけたようにヨハンが言う。見通しているくせに全部を語らないなんて卑怯だ。
テレジアが捕縛のために行動を起こし、わたしたちを捕まえずに引き上げるケースがひとつ考えられる。シンクレールだけを捕らえ、あとは救出のために乗り込んでくるのを待つパターンだ。もしそうなら、今のわたしたちはテレジアの想定通りに動いているということになる。
「お嬢さん、気難しいことばかり考えていますね。眉間に皺が寄ってますよ」
「う、うるさい! ……テレジアがシンクレールを餌にしてわたしたちをおびき寄せようとしてるかも、って思っただけよ」
「ふむ」ヨハンは顎に手を当て、首を傾げた。「なら、いくらでもチャンスがあったでしょうな。橋を落とせば簡単に殺せますし、入り口に武装信徒を置けば楽に捕まえられるでしょう……。そうしないのは、なぜでしょうね」
「そんなこと……知らないわよ」
まったく見当がつかない。確かに、撃退するにしても捕縛するにしても機会は充分にあったはずだ。あえてそうしないのは油断だろうか。それとも、行動を起こすまでもないと考えているのだろうか。
ああ、駄目だ。考えても答えが出そうにない。思い込みや空想に囚われるだけだ。
「とりあえず、誰かに話でも聞きましょうか」とヨハンはとんでもないことを言う。
「わざわざテレジアの耳に入るような真似をするの!? それに、住民にわたしたちのことが知られてるかもしれないのよ?」
しかしヨハンは平気な顔で返した。
「住民に周知するくらいなら昨晩捕まえていますよ。それに、彼女の耳に入るかどうかは私たちの身の振り方次第です。仮にそうなったとしても、状況にさしたる変化はないと思いますがね……。なにせ、昨晩のことがありますから」
そうか。すでにテレジアはこちらのことを認識してる可能性が高い。姿かたちまでは知られていないと思うけど。
あえて泳がせているにせよ、関心がないにせよ、自由に行動出来るうちに情報を得ておくべきというわけか。
「分かった……けど、あなたに任せきりにはしないわ」
「信用出来ない、と?」
「そうよ。あなたの好きにさせたらどんどん状況をかき回すでしょう?」
「ええ、かき回します」とヨハンは臆面もなく言い放ち、不敵な薄笑いを浮かべて続けた。「ですが、最終的には勝ちが拾えるようなかき回し方をしますけどね」
そう言われると困る。確かに『最果て』では、一見わけの分からない作戦や交渉をしているように見えても、最終的には彼が正しかった。契約している以上、今もこちらが有利になるように物事を進めるつもりかもしれない。
だけど――。
「怪しいと思ったら止めるから」
「はいはい」
下草が足元でざくざくと音を立てた。風の唸りと牛の声が混ざり合って、平凡でおだやかな風景を彩っている。朝靄が晴れれば、きっと絶景が広がっているに違いない。
橋を渡ってからも傾斜が続いていた。前方は坂道になっている。まだ頂上とは呼べない位置なのだろう。街の中心部が頂点だとしたら、末端の草原地帯に人が見えないのも頷ける。畑がある以上、農民はいるのだろうけど。
人気のないのどかな道を歩いていると、なんだかぼんやりとしてくる。ああ、そうか。昨日は寝てないんだっけ……。
ヨハンは同調するように大あくびをした。
「ああぁ……眠たいですなぁ。気温も低くないですし。昼寝に最適な草原もあるときた」
「馬鹿なこと言わないで。そんな余裕どこにもないでしょ」
「冗談ですよ、冗談」
そしてあくびをもうひとつ。まったく、こっちの眠気まで誘わないでほしい。草原に寝転んだら気持ちいいだろうなぁ、なんて考えてしまったじゃないか。
「おや……誰かいますね」
「ええ」
真っ直ぐ進んだ先、畑のわきに建つ農具小屋のそばで人影が動いていた。小屋を覗き込んでごそごそとなにかを探している様子である。
ヨハンと顔を見合わせ、頷きを交わした。警戒されないように近付いて、可能な限りの情報を得てやる。もし叫んだりわめいたりするようなら――どうしよう。気が進まないけど、ちょっぴり深い夢を見てもらおうか。
そんなことを考えつつ、慎重に歩を進める。やがて小屋をあさっていた人物は動きを止め、こちらを振り向いた。初老の男性である。顔付きは柔和で、働き者らしくごつごつとした体躯をしていた。
数メートル先まで近づくと、ぺこりと頭を下げて笑いかけてみた。「おはようございます」
相手がどう出るかは分からないが、当たってみるしかない。シンクレールを見つけ出すために。そして――テレジアを討つために。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『拡大鏡』→空間の一部を拡大する魔術。ヨハンが使用。詳しくは『306.「拡大鏡」』にて
・『キュラス』→山頂の街。牧歌的。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、『フロントライン』と呼ばれる。勇者一行のひとり、テレジアの故郷。
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




