310.「そして頂へ」
あまりに奇妙な物事が起こっていた。橋へ現れなかったシンクレール。遥か離れた距離にもかかわらずこちらに視線を送ったテレジア。襲う気配を見せないギボン。そして、彼らが口にしたシンクレールの名。
焦りが油断を呼んだ……というわけではない。むしろ何物をも逃さないくらい神経が昂っていた。にもかかわらずグールに囲まれてしまったのは、ひとえに数の問題である。
「一気に増えましたね……やれやれ」
ヨハンはうんざりした口調で呟いて足を止め、迫りくるグールをナイフで裂く。
「本当に困るわ」
魔物の出現量は決して一定ではない。急激に増加することだって今まで何度も経験してきた。
次々と敵を切り裂いて蒸発させていたが、連中の数は衰えない。こちらが倒す数と新たに出現する数がほとんど拮抗している。無理に突破しようとしたら爪や牙の餌食になることが目に見えていた。平地ならまだしも、木々の生い茂る山中でそんな無茶は出来ない。
「これじゃ全然進めないじゃない……!」
一刻も早く街道へ出なければいけないのに。道中でシンクレールに会えるかどうかは分からなかったが、なんにせよテレジアよりも早く彼を見つけ出さなければ大変なことになる。山中でひとり魔物と戦う魔術師を、彼女が放っておくはずがない。
「仕方ないですよ。今は目の前の敵に集中しましょう!」
分かってるけど……。焦りがつい口に出てしまうのだ。
グール相手の戦闘に関してはまったく問題なかった。たとえ慣れないナイフであっても、連中をさばくことくらい造作ない。気になるのはやはりギボンの存在である。奴らはシンクレールの名を呼んだきり、少しも鳴かなくなってしまった。気配が薄いので、今も樹上にいるのかどうか判断がつかない。
暗闇に浮かぶ『魔猿』の目を想像して、なんとも薄気味悪く感じた。汗が額を流れる。
グールの爪を避けるべく後退すると、背に骨ばった感触が広がった。振り向くと――同様に後退したのだろう――ヨハンと背中合わせになっていた。
絶対に背中を預けたくない相手に、こうして背中を合わせてしまっている。思わず歯を噛み合わせた。
「夜明けまでこの状況が続きますかね?」
ヨハンはなにも気にしていないかのように呟く。その態度も腹立たしい。
「さあ、知らないわ。だとしても戦うしかないでしょ」
「背中は任せましたよ」
「うるさい」
仲間みたいに振る舞わないで、と叫びたくなる思いをぐっと呑み込んだ。そんなことを口にする意味なんてない。彼は契約に従ってこちらに協力している立場なのだ。態度としてはきっと正しいんだろう。けど……。
少し前にとんでもない裏切りを仕出かしたことなんて忘れたような――『最果て』の旅と同じ振る舞いを見せつけられると悔しいじゃないか。具体的になにが悔しいのかははっきりしないけど、たぶん、わたし自身の弱さに由来するものなのだろう。
不愉快で憎たらしい相手。けれど、そんな存在を上手く扱えないとこの先やっていけない。
決めたんだ。ニコルを倒すためにはなんでも利用してやるって。
グールへと突進し、その身を次々裂いていく。夜闇を揺らす魔物の唸りが、絶えず響いていた――。
薄闇のなか、呼吸を整える。もう魔物の気配は消えていた。グールもギボンも、夜とともに去っていったというわけだ。
「結局一歩も動けませんでしたね……」
疲労たっぷりのヨハンの声が、薄闇にゆらゆらと漂う。
「仕方ないでしょ。早くシンクレールを探さなきゃ」
「お嬢さんの体力は底なしですなぁ」
「うるさい。……底なしじゃなくて、体力に気を使ってられる状況じゃないのよ」
座り込んで小休憩をするくらいなら、少しでも前に進みたかった。今シンクレールはどういう状況で、テレジアはどこにいるのか。魔物という脅威は去ったが、まだなにも終わっていない。
「結局ギボンは攻撃してきませんでしたね」
「ええ。いったいなんだったのかしら」
いつ未知の攻撃がやってくるか警戒していたのだが、ついぞギボンは姿さえ見せなかったのだ。拍子抜け、と楽観視することなんて出来ない。むしろ、この異常が気になってならなかった。連中が口にしたシンクレールの名も、いったいなんなのか……。
「なんでシンクレールのことを知ってたのかしら……」
「さあ、見当もつきません。私たちの言葉から拾ったんでしょうか」
「だとしたら、ほかの言葉だって口にするわ。それに、一度耳にしただけであんな正確に発音出来るくらい流暢な魔物じゃないでしょ?」
それを言われると困る、と言わんばかりにヨハンは顔を歪めた。
「確かにそうですが……。どうも現実は、私たちの想像がおよばない物事に満ちているようですね」
それは百も承知だ。『最果て』で味わった様々な物事もそうだし、なにより、ヨハンの正体自体が想像のおよばない異常だった。
「……『黒の血族』はあなたくらい巧妙に気配を消せる奴がほとんどなの?」
ヨハンは肩を竦めて苦笑した。
「個体によります。確かに私や魔女は血族の気配を消せますが、ほかの連中も同じとは言えませんから。一枚岩ではないんですよ。特に私のようなハーフと純血とでは差があります」
それはそうだろう。血の濃さがすべてだとは思わないけど……。
「キュラスに血族がいたら……」
嫌な想像が、つい口からこぼれてしまった。テレジアはニコルの仲間であり、したがって魔王とも関係している。ならば、『黒の血族』がそばに潜んでいたってなにひとつ不思議ではないのだ。
「そのときは……命がけになりますなぁ」
ぼそり、と気乗りしない口調で呟いたヨハンの横顔は、少しもおどけていなかった。彼もまた、その可能性を考えていたのかもしれない。わたしが思うよりもずっと前から。
やがて道はなだらかになり、藪を突破すると急に視界が開けた。斜度のきつい坂が真っ直ぐに伸びている。
「街道まで出てしまいましたね……」
お世辞にも整った道とはいえなかったが、それまでの山道と比べると雲泥の差である。そして街道は、魔術なしの馬車だと登れないほどの角度だった。往来がないのも頷ける。これでは交易しようにも徒歩しか手段がない。
周囲を見渡しても人影ひとつ見つからなかった。白んだ空に朝鳥の歌が響いている。鷹や鳶らしき伸びやかな声もした。
「シンクレール!!!!」
叫ぶと、ヨハンがびくりと身を震わせた。知ったことか。
「ちょ、お嬢さん、ここは敵地のそばですよ? そんな大声出したら……」
危険だ、と言いたいのだろう。そんなことよりも大事なものがあるんだ。ヨハンには想像も出来ないくらい、大事なことが。
シンクレールはわたしを信じて、絶望的な状況で味方になってくれた。彼は間違いなく、わたしにとって本当の仲間なんだ。
シンクレールをひとりで行かせたのは戦略としては正しかったのかもしれない。けれど、こうなってしまったらそんな正しさなど吹き飛んでしまう。
「ヨハン」
「なんですか? また無茶なことを思いついたんですか?」
「違うわ。認識を合わせておきたいだけ。あなたは――次にどう動くべきだと思ってるの?」
すべき行動は決まっていた。それがヨハンのプランと一致しているのかを確かめたいだけである。
彼は例のごとく油断のならない笑みを浮かべて、滔々と語った。わたしが頭で考えていることとまったく同じプランを――。
谷に渡された橋は、間近で見るといかにも頑丈だった。張られた縄も、足場となる板も、こまめな修繕が見られる。
視線を上向けると、橋の先では岩山に囲まれて、のどかな草原が広がっていた。草原は傾斜になっているようで、その先に家屋の頭がいくつか見えている。
吹く風は絶えず髪を揺らしていた。
「行きましょう」
わたしの横で、ヨハンが頷きを返す。今後取るべき方法はすでに決まっていた。なにひとつ迷うことなどない。隣にいるのが敵にもっとも近い味方であっても。
頂の街、キュラス。別名フロントライン。その第一歩を踏み出した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『フロントライン』→山頂の街キュラスの別名。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、そう呼ばれている。




