309.「木々渡る声」
夜の山道は早足で歩くことさえ危険である。一寸先の闇が崖になっているかもしれない。刃のごとく切り立った岩に肌を裂かれるかもしれない。有毒の植物に触れて数日は癒えない傷を負うかもしれない。そしてなにより、猛獣よりもずっと危険な魔物が夜のしじまに息を潜めている。しかし、決して足を止めなかった。それどころか、早足というよりは駆けていると表現するほうが正しいくらいの速さで進み続ける。
魔物の気配と、目先の足取り。どちらの注意もおろそかにしてはいけなかった。精神は加速度的に消耗しているはずなのだが、集中力は却って冴えていく感覚がある。理由は明白だ。
もうとっくに橋を渡っているはずのシンクレールが、いまだに姿を見せていない。となると、山道でなにかあったに違いないのだ。道に迷った程度であればいいのだが、万が一ということもある。
それに――。
「テレジアは攻撃魔術を使えるのかしら」
キュラスの『教祖』テレジア。彼女の存在がどんどんわたしを焦らせていく。
「さあ、分かりません。一緒に旅したわけではありませんからね。……しかし、サポートだけというのは考えづらいですよ。魔王の城までの道のりには多くの困難がありますから。それこそ、彼女ひとりで切り抜けた夜もあったでしょうなぁ」
非戦闘員であれば、と思ったが甘い見通しか。治癒魔術と攻撃魔術を併用しているのなら、その脅威は計り知れない。……シンクレールが心配だ。
「しかし、別の考え方も出来ます」
「別の考えって?」
会話に意識を集中させている余裕はなかったが、話題が話題だ。無視するわけにはいかない。
ヨハンは一拍置いて、静かに続けた。
「彼女が脅威であればあるほど、ニコルさんの動脈とも言えるわけです」
ニコルの動脈……。妙な表現だったが、要は彼の計画になくてはならない人物である可能性が高い、というわけだろう。
神経がぴりりと引きしまる。テレジアを倒すことで最初の狼煙を上げることが出来るはずだ。元勇者への、反撃の狼煙を。
「近い。気をつけて」
魔物の気配がそこかしこでしている。どんどん数を増し、ほとんど行く手を阻むかのようだ。
「承知しました。軽い相手なら無視して進みましょう」
「ええ」
グールごときなら相手にするまでもない。こんな山中であれば放っておいたところで影響もないだろうし。
問題は小回りの利く素早い魔物だ。そして、狡猾であればあるだけ障害になる。
前方三メートルの位置に気配を感じ、ナイフを握りしめた。気配自体は大したものではない。グールだ。
鋭い爪が闇のなかでわずかな光を反射していた。牙もまた、ぬらぬらと薄気味悪い輝きを見せている。ヨハンに目配せし、グールの爪をかわしてさらに前進した。連中ののろのろした動きなら、たとえ見通しの悪い山であっても大きな問題にはならない。
不意に、妙な音が空中に響いた。足をゆるめても、あたりにはグール程度の気配しかしない。
「なんの音かしら……」
囁くと、また音が響いた。言葉で表すなら『イイィ』という、音。人の声に似ている気がしなくもない。
「……ギボンの声です」
ぼそり、とヨハンは言う。その目は落ち着きなく周囲を睨んでいた。
ギボン。確か、山に入って最初の夜にヨハンが話した魔物だ。森に現れ、未発達なコミュニケーションを取る魔物。伸縮自在の手足を持つ、別名『魔猿』。実際に遭遇したことはないのだが、これほど気配が薄いとは思っていなかった。グールとほとんど見分けがつかないではないか。
「探して討ち取ったほうがいいかしら?」
「それが出来れば一番ですが、なにせ妙な魔物です。余計な時間を使うくらいなら進んだほうがいいでしょうね」
そう……なのだろうか。確かに迎え撃つとなればグールとの戦闘も避けられない。囲まれてしまったら街道に出る頃には夜明けかも……。
一旦は頷き、進むことにした。またも現れたグールをかわして、さらに先へと足を運んでいく。ただ、依然としてギボンらしき存在の声がしていた。おそらく、木々の上方から。ときおり、がさがさと枝を渡る音もする。
まだ襲ってはこないようだが、様子を見ているのだろうか。それとも、罠でも張っているのか……。考えれば考えるほど不安になってくる。ただでさえシンクレールとテレジアのことで頭がいっぱいなのに、ギボンまで現れるなんて……。
「解せませんね」
ぽつり、とヨハンが呟く。なにが解せないというのだろう。彼はこちらの疑問を察したように続けた。
「通常の魔物なら、もう襲いかかってきてもおかしくないです。いえ、むしろそれが自然でしょうな。ギボンだって例外ではありません」
「あなたはギボンに遭遇したことがあるの?」
「ええ、何度か。そのときも、こんなもったいぶった真似はしませんでしたよ。すぐに腕を伸ばして爪で裂こうとしましたからねぇ」
不愉快そうに彼が言う。だとすると、今の状況はギボンらしくないということか。魔物の出ないエリアもそうだが、どうにもこの山自体がおかしいように思える。そしてその異常にはテレジアが関係しているように思えて仕方がない。
「なんにせよ油断は禁物ね。……っと!」
グールが三体、目の前に現れたのでナイフで裂いた。一体は喉を、もう一体は腹を、そして最後の一体には蹴りを。気配で察知出来たのでなんてことはない。絶好調というわけではないが、身体は自然と戦闘状態に入ってくれていた。王都での夜間防衛の経験でもっとも大きいのは、戦闘態勢へのスムーズな移行だろう。ある程度集中出来ていればすぐにスイッチを入れることが出来る。そうじゃないと魔物の餌になってしまうから。
「相変わらず見事な身のこなしですねぇ。心強い」
「どの口が言うのよ」
ふん。『黒の血族』のくせに。わたしよりもずっと能力が高いくせに。そうやって飄々としているのが元々の性格なのだろう。まったくもって腹立たしい。
「イイィ」
不意に、真上からギボンの鳴き声がした。思わずびくりと身体が震える。そういう不意打ちはやめてほしい。
――が、攻撃はやってこなかった。身構えたのだが、気配が濃くなることもなければ手足が伸びてこちらに接近するということもない。そもそも、連中の姿がまったく見えないのである。葉陰と夜闇にすっぽりと身を隠しているのだ。もしかすると、それを計算しているのかもしれない。
「――シ」
なんだろう、音が変わった。鳴き声にバリエーションがあるということだろうか。
ああ、そうか。奴らは未発達なコミュニケーションを取るという話だったっけ。だとすると、様々な音を発声出来ても不思議ではない。
「気を取られても仕方ないです。行きましょう」
「そうね」
ヨハンに促されて再び足を進めようとした瞬間である。思わず、一歩踏み出して止まってしまった。今度はもっとはっきりと、妙な声が聴こえたのである。
「――シンク」
嫌な予感が全身を駆けめぐる。ギボンはなにを言おうとしているのか。想像はどんどん逞しくなり、やがて連中の声とシンクロした。
「――シンクレール」
どうしてギボンがその名を知っているのか。確かに、わたしとヨハンは彼の名前を口にしたかもしれない。しかしながらその声は、ただの鸚鵡返しにしてはやけにピンポイントで、そして間違いのない抑揚を持っていた。
「どうして……」
呆然と立ち尽くし、言葉が漏れ出た。なぜ連中がその名前を正確に発声出来るのか。そこになんらかの理由――途轍もなく不吉な理由を感じないわけにはいかない。
「お嬢さん。奴らの言葉に惑わされてはいけません。心を読めるのかもしれませんし」
「気休めを言わないで」
読心術なんてどこにも存在しない。魔術でも呪術でも、それこそ魔物にしかない特殊な能力であっても、そんな異様な力は存在しないはずだ。百歩譲ってあったとしても、ギボンが彼の名を口にする意図が読めない。単に揺さぶるだけにしては大袈裟だ。足を止めるくらいの効果しかないだろう。
分からない。どれほど考えようとも、答えは見つけられそうになかった。なら、出来るのはひとつだ。
「……進みましょう」
「賢明な判断です。今は時間が惜しいですからね」
不気味な声はそれ以降、シンクレールの名を呼ぶことはなかった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




