288.「治癒魔術師 ~反撃の第一歩~」
耳を疑った。勇者一行のひとり――まったく素性の分からない謎の男がヨハンの兄?
本当にそいつが『黒の血族』と人間のハーフなら、ヨハンの関係者であっても不思議ではないけど……あまりにも唐突すぎる。
「また騙そうとしてるの?」
「そんなつもりはありませんよ。悪いことは言いません……彼は最後にしたほうがいい。よく知っているからこその忠告です。今のお嬢さんでは十秒経たないうちに息の根を止められますよ」
ヨハンの口調は真剣そのものだった。だからといって信じるわけにはいかないが、仮にジーザスとやらが本当に『黒の血族』に仕えているのなら後回しにするのが一番である。彼がニコルにとっての急所である可能性は高いだろうけど……悩ましい。
ヨハンはわたしとシンクレールを交互に見つめ、静かに続けた。
「今の私の立場を考えてください。魔王とニコルに反旗を翻して、お嬢さんの勝利に賭けているんです。むろん私は、死んでも報酬の受け取りが出来ますが、そもそも魔王が滅ぼされない限り取り分も消える……。さて、今私は誰にとって最善の言葉を口にしているでしょうか」
確かにそうだ。ヨハンは命さえ投げ打って賭けている。過信はしないが、かといって彼が無暗にこちらを惑わそうとはしないだろう。とんでもない罠が潜んでいるかもしれないという怖さもあったが、目に見えず、そして論理的に導き出せない恐怖に怯えるなんてナンセンスだ。
ヨハンを利用すると決めたんだ。だからこそ、私情を抜きにして物事を判断しなければならない。
「……分かったわ。ジーザスは後回しにしましょう」
すると、シンクレールは拳を握ってこちらを向いた。何度か口を開いては噛みしめ、それからやっと言葉を紡ぐ。
「君は……自分を裏切って、傷付けた奴の言葉にどうして従うんだ……!」
ドン、と控えめにテーブルが叩かれる。ヨハンの前に置かれたワインが波立った。
シンクレールの思いだって理解出来る。当然だろう。自分を死の一歩手前まで追い詰めた相手なのだから。
けど――。
「ニコルと魔王を倒すために彼を利用してるだけよ。理解してほしい、なんて言わないけど」
簡単に納得出来るはずがないのだ、本来は。わたしはとんでもない選択をしたのかもしれないけど、こうでもしなければ生き残れなかった。そして、生き残るだけじゃ満足出来なかったというだけのことだ。
ヨハンを巻き込み、ニコルへと肉薄する。どんなに邪悪に見えたとしても、けれど、必要なんだ。
シンクレールは拳にぐっと力を籠め、それからゆっくりとほどいた。その顔には苦悶としか表現の出来ない表情が広がっている。こうして彼を苦しめてしまっている事実は重く受け止めるべきだが、決して足を止めるわけにはいかない。
「……理解なんて出来ないけど、いい。クロエが選んだのなら、それで――」
わたしはずるい人間だろうか。こうしてシンクレールまでも利用してしまっている。彼が自発的に動いていたとしても、悲劇に引き込んでいる張本人はわたしだ。
「さて、では今後の話に戻りましょう」ヨハンは舌で唇を舐めて続けた。「誰を最初に倒すべきか、です」
それについては、散々考えた。ルイーザは元々『魔女の湿原』と呼ばれる場所で暮らしていたことは知っている。彼女が今もそこにいるかは分からなかったが、可能性はゼロではないだろう。
ただし、問題がある。かなり大きい問題が。
「ルイーザは『魔女の湿原』にいるでしょうけど、彼女も後回しにすべきでしょうね。王都に近過ぎるわ」
そう。王都と『魔女の湿原』は目と鼻の先なのだ。万が一王都の人間に見つかったら大事である。
「なら、同じ理由でスヴェルも避けたほうがいいでしょうね」
「もちろん」
『王の盾』スヴェルは王都の内部にかまえている。彼を討つのも現状では不可能だ。
「ジーザスは先ほど言った理由で後回しです。ゾラとシフォンは居場所が知れませんので、彼らについても手出しのしようがないでしょうな」
そうなると、残った選択肢はひとつだ。
「なら、テレジアね」
「ええ」と答えてヨハンは目付きを鋭くした。
『教祖』テレジア。彼女は故郷の街で宗教を開き、街全体を信仰で満たしたらしい。武装信徒の話は有名だ。魔物からの夜間防衛と教義を結び付け、住人全員――つまり、信者全員を戦士に仕立てたのである。それ自体は決して悪いことではないし、むしろ正当なありかただ。
信心深く、慈愛に満ちた彼女の様子を思い出す。凱旋式でもその顔から微笑が消えることはなかった。
その後の彼女については知らないが、簡単に『教祖』の立場を捨て去るなんて思えない。街に戻っている可能性は高いし、そうでなくとも足跡はたどれるだろう。
「テレジアの出身地に行くのが一番ね」
「そうですね。少なくとも、手掛かりは得られるでしょう」
ここまで黙っていたシンクレールは、顔をしかめて呟いた。「場所が悪過ぎないかな……」
彼が不安に思う理由も分かる。テレジアの出身地は王都周辺地域の末端――魔物に滅ぼされていないもっとも外れの場所に位置しているのだ。通称『フロントライン』。魔王の城に近付くにつれて強力になる魔物たちを、一身に引き受けている防衛の最前線。
「確かに厄介なところにあるけれど、今のわたしたちにとっては絶好の場所よ。王都からも魔王の城からも充分に離れてるんだから」
「それに」とヨハンがあとを引き取る。「彼女は治癒魔術を得意としています。あちら側の戦略の要とも考えられるでしょう」
有名な話だ。トップクラスの治癒魔術師。通常の治癒魔術は痛みを和らげたり自然治癒を早めたりするのみだが、彼女は違う。
その力は、王都で実際に目にした。
凱旋式の日、大勢が通りに身を乗り出して勇者一行を見物していた。そこには前夜の夜間防衛で深手を負った、騎士団の見習いメンバーがいたのである。テレジアはおもむろに彼に近寄ると、手をかざした。するとたちまちのうちに傷が消えてなくなったのである。まるで幻でも見ているような感覚だった。
「テレジアを討ち取れれば、ニコル側の回復手段は消えるでしょうね」
「ええ、それが狙いです。位置取りも絶好でしょう」
シンクレールは黙って聞いていたが、やがて小さく頷いた。どれかひとつを選ばなければならないのなら、現状はテレジアを討つほかない。それを理解してくれたのだろう。
「あの人が敵だなんて思えないけど……」
シンクレールはおずおずと口にする。
「ええ。気持ちは分かるわ。けれど、ニコルと一緒に旅をした以上疑わないわけにはいかないのよ」
どんなに聖人らしく振舞っていても、ニコルと歩んできたのだ。そこに裏切りの影を見ないわけにはいかない。
『皆、神に守られています。しかし、それだけではいけません。自らの手で夜を乗り越えるのです。それはつまり、神に拝跪し、久遠の祈りを捧げることと同じなのですから』
テレジアが凱旋式で口にした言葉だ。今となっては随分と虚ろな言葉にしか思えない。テレジアにとっての神とは、人類への裏切りや王都の壊滅を赦す存在なのだろうか。
「決まりですね。出発は早いほうがいいでしょう。あの晩から一週間以上が経っていますから、そろそろ動くべきです。これ以上ぐずぐずしているとニコルさんに先を越されますからねぇ」
これは、わたしとニコルが直接対決して決着をつけるという単純な話ではない。彼の策略を葬るために、その周縁を削らねばならないのだ。戦いは、ずっと前からはじまっている。
『教祖』の打倒。それが反撃の第一歩である。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』参照
・『スヴェル』→ニコルと共に旅をしたメンバー。王の側近であり、近衛兵の指揮官。『王の盾』の異名をとる戦士。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『治癒魔術』→読んで字のごとく、治癒の魔術。それほど高い効果はない。詳しくは『131.「ネクスト・ターゲット」』にて
・『魔女の湿原』→勇者一行のひとり、ルイーザが住んでいた場所。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




