298.「夢の浮力で」
谷底で旗を振っていた男に手を差し伸べる骸骨。なんとも絶望的な光景である。絵画にすれば誰もがネガティブな印象を抱くだろう。しかしながらヨハンは男を陥れる存在ではなく――むろん、『黒の血族』として人類の敵ではあったが――救出者であることは確かだった。
「あ、ありがとう」
男は差し伸べられた手を取ると、弱々しく立ち上がった。まだ面食らっている様子である。
「あなたがたは……」と言いかけて、声が止まる。次に続く言葉がなかなか出てこないのだろう。
あとを引き取るように、ヨハンが口を開いた。
「私たちはただの旅人です。なに、魔物なんかじゃありませんからご安心を」
そういうあなたは魔物よりもずっと厄介な存在だけど、と思ったが口には出さなかった。
「ああ、助かります。遭難したような状況でしたから……。崖の上にあなたがたの姿が見えたとき、救い主だと思いましたよ」
男は恥じ入るように頭を掻いて、器用な笑みを浮かべる。警戒心はすっかり消えている様子だった。こんな場所に助けが来るなんて想像出来ないだろうに、あっさりこちらを受け入れるなんて……。元々そういう性格なんだろうか。
「ぼくはロジェールといいます」
そう言って、彼――ロジェールはわたしたちに次々と握手を求めた。彼の手は細長く繊細だったが、あちこちに傷があった。一朝一夕で作られたものではない傷が。
「こんな場所で遭難だなんて災難ね、ロジェール。でも、思ったより元気そうで安心したわ」
すると、シンクレールも同調の言葉を重ねた。「本当にそうだ。僕らが来なければ大変なことになっていたんじゃないか?」
違いない。こんな山奥をうろつく人間なんてそうはいないだろう。
「いや、ほんとに助かります……。それにしても、飛び降りて傷ひとつないだなんて凄いですね! やっぱり、その――魔術ですか?」
「ええ、ご推察の通りです」とヨハンが答えると、ロジェールは少し落胆したように眉尻を下げた。
「ああ、やっぱりそうですか。……魔術以外の技術ではないんですね」
「残念そうですねぇ。魔術以外にこんな芸当は出来ませんよ」
魔道具なら出来そうだが、それも結局は魔術の延長でしかない。この高さを降りて無事でいられる技術なんて王都にも存在しないだろう。
ロジェールは「うーん」と唸ってから口を開いた。「技術に天井はない、というのがぼくの信条です。――あ! ごめんなさい! せっかく来ていただいたのにこんなことを言うなんて! 気を悪くしないで下さいね」
「いいのよ。誰だってこだわりがあるんだもの」
「そう言っていただけると助かります」
彼は技術者なのだろうか。それも、魔術とは一切関係のない方面の。王都にも馬車職人だとか時計職人だとかがいたけど、彼らと似たような仕事をしているのかもしれない。
しかし、そんな人間が谷底で遭難しているとは……。そして、明らかに人工的な茶色の布と機械類はなんなのだろう。作業中に谷へ転げ落ちたとでもいうのか。
「それはそうと、どうしてこんなところに?」
怪訝そうにシンクレールが聞くと、ロジェールは苦笑を浮かべた。
「お恥ずかしい話ですが、空から落ちたんです」
は?
なんだそれは。
「どういうこと?」
思わず口を挟むと、ロジェールは弱々しい笑い声をあげた。
「ハハハ……すみません。昔から説明を省いてしまう癖がありまして……。その、どこから話せばいいのやら……」
それからロジェールは、ぎこちなく、ゆっくりと説明した。
気球。それを作り上げて各地をめぐるのがロジェールの夢であるらしい。気球なんて聞いたこともない言葉だったが、彼が言うには厚布の内部の空気を膨張させて宙に浮くのが気球という技術らしい。
気球で空の旅をしつつ世界の謎をどんどん解明していく、そんな夢。
ロジェールが言うにはまだ発展途上の技術ではあるのだが、宙に浮くのは成功したらしい。つい昨日ロジェールは初の有人飛行を試し、運の悪いことに浮力を失って谷底まで落下したとのことである。
思わずヨハンとシンクレール――二人と顔を見合わせてしまった。彼の言葉が正しければ、わたしたちが昨日見かけた宙に浮く物体はロジェールの気球ということになる。
魔物や敵側の仕掛けたなにかでなかったのは安心だが……それにしても信じられない。空中を進む技術が存在していたなんて。
「不思議に思うのも無理ないです。空は危険ばかりですから。わざわざ挑戦しようなんて技術者がいなかったのも当然かもしれませんね。……でも、そこで諦めたくないんですよ。危ないから、とか、どうせ上手くいかないから、とか……挫折する理由なんて山ほど見つけられます。けれども、ぼくは夢を見続けたいんです。笑われたってかまわない」
真剣な口調で締めくくると、ロジェールは照れ笑いをみせた。こんなふうに語ること自体、慣れていないのだろう。
事実として、空はいまだに開拓されていない領域ではあった。理由は彼が語った通りである。いかに危険であろうとも挑戦をやめなかった結果が空に浮く球体なのだとしたら、称賛してしかるべきだ。
「尊敬するわ。あなたのような人がいるから、きっとみんなが前に進めるのよ」
常識の殻に閉じこもらない存在だけが歴史を作れる――と考えるのは壮大過ぎるかもしれない。けれど、彼は事実として空へ浮いてみせたのだ。もしかすると目の前にいるのは、この先ずっと語り継がれるような先駆者かもしれない。そう思うと自然に胸が高鳴った。
「いやぁ、そんなに褒められると照れますね。笑われたことはあっても、褒めてくれた人なんていませんでしたから」
頭を掻いて顔を綻ばせるロジェールに、ヨハンがたずねる。
「そこにあるのが気球とやらですか?」
「ええ、そうです」
「たったひとりで作り上げたんです? それとも誰かお仲間が?」
「仲間なんてぼくにはいません。空への夢なんて誰も賛同してくれませんから」
……驚いた。ひとりきりでこれだけの装置を作り上げ、ある程度は目的通りに動かしたのか。
とんでもなく腕がいいし、夢に対する執念も尋常ではない。同じような印象を抱いたのか、シンクレールもヨハンも絶句している。
ロジェールの気球が一般化すれば『最果て』へ行くのだって随分と楽になるだろう。むろん、空の危険には対策が必要だが。
「やっぱり異常ですかね?」とロジェールはぽつりとこぼした。
異常に決まってる。だけど――。
「普通じゃないけど、あなたは誇るべきよ。だって、夢をかたちにしてるんだから」
「あはは……いやぁ、嬉しいです。こんな結果になってますけど、空に浮かんだときの感動はなかなか言葉に出来ないくらいでしたから」
そうだろう。きっと途方もない時間をかけてここまでたどり着いたに違いないのだから。
「なにがなんでも谷底から抜け出る必要があるわね……」
しかし、この巨大な気球をどうやって運べばいいのやら……。
「いや、気球はここに捨てても平気なんです。最低限の装置だけあればやり直しは出来ますから。それに、改良が必要なところばかりです。はじめから作り直したほうが早いかもしれません」
ロジェールは平気な顔で言う。これで全部がご破算になるわけじゃないとしても、そう簡単に諦めきれるものだろうか。常識的な考えで彼を計ろうとすること自体が間違っているのかもしれないけど。
「随分とさっぱりしてるね。清々しい」とシンクレールはこぼす。自分には真似出来ない、とでも言いたげだ。
「方法があれば気球も運びたいですが、無理でしょうからね」
ロジェールの言う通り、気の利いたアイデアは考えつきそうにない。ヨハンに視線を向けると、彼も首を横に振った。
「これだけの大きさですから。紐でくくって引っ張り上げるも難しいでしょうなぁ」
「うーん」とシンクレールが唸り、ぽつりと続けた。「ここでもう一度気球を上げるのは無理なのかな」
それが出来たらとっくにしているだろう。つい願ってしまいたくなる気持ちも分かるけど。
ロジェールは苦笑して答えた。「散々試したんですが、肝心の布が破れてしまってまして……この場所で直すことも出来そうにありません」
「それって、布を直せばまた浮けるってことかしら?」
「おそらく。装置のほうはまだ燃料もありますし、損傷もなさそうですから」
それならなんとかなるかもしれない。わたしは期待を籠めて、シンクレールを見つめた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




