296.「谷底の白旗」
草木を縫って歩き続ける。森に満ちた青々とした香りで、なんだか爽やかな気分だった。油断も隙も許してはいけない状況ではあったが、キュラスへはまだまだかかるだろう。あまり気を張りすぎても疲れるだけだ。
キュラスへ実際に行ったことはなかったものの、話には聞いている。交易のための馬車はほとんど行き来せず、街道だって大して整備はされていない。いかに開かれた宗旨でも、立地が人を遠ざけていた。魔女は『来る者拒まず去る者追わず』の姿勢と言っていたが、こんな山岳地帯ではなにが起こっているやら知るよしもなかろう。魔女が未来視で確認したというのなら確かだろうけど……。
木々が地形を隠すように生い茂っているのであまり実感はなかったが、よく注意して歩くとゆるやかな登り坂が続いているようだった。気付いたら疲労困憊、なんてことになりそうな予感がする……。わたしは体力に自信があるけど、シンクレールはどうだろう。さっきから息が乱れがちになっている。ヨハンはというと、論外だ。数メートル進むごとにうんざりしたようなため息を繰り返している。
「二人とも疲れてない?」
そう聞いてもシンクレールは気丈に首を振って否定し、ヨハンはへらへらと調子よく笑うだけである。
「そう言うお嬢さんこそ、休憩したいんじゃないですか?」なんて言うから困りものだ。
「わたしは平気よ。元騎士だもの」
言ってから、しまったと思う。シンクレールだって騎士なのだが、明らかに息が上がっている。まあ、そもそも繊細な精神力を要求される魔術師なのだから、体力が少なくても不思議ではない。けれど彼は、それを恥じているような雰囲気があった。
「そうだ。元騎士だもんな……僕も」
「あ、でも、シンクレールは魔術師だし……」
「平気さ。たかが森歩きじゃないか。なんてことはないよ」
「ならいいけど……無理しないでよ」
すると、シンクレールは弱々しい笑顔を浮かべた。
「おや」と、唐突にヨハンが声を上げる。
「どうしたのよ」
ヨハンは苦笑いをして、進行方向からやや逸れた斜向かいの木を指さした。「懐かしいものを見つけましてね」
彼にしては不快そうな口調である。怪訝に思って指の先を追うと、木の根元に白くて丸っこい物体があった。ちょうど拳くらいの大きさで――。
「爆弾胞子……」
気付いたら声に出てしまった。
「ええ。ここにも群生してるんでしょうかね」
ひとつあるということは、ほかにも存在するのだろう。そもそも爆弾胞子は単体で発生する種ではない。
『鏡の森』の景色が蘇るとともに、嫌な姿を思い出してしまった。
魔術都市ハルキゲニアを陥れた、倫理観を一切持ち合わせない科学者――ビクター。奴が作り出した悪質な道具に爆弾胞子が使われていたのだ。
「爆弾胞子ってなんだい?」
シンクレールは眉間に皺を寄せた。爆弾、というフレーズは確かに物騒な響きを持っている。なにも知らない人からすれば不審に思うのが当然だろう。まあ、警戒してしかるべき代物だけど。
「キノコの仲間よ。刺激を与えると爆発する。そうね……人がちょっと吹き飛ぶくらいかしら」
致命的とまではいかないが、避けるに越したことはない。その程度だ。
しかしながらシンクレールはますます不安そうな表情をしてみせた。
「困ったな……そんなものがゴロゴロ生えてるんじゃ危なくて仕方ない」
「それはそうだけど、回れ右するわけにもいかないわ。気を付けて進みましょう」
爆弾胞子の群生地だけを迂回するなんて出来ない。どの範囲に散らばっているかも分からないのだ。無暗に道を逸れても遭遇してしまう可能性はある。だったら注意を怠らずに先を目指したほうがいい。
「陽が暮れる前に群生地を抜けられたら一番ですなぁ……」
ヨハンがぼそりと言う。間違いない。今はまだ陽が出ているからいいけど、夜になれば気付かずに爆弾胞子を踏むなんてことにもなりかねないのだ。いくら警戒しても、人間の目には限界がある。
「ところで、その爆弾胞子ってのはどれほど刺激すると爆発するんだい?」
「個体の大きさにもよるから正確には分からないけど、蹴ったり踏んだりすれば間違いなく爆発するわね――あっ!!」
何気なくシンクレールの足元を見たら、ちょうど彼の靴が爆弾胞子を踏む寸前だった。そして当然間に合うはずもなく――。
どかん――といくはずだった。本来なら。
シンクレールは気が付いたのか足元に目を向け、弱々しく苦笑を浮かべた。彼の靴裏の爆弾胞子は、踏まれたままの姿で凍り付いている。
「凍れば爆発しないんだね」なんて呟く彼は、案外したたかなのかもしれない。爆弾胞子の存在に気付いてから、こっそりと氷の魔術を使っていたのだろう。見栄なのか知らないけど、わたしに悟られないよう、足元だけに魔術を集中し、おまけに魔力の隠蔽までして。
「……シンクレールは大丈夫そうね」
「私の足にもかけてほしいくらいですよ」
そんな軽口を放つヨハンに、シンクレールは敵意たっぷりの短い笑いを返した。
「凍り付いてもいいなら、いくらでもかけてやるさ」
「手厳しいですなぁ」
肩を竦めてへらへら笑うヨハンも見慣れたものである。二人の状況は相変わらず、埋めがたい溝が横たわっていた。
そんな軽口を叩きつつ、どんどん進んでいく。何度か休憩を挟みつつではあったが、順調なスピードだった。現在地は失っていたが真っ直ぐ進んでいることに違いはない。確実にキュラスは近付いていることだろう。
いつしか太陽は、最後の濃密な光を放っていた。濃い橙に染まった雲が枝の隙間でのんびりと浮かんでいる。
あれ以降も爆弾胞子は見かけたが、幸いなことにわたしもヨハンも――そしてシンクレールは当然――引っかからなかった。魔女の邸を出たときは過酷な道のりを想像したものだが、予想よりはずっとスムーズである。まだ二日目なので油断は出来ないものの、不要な消耗がないぶん、体力に余裕があった。
夕暮れの森をずんずん進んでいくと、不意に開けた場所に出た。数メートル先は険しく切り立った崖になっている。こちら側と向こう側とが、幅五十メートルもありそうな谷で分断されているのだ。
「これは……迂回するしかなさそうですなぁ」
「こんな場所に出るなんて……」
街道側には橋でも架かっているのだろうか。地図を見る限りそれらしい記載は見つからなかったが、長さ五十メートル程度の橋であれば書かれないことも多い。むろん、馬車が進むことも出来ないような粗末な橋なら別だが、きっと街道側には頑丈で幅広な橋が架けられているのだろう。
「どうしようか。街道のほうに行こうか?」とシンクレールが不安げに聞く。
どうすべきか、という問いにはなかなか答えづらいものである。こんな状況ならなおさらだ。街道と今進んでいる道。両者にはかなりの距離が開いてしまっている。それも当然で、人目を避けるために森を直進し続けたのだから。
「シンクレールさん。天の階段は使えますか?」
ヨハンが促すと、シンクレールは素直に首を振って否定した。
「氷で疑似的な橋を作ることは出来るけど……やめたほうがいい。無事に渡り切れるとも限らないから」
シンクレールの言葉を、単なる自信のなさと考えることなど出来なかった。五十メートルの橋を維持し続けるのもそうだが、不測の事態が起こればそれだけで全滅である。冷静に考えて、彼の魔術に頼り切るのはあまりに危険だ。
「さて……どうしましょうかねぇ」
ぼんやりと呟くヨハンの目が、興味深そうに谷底へと落ちていった。
つられて覗き込むと――。
「困りましたねぇ……」
頭を掻いてため息をつくヨハンの気持ちはよく分かった。どうすべきか判断に迷う、というよりも、面倒事の匂いを感知したのだろう。
遥か谷底で、何者かが巨大な白旗を振っていた。まるで助けを求めるように。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『天の階段』→空中に透明な足場を作る魔術。初出は『112.「ツイン・ラビット」』
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて




