299.「空中散歩」
キュラスに向かう森。晴天の下、わたしたちは遠ざかる木々を見下ろしていた。
「こんなに上手くいくだなんて……」
我ながら想定以上だ。隣で集中するシンクレールを見つめ、ひと安心した。ロジェールはというと、嬉しそうに装置をいじっている。
見上げると、気球の破損箇所はシンクレールの凍結魔術でしっかりと補修されていた。このまま維持出来ればなにも問題ない。三人ほど乗れるスペースに四人が収まっているのだから窮屈だけど、それ以上の達成感があった。
「このまま風に乗って進めば、ぼくの工房あたりに行けそうですね。工房といっても、ただの家ですけど」
そう言ってロジェールが指さした先には、木々の開けた場所に一軒の家がぽつりと建っていた。それほど距離はないし、風もそちらの方角に流れている。
見上げると、装置が轟々と唸りを上げて火炎を吐いていた。こんな技術が存在することが驚きである。気体を膨張させれば飛べるだなんて、どんな生活をしていたら思いつくのだろう。
「いい眺めですねぇ」とヨハンは呑気な声を出す。
確かに眺めは抜群だ。けれどもやっぱり不安である。まだ昼間とはいえ、どこかから厄介な魔物が現れないとも限らないし、突然落下する危険もあるのだ。それこそシンクレールが気をゆるめたら一巻の終わりだろう。
気球の修繕箇所は今のところ問題なさそうだった。氷の魔術とはいえ熱で温められている以上、加速度的に溶けるのが自然だ。魔力を注ぎ続けてなんとかかたちを維持しているのはひとえにシンクレールのおかげである。
「あと少しで家の真上まで行けますから、それまで辛抱してください」とロジェールが声を張り上げる。
シンクレールは小さく頷いただけで、口元を引きしめていた。
遥か先に見える地平。イフェイオンの窪みが信じられないくらい小さく見える。小指でほんの少しへこませたくらいの大きさだ。その先に、これまた随分とちっぽけになった街が見えた。周囲を堅固な壁に囲まれ、手厚い保護を受けた都。そこでは今も大勢の人たちが忙しく靴音を鳴らしているのだ。商人の声が大通りに響き渡り、馬車の軋みが行き来する。甲冑姿の近衛兵や、赤ら顔の酔っぱらい。子を負った家政婦や、研究熱心な学徒。そして、夜に備えて緊張の吐息を漏らす騎士たち。
あらゆる人が同じ空で繋がり合っていると思うと、少し寂しい気分になった。
わたしが今まで尽くしてきた王都は、もはや戻ることの出来ない場所になった。ヨハンの裏切りを受けてから何度も繰り返し想ったことだったが、こうして地平線の先にちょこんと転がる都を見ると、どうしても郷愁に似たなにかを感じてしまう。これは運命だ、と割り切れる日が来るだろうか。必然だったと祝福出来るときが……。
オレンジに染まった大地はどこまでも荘厳で、否応なく胸に迫ってくるようだった。ふと横を見ると、ヨハンも同様に夕日を眺めてなんともいえない表情をしている。言うまでもなくいつもの不健康な顔だったが、愉快さとは程遠い表情だ。
彼から目を逸らし、夕日に目を向ける。
こだわりなくヨハンを許せる瞬間なんて、きっと来ない。そんなふうに思って、唇を噛んだ。
宙に浮いてから二十分ほどだろうか。気球は高度を下げ、無事ロジェールの家へと到着した。
思ったよりも強い衝撃とともに着地すると、シンクレールがぐったりと深い息を吐き出した。
「本当に助かりました! どうお礼していいのやら……」
「お礼なんていいさ。……家で少し休ませてくれたら助かるけど」
シンクレールは疲労たっぷりの声で返したが、その顔は爽やかな達成感で満ちていた。
「いくらでももてなしますよ! とはいっても、ご馳走なんてありませんが……」
「少し休憩させてもらえるだけでもありがたいわ」
この状態で先に進むわけにもいかない。ヨハンの横顔をちらりと見たが、特に異論はないようだった。
「狭い家ですが、案内します」
ロジェールは気球の片付けもそこそこに、家を手で示した。二階建ての木造建築である。尖った屋根で、全体的に縦長なフォルムが特徴的だった。家というか、大きめの小屋に見える。
「たったひとりでこの家に?」
聞くと、ロジェールはすんなり頷いた。「ええ。別に寂しいとも思いません。夢のためなら孤独なんて平気ですから」
強い人だ。なにがあっても折れない心があるのだろう。
「食事はどうしてるんですか?」
ヨハンは不思議そうに首を傾げた。
「森で山菜なんかを採って生活していますよ。詳しいことはなかでゆっくり話しましょう」と言ってロジェールは家へと歩き出した。そういえば彼も、ひと晩谷底で過ごしたのだ。疲れていないはずがない。
家のなかは思ったよりも広かった。ただ、そこかしこに用途の分からない工具や機械類が転がっている。
「すみません、散らかっていて。なにせ人を入れることなんて滅多にありませんから」
案内されたリビングにはささやかなテーブルがひとつに、いくつかの木箱、そしてやはり機械類が放置されていた。ロジェールは申し訳なさそうに、木箱に座るよう促す。そして、いそいそと機械を移動させた。
ようやくまとまったスペースが生まれると、木箱に座って四人、顔を突き合わせた。
「職人の家ですなぁ」とヨハンが感心してあたりを見回している。機械や工具で溢れているので賑やかな印象ではあったが、家具は少ないようだ。
「奥にベッドがありますから、休まれますか? ぼくの寝床で申し訳ないのですが……」
控えめに進言するロジェールに、シンクレールは首を振って辞退する。「座っているだけで楽だから、大丈夫」
先ほどよりは回復しているようだったが痩せ我慢のようにも見える。繊細なくせに変に強がりなんだから困りものだ。
「休めるときに休んだほうがいいわよ」と言っても、彼は首を振って微笑むだけである。その顔にはひと仕事終えた心地よい疲労が広がっていた。
「気にしないでくれ。僕は却って気分がいいんだ。役に立てるのは嬉しいことだから」
殊勝な人だ。それを聞いたロジェールが、こっそりと目尻を袖で拭った。回収出来ないと思っていた気球を再び浮かせることが出来たのである。感動はひとしおだろう。
しっとりと温かな空気を破るように、ヨハンが咳払いをした。
「ロジェールさん。あなたのお力になれたことは私たちとしても喜ばしいことです。そこでひとつ、お願いなんですが……」
ヨハンの瞳は、いかにも油断のならないじっとりとした暗い輝きを放っていた。
「な、なんでしょう。本当にありがたいと思っていますので、ぼくに出来ることなら助けになりますよ……」
ロジェールは気圧された様子で口にしたが、その感謝は本物だろう。そこに付け込もうとしているヨハンは、いかにも汚い。そもそも気球を浮かせたのはシンクレールではないか。
たしなめようと口を開きかけたが、それよりも先にヨハンが言葉を紡いだ。
「まず質問を。あなたはいつからここで暮らしているんです?」
「ええと……数年前だったと思います」
すると、最近この家に住むようになったのか。森の一軒家でひっそりと自分の研究を続けていたのだろう。
そうなると、気になることがいくつかある。ヨハンがわたしを代弁するように、疑問を放った。
「夜はどうやって凌いでいるんです? そして、ここに住むようになったきっかけは? 元いた街は?」
矢継ぎ早に浴びせかけるヨハンに、ロジェールは目を泳がせて困惑を露わにした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『近衛兵』→グレキランスの王城および王を守護する兵隊。
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




