293.「森のベッド ~低反発~」
怪しげな球体について考えるのは一旦やめにして、わたしたちは黙々と歩き続けた。草原に転がる岩は徐々に数を増やしていく。
いつしか岩の間にぽつぽつと木々が見え始めた。巨岩を割って天に枝を広げる巨木さえある。自然の力をありありと感じる光景だった。
ここからは足場の悪い林が続き、やがて森になるのだろう。いよいよもって山岳という雰囲気である。球体の落ちた箇所まではまだまだ距離があるだろうけど、気をつければいいのはそれだけではない。『鏡の森』でも味わったように、森林地帯には奇妙な動植物がうようよいるし、あまり姿を現さないような珍しい魔物に遭遇する危険だってある。
陽はすでに橙色の光を投げかけていた。これから森で野営となると、精神的な消耗は計り知れないだろう。魔女との夜間防衛は見晴らしのよい草原だったので、その落差は激しい。
「夜が来るまでにどこまで進めるでしょうかねぇ」
長身を左右に揺らしながら歩きつつ、ヨハンが言う。
「さあ。結局森から抜けることは出来ないんじゃないかしら。休めそうな場所があれば一番だけど、この調子じゃ望み薄ね」
すでに木々のまばらな林へ足を踏み入れている。これがどこまで続くのかは分からないが、都合のいい洞窟なんてありそうにない。質の高い仮眠なんて期待しないほうがいいだろう。
「僕の魔術でよければ安全地帯は作れるよ。トリクシィを閉じ込めたみたいに……」
氷獄のことを言っているのだろう。確かにあの中は安全だろうけど、氷が砕けるまでは身動きひとつ出来ない仮死状態だ。周囲の状況が分からなくなるのは避けたい。
「申し出は嬉しいんだけど、氷の箱の中にいたんじゃ外の状況が把握出来ないわ。魔術がとけたら目の前に大型魔物がいました、なんてことになりかねないもの」
それに、氷獄で仮死状態になることは休憩とはいえない。かえって身体に負担がかかってしまう。
「それに、シンクレールには余計な魔力を使ってほしくないの。あなたの実力は信用してるけど、いざというときに魔術の練度が下がらないとも言い切れないわ。常に余力を残しておきましょう」
「魔術もタダではないですからなぁ」とヨハンが妙な相槌を打つ。『岩蜘蛛の巣』で彼の魔術に頼り切りだったことを当てつけてるんだろうか。ふん。
「……なんにせよ、早く森に入ったほうがいいかもしれないわね。この林だと大型魔物だって動けるでしょうから」
「そうだね」「そうですねぇ」
ヨハンとシンクレールの声が重なる。小さな舌打ちが聴こえたが知らんぷりをした。
森での夜間戦闘か……。考えると憂鬱な気分になった。大型魔物こそ出ないものの、そのぶん小回りのきく奴や知恵の回る奴が出る。グールだけならどうとでもなるんだけど、子鬼やらなにやらが出現すると困りものだ。
「クロエ。森での戦闘経験はある?」
シンクレールは不安げな声をしていた。きっと彼は森で戦ったことがないに違いない。王都付近にも森はあるが、壁へとおびき寄せてチームで叩くのが基本だ。わざわざ不利な場所で戦う騎士なんていない。
それは、わたしも同じだ。
「森で戦ったことなんてないわ。たぶん、あなたと同じように」
『鏡の森』でも、結局魔物とは戦わなかった。一方的にグレガーの率いるバンシーたちに惑わされたり和解したりしただけである。
すると、今晩は不利な戦いになるかもしれない。グールしか出なければいいけれど、そう甘い考えでいたら簡単に足元を掬われてしまうだろう。勇者一行ゆかりの土地にどれほど魔王の息がかかっているかは未知数である。悪い方向に考えるなら……より強力な魔物を出現させるようにしているかもしれない。
『魔王には魔物を操る力がある』。昔から語られていた説だ。今までは眉唾に思っていたのだが、ひとつ、確信に足る情報があった。
イフェイオンを出てすぐ――シンクレールと再会したときのことである。どうして王都を離れているのかと聞いたわたしに対して、彼は『魔物の出現量を調査するため』だと答えた。そして、現に魔物は減っているようだ、と。あのときも思ったことだが、確実にニコルと魔王の仕組んだ見せかけである。油断させるための罠。ニコルに魔物を操る力なんてないはずだから、自然と答えはひとつに絞られる。
魔王は各地にはびこる魔物の動向や出現量を操作出来るのだろう。精度や細かさなんて知りようがなかったが、テコ入れする力があるのは事実だと考えるべきだ。
つくづく厄介な存在である。
「……そろそろ森と言っていいでしょうね」
ヨハンの呟きに、頷いた。周囲の木々はまばらだったが、林というよりは森の様相である。『鏡の森』ほど鬱蒼としているわけではなかったが、少なくとも、大型魔物が自由に動き回れるような隙間はない。
「魔物が出るまでに休めそうな場所を探すべきね」
「そうですね。ただし、道を逸れるわけにはいきません。今はまだ行く先の山並みが見えますが、そのうち木々で隠されてしまいますからね。気がついたら逆走して元通りの林にいました、なんてオチは笑えません」
「そうね……」
方角か。
ふと、ノックスの顔が頭に浮かぶ。『鏡の森』では彼の星読みで道を正せる安心感があった。けど、今は違う。
ヨハンも同じことを考えていたのか、ぽつりとこぼした。
「坊ちゃんは上手くやってるでしょうか……」
「きっと大丈夫よ」
別れ際の真剣な表情。そこに溢れた決意は簡単に消えてしまうものではないはずだ。ノックスは今も、魔女との訓練に集中していることだろう。
それはそうと……ちょっと気分がムカムカする。
「あなたはノックスの心配を出来る立場かしら?」
ついついトゲトゲしく返してしまったけど仕方ない。そもそもノックスは、ヨハンの卑怯な魔術のせいで窮地に陥ったのだ。それなのに彼の心配をするなんて、なんだかずるい。
ヨハンはしばし沈黙して歩いていたが、やがてひと言だけ返した。
「……そうですね」
水滴のような言葉。内省的な響きさえある。けれど、寂しさは籠っていなかった。……演技しているだけかもしれないけど。
気まずい沈黙が訪れた矢先、シンクレールが木々の奥を指さした。
「あの辺りは休むのによさそうじゃないか?」
妙にこんもりと苔むした場所だった。そこだけ木々が開けている。確か、植物図鑑で見た光景だった。
「寝苔ね。ちょうどいいかもしれない」
別名『森のベッド』。見た目に反して麻痺毒を持った植物だが、口にしなければ害はない。その毒のおかげか獣が立ち寄ることもないので絶好の休憩場所である。図鑑のなかでは、そのふかふか具合をやたらと強調していたっけ。
「夜には少し早いけど、今晩はここで交代の見張りをするってことでどうかな」
「そうしましょう。慣れない道で疲れたでしょ? 二人とも」
ヨハンとシンクレールがそれぞれ頷き、今夜の寝床は決まった。魔物の時間が来るまでに少しでも先へ進んでおくことも出来たけど、この先に寝苔が都合よく生えているとも限らない。局所的に発生する植物のはずだから。
苔に足を踏み入れると、ふうわりした感触が足元に広がった。
低反発……!
腰を下ろすと、気分がいくらか落ち着いた。ここに寝苔があってくれて本当に助かる。
シンクレールが隣に座り、ヨハンはばったりと倒れ込んで空を仰いだ。見上げると、気の早い星がまたたいている。
ヨハンはただただ無表情で、感慨なさそうに空へと視線を向けていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』『幕間.「王位継承」』にて
・『幻術のグレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『氷獄』→対象を氷の箱に閉じ込める魔術。閉じ込められた相手は仮死状態になるが、魔術が解ければそれまで通り意識を取り戻す。詳しくは『270.「契約」』にて
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて
・『バンシー』→人の上半身のみを持つ魔物。人語を解し、人を騙すほどの知性がある。『鏡の森』のバンシーは例外的に無垢。詳しくは『198.「足取り蔦と魔樹」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




