304.「朝靄の山並み ~君さえよければ~」
その晩も魔物は出なかった。ロジェールのことを完全に信じていたわけではないし、ヨハンの言葉も同様だったが、この地で魔物が出現しないのは本当らしい。
ヨハンとシンクレールはまだぐっすりと寝入っている。わたしはというと、大岩に腰かけて景色を眺めていた。おあつらえ向きに木々が開けている。朝靄で白く煙る山並みを見つめながら伸びをすると、背骨がポキポキと鳴った。頭がぼんやりとして、危機感が多少薄まっているような感覚がある。
それもそうか。魔物以外の脅威といえば高山蜂くらいだ。まだキュラスへは距離があるので、信徒に遭遇する可能性はほとんどないだろう。まあ、彼らがどういう生活をしているのか分からないけど……。
地平の空気と比べると、早朝の山で吸うそれは透明に澄んでいるような気がする。不思議な感覚なのだが、空気が美味しい。
立ち込める靄の先で輪郭だけになった景色は、幻想的な雄大さでたたずんでいる。朝鳥も幻想のなかからさえずっているような雰囲気。心が洗われていく、と言うと変だけど、まさにそんな気分だった。二日間水を浴びてない事実はげんなりしてしまうけど……。
「おはよう、クロエ」寝ぼけ眼をこすりつつ、シンクレールが隣に腰かけた。「なんだか寝ぼけてるみたいな景色だね」
朝靄のヴェールをまとった山並みをそんなふうに表現するとは……。シンクレールは繊細なタイプであるのは間違いないけど、美的センスはあまりないらしい。思わず苦笑してしまった。
「おはよう、シンクレール。まだ眠そうね」
「いや、平気だよ。山全部凍らせることだって出来るくらいバッチリさ」
「あなたも冗談なんて言うのね」
「そりゃあ、ね。騎士だったときは緊張しっぱなしだったけど、今は少し楽なんだ」
意外だ。状況からいえば、騎士だった頃よりも随分と過酷なのだが。
「騎士時代から気さくだったら、もう少し友達が多かったかもね……お互い」
騎士だった頃、わたしもシンクレールのことをあれこれ言えないくらい張り詰めていた。もちろん、共闘相手のことやほかの騎士団員のことは信頼していたけど、気楽に言葉を交わすことなんてほとんどなかったのだ。いつどちらが消えるとも分からない日々。だからこそ、深入りを避けていたのかもしれない。
「僕はクロエだけでいいよ」
シンクレールはいまだにぼんやりした調子で言う。その言葉の本意が色恋じゃなければいいけど……。
なんて答えていいか分からずに困っていると、彼は言葉を続けた。
「こんなときにこんなことを言うのは間違ってるかもしれない。けど、今しかないような気がして……。もし、君さえよければなんだけど――」
ついに来たか、と身構える。好意を向けられるのは嬉しいけど、はっきりさせておくべきだろう。今は恋だ愛だにうつつを抜かしていい状況じゃないし、なにより、もう二度と恋愛なんてしたくない。どう答えればシンクレールの傷が浅く済んでくれるか、それが問題だ。
彼は意を決したように真剣な表情で――。
「僕が途中で死んだら、骨のひとかけらでもいいから王都に埋めてくれ」
……一瞬思考がフリーズする。色恋だのなんだのと考えていた自分が恥ずかしい。
そうだ。シンクレールはわたしと一緒に魔王を討つと決めたんだ。それはつまり、道半ばで倒れることまで含まれているのだろう。そこまでの覚悟をしてくれたのか……。
シンクレールは王都で生まれた、と以前聞いたことがある。両親とは早くに死に別れ、王都内の孤児院で育ち、魔術訓練校を経て騎士になったらしい。『僕にとっての親は、三人いるんだ。本当の両親と、孤児院の人たち、そして魔術訓練校の先生』いつだったか彼がこぼした言葉だ。多くの王都民と同様に、彼の人生は都にあったのである。それがこんなことになるなんて夢にも思わなかっただろう。
「……故郷だもんね」
なんとか声を絞り出す。するとシンクレールは儚く頷いた。白い靄に注がれたシンクレールの眼差しは、山並みよりもずっと遠くの風景を思い描いているようだった。
「うん。ずっとあの土地しか知らなかったから。最期も、出来れば王都がいいんだ。……ああ、気を悪くしないで。クロエの味方になったことをあれこれ言うつもりはないんだ」
ただ、いつかは帰りたいな。彼はそう付け加えた。胸がしめつけられるくらい、透き通った微笑で。
いつかは帰りたい、か。たとえ骨になったとしても、ということだろう。そんな未来はごめんだけど、彼の意思は尊重したい。
「分かったわ。約束する。けど――絶対に生きて帰りましょう。今はこんな状況だけど、いつか全部の疑いが晴れるから。胸を張って帰れる日が、絶対に……」
「ありがとう。やっぱりクロエは優しいね」
そんなふうに言われても困る。優しいんじゃなくて、責任だと思ってるだけだ。
「空気が美味しい」とシンクレールは呟いて、目をつむった。ひとつ、胸のつかえが取れたような具合に。
視界は幽玄な白に覆われ、時間はゆるやかに過ぎていく。
「おはようございます。いやあ、お二人とも早起きですなぁ」
ふわふわと落ち着かない抑揚の、ヨハンの声が聴こえた。振り向くと、眠そうにゆらゆら揺れる不健康な姿がある。彼はわたしの隣に腰かけると、大きなあくびをひとつ。シンクレールが腕を組み、口を堅く結ぶのが見えた。
「『黒の血族』も寝起きはぼんやりしてるのね」
「その点は人と変わらないですからねぇ。さてさて……」
ごそごそと鞄をから取り出したのは例の地形図だった。それを広げると、彼は確かめるように指を這わせる。
「今はこの地点ですから……キュラスまでずっと登りですなぁ。どんどん標高が高くなって、いずれキュラスを隔てる谷に出ます。正確には分かりませんが、今日中にたどり着けるかもしれませんね」
なんともアバウトな計算だけど、仕方ない。
「しっかり目を覚ましたら出発しましょう。ぼんやりしたままだと危険過ぎるわ」
注意力不足で転落、なんてことになってほしくない。
「僕は大丈夫だよ」とシンクレール。
「私も問題ありません。眠気と油断は別ですから」とヨハンは妙な主張をした。そもそも眠気と油断を分離出来るとは思えないけど、まあ、彼のことだ。転落しそうになったら妙な魔術でなんとかするだろう。
「じゃあ、出発しましょう――キュラスを目指して」
三人が同時に立ち上がり、道なき道を進みはじめた。相変わらず左側は開けた崖になっている。ふと覗き込むと、なんだか眩暈がした。昨日よりも崖が険しく迫っているように思える。
歩けるスペースはぎりぎりひとり分で、風も強い。シンクレールのローブが激しくはためく音がして、少し不安になった。
「昨日よりも風があるから気を付けてね」
「大丈夫さ」
心配ではあったが、風がやむことなんて期待出来ない。危険を跳ねのけるくらい確かな集中力で進むだけだ。
しばし歩いていると、風音に混じって妙な音が聴こえた。小さいけど、それまで耳にすることのなかった異音。機械の唸りに似た――。
「気をつけて……高山蜂の羽音がする。これ以上音が大きくなるようなら、伏せてやり過ごしましょう」
「ええ、分かりました」とヨハンはやや緊張した声で返したが、シンクレールはなにも答えなかった。見ると、心底不安そうな顔をしている。
「大丈夫よ、シンクレール。あなたなら魔術で撃退出来るし、身体を低くしていればそもそも襲われたりしないから」
「なんだか蜂って……苦手なんだよね」
そう返す彼の声は、文字通り震えていた。心から蜂が苦手なんだろう。
慎重に進むうちに、前方に妙なものが見えた。羽音はいつの間にか数を増している。遥か先――わたしたちが通過すべき箇所のすぐしたの崖に、こんもりと丸いものがあった。その周囲を飛び回る黒い影も……。
「あれって……」
シンクレールが絶望的な声を上げる。
「ええ、高山蜂の巣に間違いないわ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




