295.「夜の名残」
夢はいつでも気付いたらはじまっていて、唐突に終わる。名残なんてすぐに消えて、ほんの少しの爪痕を残すだけ。
目覚めると、頭がぐらぐらと揺れた。身体に力が入らない。夢を見ていたような気がするけど、やっぱり思い出せなかった。確か……誰かを追いかけていたはずだ。はじめは憧れから。次に、たぶん恋。そして、なぜか怒りに駆られていた。夢の最後ではそれがあべこべになって、わたしが逆に追いかけられていたような気がする。なにか、物凄く恐ろしいものから。
怖いはずなのに哀しくて、途方もなく寂しい気持ち。こうして目を覚ましても、夢の破片が心に突き刺さっているみたいに切ない。
深い呼吸を意識し、ゆっくりとまばたきを繰り返す。そうしてようやく、わたしがわたしに戻っていく。
辺りはすっかり明るくなっていた。
ん? 明るく?
「え」
自然と漏れ出た声に気付いたのか、シンクレールがゆっくりと起き上がって伸びをした。ヨハンはというと、あぐらをかいて目を閉じたまま微動だにしない。
「おはようクロエ……あ! 僕、すっかり寝過ごしちゃった。ごめん、ずっと防衛させて――」
ぶんぶんと腕を振りながら焦るシンクレールは面白かったが、彼を笑い飛ばすことなんて出来なかった。
「いえ、わたしも気付いたら寝てて……」
頬が熱い。魔物の討伐を忘れて眠りこけるだなんて、とんでもなく恥ずかしかった。
「じゃあ……」シンクレールは目を丸くして、寝苔の中心でじっと目をつむるヨハンを見つめた。「あいつが一晩中戦ったんだね……」
きっとそうだろう。今のヨハンはどこか誇らしげな雰囲気をたたえている。じっと動かないその様子はまるで歴戦の戦士――なわけないか。
わたしとシンクレールがずっと眠っていたということは、ヨハンひとりが戦ったことを示している。なんで起こしてくれなかったんだろう。
不意にヨハンが、ぶるりと身を震わせた。そして両手を天に突き出し、地獄の底から響いてくるような不気味なあくびをした。
「あぁあぁぁ……ん? ああ、おはようございます、お二人さん」
とろりと眠たげな瞳がわたしとシンクレールを捉える。そして、意外な言葉が続いた。
「昨晩はすみませんでした。ぐっすり眠ってしまいましたよ。いやはや、起伏のある道でしたからねぇ、疲れがたまっていたのでしょう。……それにしても、起こさないでいてくれるなんて随分と親切ですねぇ」
……どういうことだ。ヨハンもぐっすり眠っていたのなら、いったいどうやって夜を凌いだのだろう。
「……わたしもシンクレールも、さっきまでずっと寝てたわ。ねぇ、本当にあなたが魔物を追い払ったんじゃないの?」
ヨハンは首を傾げ、眠そうに首を横に振った。
「魔物が出たらお嬢さんを起こしますよ。私ひとりじゃ限界がありますからねぇ」
「なら、誰が魔物を?」とシンクレールが不思議そうに聞いた。
「さあ……なんとなく魔物が出ないような気がしていたのですが、本当に平和な夜を過ごせるとは。幸運でしたねぇ」
奇妙、というレベルの話ではない。夜間は必ず魔物が発生するものなのだ。数や種類こそ違えど、出るという点は例外がない。それを知らないヨハンではないだろうに。
「どういうことなの……」
「分かりません。この場所が特別なんじゃないですか?」
どこか他人事のような口調である。彼はあまり真剣に考えていないのだろう。あるいは、考えたって分からないことに本気になりたくないのかも。いずれにせよ、引っかかっているのはわたしとシンクレールばかりだ。
シンクレールは口元に指先を当ててじっと考え込んでいる。あらゆる可能性を探っているのだろうけど、しっくりくる答えにたどり着けるはずもない。こんなことは今までなかったし、わたしたち三人以外に魔物を討伐する存在がいるとも思えない。
――けれど、ひとつだけ考えられることがあった。
「魔王……」
思わずこぼれたひと言に、ヨハンは首肯した。
ああ、やっぱりそうか。魔王が魔物の出現を操作しているのだ。理由ははっきりしないけど……。
テレジアの故郷だから魔物が出ないように調整していると考えるべきなのだろうか。
「……魔王」と、シンクレールの唇から漏れ出た。その口は次の瞬間にはきつく閉じられ、悔しげな強張りがだけが残る。
「魔物をコントロールできるなんて魔王ぐらいのものよ。ほかの理由なんて、ちょっと思い浮かばない」
ビクターのような奴がいれば別だけど……。彼くらい常識を踏み越える大悪党なら、一晩魔物を消すことくらい出来るかもしれない。けれど、あんな人間が何人もいてたまるか。
「なんにせよ、私たちは無事二日目に突入したというわけです」
ヨハンは多少くっきりとした声で言ったが、まだ眠気は消えていないと見える。その首がゆらりゆらりと揺れるのを見ていると、なんとも不吉な気分になってきた。
「魔物に遭遇しないのは悪いことじゃないわ。今までありえないと思っていたからこそ疑ってしまうだけよ」
「けど……いくらなんでも常識外れ過ぎる」
シンクレールはぼそりと、疑うように呟いた。彼の反応も理解出来る。つい最近までわたしもそちら側にいたからこそ、ほとんど自分のことのように考えられた。
「王都の常識を捨てないと、とんでもない罠にかかるかもしれないわよ。『最果て』を旅してきて、身をもって知ったわ」
見たことのない魔術や、こちらの物差しを軽々と超える魔術師。そして、とんでもない大悪党。本のなかでしか知らなかった様々な物事や、騎士時代に培った経験……それらが逆に自分自身を揺さぶることだってあった。
常識は両刃なのだ。油断するとこっちが深く傷つく羽目になる。
「君はなんだか――いや、なんでもない」
「なによ」
「なんでもないって」
まったく、シンクレールのはにかみ屋はなかなか直りそうにない。控えめすぎるその性格も、いずれなんとかしてほしいものである。勇気のある、真っ直ぐな人だと思うけど……。
「さてと……朝食を摂る余裕はなさそうですね。食事は最低限でとどめておくべきですから。頭がすっきりしたら、すぐに出発しましょう」
ヨハンは首をゴキゴキと鳴らし、誰よりも眠そうに告げた。
まったくもって説得力のない言葉である。ともあれ、食事に関しては事実だ。一日一食がせいぜいだろう。森で食料を確保出来れば御の字だが、無暗に期待すべきではないし、そのせいで道を外れてしまったら元も子もない。
「僕はすぐに出発出来るけど、クロエは?」
「ええ、大丈夫よ」
言って、立ち上がる。
ヨハンを見下ろすと、彼は盛大なため息とともに肩を竦めた。「元気なのはなによりです。ただし、休憩は適宜とりましょう」
なんだ、やっぱり一番動きたくなかったのはヨハンか。まあ、分からなくはないけど。寝苔の求心力は凄まじいのだ。一度腰を下ろすと、どうにも立ち上がれなくなってしまう。
「もう充分休んだし、行きましょうか」
「うん」
「はいはい」
誘惑に満ちた寝苔から離れて、ようやく森を歩き出した。方角は間違っていない。このまま真っ直ぐ進めばどんどん道は険しくなっていくだろう。逆に考えれば、それだけ山頂に近付いているということだ。
キュラスに着くまであと何日かかるか分かったものじゃない。ただ、昨晩のように魔物の出現しない安全な夜が続いてくれれば、道のりはずっと楽になるだろう。そのぶん、余力を残すことだって出来る。
『教祖』テレジア。彼女を討つための余力を。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『教祖テレジア』→勇者一行のひとり。山頂の街『キュラス』を牛耳る女性。奇跡と崇められる治癒魔術を使う。詳しくは『288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




