286.「魔獣の咢」
一週間が経過した。
ノックスは随分回復し、以前と変わらない様子を見せている。とはいえ、魔女が言うには彼の体内に蓄えられた魔力はほとんど抜けていないらしい。魔女の私室で魔力放出の訓練をしているのだが、傍目には順調なのかどうかも分からなかった。彼女もそれについて詳しく語ってはくれない。完全に元の通りになるまでどれだけの時間がかかるやら……見当もつかない状況である。
ともあれ、黙々と食事をほおばるノックスを見ていると和む。
「美味しいにゃ~」
数日経ってから、晩餐の席にジェニーとウィンストンも着くようになった。いつまでもゲスト扱いでは気疲れしてしまうから、というわたしとシンクレールの強い申し出に魔女が折れたのである。執事とメイドと一緒に食事するし、雑用もこなす。ジェニーと一緒に掃除をするのは楽しかったし、ウィンストンの料理の手際を見るのは新鮮な感動があった。その合間に本を読み、夜には魔女と魔物討伐に出る日々である。ほどよく緊張感のある毎日が続いていた。
「いつも図書室にいるけど、今後の役に立つものは見つかったかい?」
晩餐がひと段落して、シンクレールがたずねた。
「役に立たせるかどうかは読み手次第よ。無駄になるような知識なんてないわ」
そういうことを聞きたいんじゃないだろうけど、読書好きとしてついつい気取ってしまう。
図書室で得たものといえば、他種族の生態に関する知識がほとんどである。ケットシーの食事だとか半馬人の視力の良さだとか、あるいは人魚のコミュニケーション方法などなど。今後彼らを目にする機会もあるかもしれないし、もしかしたら敵として立ちはだかることがないとは言い切れない。
文武両道。詰め込んだ知識は今後の戦闘に役立ってくれるだろう。
「で、どのくらいの量を読んだんですか?」
ヨハンがあくび交じりにたずねる。ここのところ彼は常に眠そうだった。掃除やら男物の服の洗濯だとかをしているせいだろう。きっと今まで家事なんて一切やってこなかったに違いない。手つきを見れば分かる。
「もうすぐ半分は読み終わるわ」
そう答えるとノックスを除いた全員が、ぎょっ、と目を丸くしてこちらを見つめた。
「……冗談だよね?」と、シンクレールはなぜかおそるおそる聞く。なんでそんな反応になるのか分からない。確か司書さんも、図書館の本を読破したと告げたらびっくりしていたっけ。
「嘘じゃないわよ。読んだ本のタイトルと内容を言えばいい?」
一拍置いて、からからと、さも愉快そうに魔女が笑った。こんなふうに笑う彼女が意外である。いつも静かに、超然としているのに。
「お嬢ちゃんに図書室を紹介して良かったよ。本も喜んでる。けれど、いくらなんでも異常な速読だねェ。あたしにだってそんな真似は出来ないよ」
ひらひらと手を振りながら言う魔女を見て、ちょっぴり誇らしくなった。彼女よりも優れたところがひとつでもあるなんて嬉しい。
ふと魔女の空っぽの袖に目が行き、すぐに目を逸らした。
隻腕の理由。数日前に図書室で魔女が教えてくれたのだ。しつこく聞いた結果、折れてくれたんだけど……。
「そんなに気になるかい。まったく、好奇心の塊だねェ」
詰め寄るわたしに、魔女は呆れたように返した。彼女の腕が単に失われただけなら、こうも追及することはなかっただろう。ハンデキャップについてたずねるのがどれだけ失礼かなんてわたしにも分かる。
ただ、魔女のそれはハンデとは別物だ。彼女は強力な魔物が出るたびに、失われた腕から漆黒の獣を放つ。その咢は敵の肉を食み、即座に倒してしまう。そんなもの、今まで見たこともなければ聞いたこともない。
「なんて思われようとも知りたいの。失礼だと思うけど、お願い」
その成り立ちを知ることが出来れば、今後同じような術者と相対する際に対処方法を編み出すことだって出来るだろう。今は無理でも、そのきっかけを得るだけで充分だ。
「仕方ないねェ……。まあ、そう隠すことでもないさァ。お嬢ちゃんは頭がひとつのケルベロスに会ったことはあるかい?」
あるわけない。ケルベロス自体が三頭を持つ魔犬なのだ。頭がひとつだけならそれは単なる魔犬である。
「頭がひとつなら魔犬じゃないの? もちろん魔犬とは戦ったこともあるし、倒し方も知ってるわ」
そう答えると、魔女は薄っすらと笑みを浮かべた。物分かりの悪い生徒を見るように。
「魔犬とは違うさァ。頭がひとつのケルベロス……つまり、畸形だよ」
畸形の魔物、と聞いて真っ先に思い浮かべたのは『最果て』で戦ったキュクロプスだった。けれどもあれは、ビクターが小瓶に閉じ込めるために足を切り落としただけである。畸形とはいえない。
「魔物も人間と同じく、個性があるんだよ」と告げて、魔女は続けた。「頭がひとつのケルベロスの話だけどねェ、そいつは異常なくらい頭が良かったのさァ。本来は他の二頭に振り分けられる知恵がひとつの頭に凝縮されたのかもねェ」
ケルベロスは一般的に、知恵はないとされている。人を騙すような狡猾さもなければ、戦い方も直線的である。だからこそ討伐が可能なのだ。もし奴が賢ければ、強敵なんてレベルじゃない。その巨体、俊敏さ、鋭い歯と爪、口から吐き出す火炎。どれをとっても一級品だ。
「そいつの討伐を命じられたのさ、あたしが。大昔の話だけどねェ……。まあ、体の良い厄介払いさねェ。あたしが死ねば、街も別の魔術師を雇い入れる口実が出来るってわけさァ。……ああ、言っておくけどイフェイオンのことじゃないからねェ。昔あたしが仕事をしてた街の話さァ」
もしかすると魔女は、街を転々としているのかもしれない。金払いも含めて、気に入らないことが起これば住処を変える。けれど、どこの街でも最終的には煙たがられてしまう……。そんな生活を想像して少し寂しくなった。
「それで、討伐したの?」
「いや、殺さなかった」
「え」と思わず声が漏れた。魔物を殺さずに放置したのだろうか。
魔女は書棚を撫で、目をつむった。
「戦いはしたさァ。で、あと一歩のところまで追い詰めた」
魔女ならば、たとえ知恵を持つケルベロス相手でも後れは取らないだろう。
「なら、どうして殺さなかったの?」
「簡単な話さァ」
一旦言葉を切り、彼女は目を開けた。薄暗い輝きの籠った瞳で、こちらを見据える。
「喋ったんだよ、そいつが」
「喋った?」
「そうさァ。……ああ、勘違いしないでおくれ。交信魔術を使ったのさァ、ケルベロスが。連中に人間のような発声器官はないからねェ」
交信魔術、という表現が奇妙に思えた。魔物の扱う魔術を呪術と呼んで区分しない魔女の態度もそうだったが、なにより、呪力を持たないはずのケルベロスが呪術を使ったなんて信じられない。しかし、魔女は決して嘘を言わないはずだ。
じっと、次の言葉を待った。
「そいつは一丁前にあたしと交渉したのさァ。で、面白そうだから乗ってやった。ただ、放置したんじゃ街が壊滅する。あたしはそれでも良かったんだけどねェ、まあ、気まぐれさァ。……交渉の結果、あたしは奴と愉快な契約を結んだんだよ。永久にあたしのしもべになる契約をねェ」
くすり、と魔女は笑い、空っぽの袖を撫でた。
「けどねェ、ケルベロスを連れて歩くわけにはいかない。いくら外聞を気にしないといっても面倒なことになるのは明白さァ。だから、居場所としてあたしの腕をくれてやったのさァ」
腕を?
「くれてやったって……どうやって?」
「簡単なことさァ。吸収魔術と鎖の魔術……それと血の力を使っただけのこと」
吸収魔術、と聞いて悪寒が背を走った。王都の自治範囲内では禁止されている魔術だからである。
ルールに縛られない人間だということは知っていたが、まさか吸収魔術を扱えるだなんて思っていなかった。そして彼女が語った通りだと、『黒の血族』の力と魔術を組み合わせて使えば魔物さえ体内に収めてしまえるのだろう。
おぞましい。素直にそう感じた。
その強力な力が、ではない。魔物を手なずけるために腕を捧げられる彼女が、だ。
「話はそれだけさァ。あとはお嬢ちゃんが夜に見た通りだよ。あたしは自由にそいつを出せる。ただ、夜じゃないと弱くて使い物にならないけどねェ」
毒食。彼女がそう呼ばれ出したのは、きっとケルベロスを手に入れてからだろう。ケルベロスによって魔物を食う。そして主人たる魔女は、ケルベロスを体内に――まるで食らっているかのように――収めている。
「話してくれてありがとう」と返すので精一杯だった。
魔女は特殊な存在だろうけど、もし今後、彼女のようにタブーを軽々と踏み越える敵と対峙したら……。
「どういたしまして」
去っていく魔女の背を見つめ、覚悟を固めた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。『ケットシー』と呼ばれる獣人の一種。興奮すると耳と尻尾が出てしまう。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』『279.「物好きな主人」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『小瓶』→『縮小吸入瓶』のこと。付近にあるものを縮小させ、吸入してしまう小瓶。ビクターの発明した魔道具。彼は魔物を詰め込んで使っていた。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『吸収魔術』→魔術および呪術を吸い取る魔術。禁止魔術。レオネルが使用。詳しくは『Side Leonel.「師に捧ぐ――憎悪と覚悟のうちに」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照




