305.「高山蜂と茜の山頂」
グワングワンと大量の羽音が鳴り響く。道の先には毒を持った高山蜂の、大切な住処。避けて通れる箇所ではない。刺激しないように通過するにしても、すぐ真下の崖に巣がある以上、望みは薄いだろう。
「まいりましたね」
ため息交じりにヨハンが呟く。
「ねえ、シンクレール。あの巣を丸ごと凍らせたり出来るかしら?」
ほとんど唯一の方法がそれだった。巣と、その周囲を飛び交っている高山蜂の両方を氷漬けにしてしまえば襲われることはない。巣は両手で抱えきれるかどうかといったサイズだったが、凍らせられない大きさではないだろう。
「出来なくはないけど、僕らが進む足場にも影響が出るかもしれない。なにせ、ほとんど足元にあるような位置だから」
確かにそうだ。万が一足を滑らせたら真っ逆さまである。助かる見込みなんてない。
「けど、それしか方法がないわ。ヨハンにアイデアがあるなら別だけど」
「いえ、私には気の利いた突破方法はありません。ここは危険を承知でシンクレールさんの魔術になんとかしていただきましょう」
やはりどうにも出来ないか。シンクレールはヨハンに頼られて少し顔をしかめたが、それどころではなさそうである。なにかほかの懸念があるのだろうか。
「どう? やってくれる?」
「うん、かまわないけど……」
「けど?」
促すと、シンクレールは困り顔で呟いた。「もし、あの巣に戻る別の蜂がいたら、そいつまで手が回るかどうか……」
巣を凍らせるので手一杯というわけか。本来のシンクレールのポテンシャルなら巣だろうと別の蜂だろうと難なく凍らせられるだろうけど、今の彼には難しそうだ。ただでさえ悪い足場をさらに気をつけて進まなくてはならないし、加えて本人も蜂が苦手ときている。その青ざめた顔は、普段通りの魔術を使えるような状態ではないことを示していた。
「ヨハン、ナイフを一本貸してくれない?」
「かまいませんが……別の蜂にはナイフで応戦するんですか?」
「仕方ないじゃない。もしシンクレールの魔術で間に合わなかったら刺されるだけよ。だったらナイフでもなんでも、抵抗したほうがいいわ」
高山蜂を正確に切り裂けるかどうかは怪しいけど、なにもないよりはいい。
……いや、もっといい方法があるじゃないか。
「ヨハン。そもそもあなたが遅延魔術で高山蜂の動きをゆるめればいいんじゃないの? その隙に危険地帯を抜けるか、寄ってくる蜂を切るかすれば問題ないわ」
「それも方法ではありますが、四方八方から来られたら対処出来ません。ある程度はなんとかなりますが、あまり期待しないほうがいいですよ」
なら仕方ないか。なんにせよ、危険であることに変わりない。
「じゃあ、行きましょう」
四つん這いになり、少しずつ進んだ。羽音は危機感を煽り続ける。じわじわと近付く巣が、なんだかおぞましい。木切れを寄せ集めて丸めたような巣は、こうして見ると不安を感じてしまう。ロジェールの家で食べた巣はあんなにも甘かったのに、崖に作られて今も蜂の住処となっているそれはまるきり別物みたいだ。
残り五メートルほどのところで、シンクレールの息が聴こえた。深く、長い吐息。集中の表れとしての深呼吸――。
「氷の矢!」
その叫びがした直後、巣の真上に巨大な氷柱が出現し、そのまま標的へと打ち下ろされた。巣が硬質な音を立てて崩壊し、崖下へと消えていく……。そして大量の高山蜂がこちらへと接近するのが見えた――。
「氷獄!」
またもシンクレールの短い叫びが響き、冷気を感じた。
氷獄? 氷獄は確か、対象を氷の箱に閉じ込める魔術のはず。そして、見る限り対象は蜂ではなく――。
思わず振り向くと、彼は申し訳なさそうに顔を背け――そしてなにも分からなくなった。
視界が戻ると、思わず身震いした。
寒い。とんでもなく寒い。吹きすさぶ風が冷気を持っているのではなく、シンクレールの魔術の余波が身体に残っているのだ。
「ごめん……」
四つん這いになったシンクレールが、いかにも申し訳なさそうに呟いた。彼の後ろでヨハンが呆れ顔を浮かべている。
高山蜂の姿はないし、羽音も聴こえない。先ほどまであった巣も消えている。目的は達成した状況だが、どうにも腑に落ちなかった。話が違う。
本来は巣だけを凍らせて、その真上を通過するという算段だった。けれどもシンクレールは巣を叩き落とし、襲い来る高山蜂には氷獄――つまり、わたしたち全員を氷漬けにして対処したのである。
「なんとかなったからいいけど……どうして方法を変えたの?」
咎めるような口調にならないよう、気をつけて発した。けれどもシンクレールは委縮したように俯いている。
「……巣に近付くにつれて、あのそばを通るのが……その……」
「恐くなった、と?」
ヨハンがあとを引き取った。彼はなんでもないような口調である。ヨハンとしては、切り抜けられさえすればいいのだろう。
シンクレールは意外なくらい素直に認めた。「うん……。氷漬けにして悪かったよ……」
高山蜂が消えていたからよかったものの、残っていたらどうしたのだろう。かなり不安定な戦略ではあったが、ともあれ、彼の力で切り抜けられたのは事実である。そして、しょんぼりと俯く彼を見ているとこっちまで申し訳ない気持ちになってくる。
「大丈夫よ。あなたの力で解決出来たんだから感謝してるわ。けど、今度からは事前に教えてね」
「お嬢さんの言う通りですよ。シンクレールさん、お手柄です」
「けど――」と言いかけたシンクレールの肩を叩いて立ち上がった。いつまでも気落ちしてほしくないし、なにより今は時間が惜しい。
「それじゃ先に進みましょう。蜂が来ないとも限らないから」
蜂、と聞いて焦ったのかシンクレールも勢いよく立ち上がった。本当に心の底から苦手なんだなぁ……。
「それにしても」とヨハンは歩きつつこぼす。「どれくらいの時間、氷獄のなかに閉じ込められていたんでしょう」
空模様ははっきりしないので時間の経過は分からなかった。確かトリクシィが氷獄から解放されたのは二十分足らずだったか。それくらいの時間なら許容範囲内だが――。
「正確じゃないけど、およそ二時間」
思わず顔が引きつってしまった。二時間。そうか、トリクシィはやはり例外なのだろう。シンクレールの氷獄が自然に解除されるまでの時間がそれくらいというわけか。そうなると今は午後を回っている。
「気を落とさないでいただきたいのですが、少し急ぐ必要がありますね。夜になる前にキュラスに潜入しなければなりませんから」
ヨハンは真剣な顔で言う。
ロジェールの言葉を思い出して、納得した。確か彼は、街道付近は今も魔物が出現すると言っていたっけ。山中は安全だとしても、キュラスの周囲をぐるりと囲った谷までそうかといえば微妙だ。キュラスに入るルートが複数あるにしても、夜間は避けたい。『教祖』テレジアと魔物の両方を相手にするなんて、あまり考えたくないから。
シンクレールもそれを理解したのか、申し訳なさそうな顔つきのまま歩を早めた。あまり気にしてほしくはないけど、まあ、楽観出来るわけではない。山でもうひと晩過ごすという手もあるけど、そう悠長にかまえてもいられないだろう。ロジェールが教団内部の人間とコンタクトを取ってわたしたちのことを報告したかもしれない。たとえ盗賊という立場であっても、教団側の疑念が強ければ山狩りされるかもしれないのだ。
歩みは早いに越したことはない。
やがて道の半分は、崖ではなくなった。足場が悪いのは相変わらずだし木々を縫って進むのも困難ではあったが、確実に近付いているだろう。
空は壮絶な橙色に染まっていた。山頂に近いからこそ鮮やかなのだろうか。なんにせよ、焦りが心の中心にあった。
藪を抜け、木々を縫い、傾斜を踏み歩く。
濃い茂みを抜けたところで、思わず「あ……」と息が漏れた。
足を止めたわたしの隣に、シンクレールとヨハンがそれぞれ並び立つ。
底の見えない谷の先に、一段高い岩山がそびえていた。木々の枯れ果てた岩山の先、霧に覆われた建物が見える。全貌は分からないが、明らかに人工物だ。
頂の街、キュラス。
またの名を――フロントライン。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『氷の矢』→氷柱を放つ魔術。初出は『269.「後悔よりも強く」』
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。詳しくは『270.「契約」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『フロントライン』→山頂の街キュラスの別名。魔物に滅ぼされていない末端の街であるがゆえに、そう呼ばれている。




