285.「魔女の書架」
昔から本が好きだったというわけではない。むしろ、活字は苦手だった。そんなわたしが図書館に籠るようになったのは、ひとえに、ニコルに追いつきたいがためである。
がむしゃらに書物を読破していくにつれ、たとえ学術書であろうともその内側に籠められた世界を知り、のめり込むようになっていったのだ。一度読み始めるとページをめくる手が止まらず、気付けば一冊読み終えているといった具合である。そして読後の余韻もそこそこにして次の本を手に取るうちに、王立図書館の本は読み尽くしてしまった。たぶん、読むペースも早いのだろう。いつだったか司書さんに「あっという間に読んじゃうからびっくり。速読の才能があるわね」なんて言われたことがある。自分ではこれが普通だと思っていたからしっくりとはこなかったけど……。
魔女の私室の隣――重厚な木造りのドアに触れた。しっとり、指に吸い付くような木の質感。ここが図書室の入り口と考えると感慨深いものがある。
呼吸を整えて鍵を開け、ドアの先へと進んだ。
「わぁ……」
絶景。
満天の星空よりも感動的な景色だった。
部屋自体はそれほど広くはないのだろうが、圧倒されてしまう。天井は邸の屋根まで続いているほどの高さで、書架と屋根とがぴったりくっついている。きっと、特別に作らせたのだろう。
書架のサイドに梯子がかけられ、各階の足場へと移動出来るようになっていた。
頬がゆるむ。うずうずと心がはやる。
どうしよう。どこから手をつけよう。
ふと奥を見ると、永久魔力灯に照らされた質素なテーブルが見えた。きっと読書机だろう。近付くと、机の上に羊皮紙が乗っていることに気付いた。魔女の筆跡だろうか、手書きで図書室の分類がなされている。
魔術関連、地史、伝記、魔物、鉱物、植物、天文学……。そこまではひとつの書架にぎゅっと詰まっているようだった。あとはすべて『他種族』と記されている。
どういうことだろう。他種族に関する書籍とそのほかのバランスがまるっきり逆じゃないか。王都の図書館では他種族関連の書物なんて棚ひとつ分で、どれも似たり寄ったりな内容だった。
唾を飲み下し、そばの書架に寄る。背表紙を見る限り読んだことのない書物ばかりだった。
『半馬人と倫理』、『ケットシーとの旅路』、『人魚の街』、『竜人狩り』、『獣人の社会構造』……。
王都にある物は他種族をざっくばらんにまとめた図鑑のような本ばかりだったのに、背表紙を見る限りここには種族ごと、あるいはその生態ごとに執筆されているようだ。
なにから手をつけるのが正解か分からないが、他種族に関する書物に触れないわけにはいかない。王都ではお目にかかれなかった代物ばかりだ。
うろうろと書棚を物色していると、妙な一角を見つけた。書棚まるまるひとつ分、背表紙になにも書かれていなかったのだ。そしてどれも、臙脂色の装丁である。
ひとりの人間が書くにしては膨大過ぎる量。そして、意志を共有していないと一致しない装丁。
手ごろな位置にあった一冊を引き抜き、表紙に目を落とす。見たことのない一文字が金色で捺されているだけ。
ぱらり、と中を開くと、思わず息を呑んだ。ぎっしりと文字が詰まっているのだが、まったく読めないのである。ただ、知らない文字ではなかった。
それは何度か目にしている。王都の他種族図鑑で、あるいは『岩蜘蛛の巣』で。
「小人文字……」
文法も文脈も分からないけど、無意味に書き散らしたわけではないだろう。絵や図も入っておらず内容はさっぱり分からないが、規則性を感じる羅列だった。
どうして魔女が小人の本を持っているのだろう。それも、棚いっぱいに。
ドアの開く音がして、本を手にしたまま書棚を抜けた。すると、ちょうど魔女がこちらへと寄ってくるところだった。
「いい退屈凌ぎになるかい?」
不敵な笑み。なにもかも見抜いているかのような、そんな表情。
「ええ、とっても刺激的」
「そりゃあ良かった。……さて、と」
魔女は真っ直ぐ別の書棚へと向かい、書物を指さした。そして手を払う。すると、まるで彼女の人さし指と糸で括られているかのように、本がするりと棚を抜けて空中に静止した。
魔女は次々とそれを繰り返す。
「見世物じゃないよ」
こちらに一瞥も送らず釘を刺す。つくづく鋭敏な人だ。
魔女は合計七冊を抜き出すと、すたすたと歩いていった。積まれた書物が宙を滑るように彼女を追う。
「ちょっといいかしら」
去る前に聞いておきたいことがあった。
魔女は足を止め、わたしを横目で見る。「なんだい?」
「気になるんだけど、どうしてこんなに他種族の本が揃ってるの?」
「ああ」と魔女はいかにもつまらなさそうに返した。「珍しい物が好きだからさァ」
「たとえばこの本なんだけど――」
言って、中身を開いて見せた。魔女の瞳がゆっくりと細まる。
「小人文字で書かれてるようだけど、あなたは読めるの?」
「読めるさァ。いくらなんでも読めない本を置くわけがないだろう? 親切な小人に譲ってもらったのさァ」
驚いた。魔女はわたしの想像を超えた存在だとは思っていたが、小人が内輪のためだけに使っている文字まで読めるなんて……。
それに、小人から書物を譲り受けた?
もしかして、書棚ひとつ分?
信じられない。
「……これは、どんなことが書かれているの?」
こちらの質問に、魔女は含みのある微笑を浮かべた。
「ただの歴史書さァ。特別なことなんてなにも書かれてない。過去に起こった事実を、所感を交えずに書いてるだけさねェ。小人は代々そうやって、コロニーの長が歴史書を書くのさァ。子孫繁栄よりも大事な仕事らしいねェ。酔狂な生き物さァ」
小人だけに引き継がれる歴史。どうしてだか、引っ掛かりを感じる。
足を踏み出しかけた魔女をもう一度呼び止めた。
「ねえ……小人の歴史とわたしの知ってる歴史は違うのかしら」
魔女は一拍置いて、振り返らずに答えた。
「お嬢ちゃんがどんな歴史を知っているかなんてあたしは知らないよ。そんな間違い探しをしたってつまらない。お嬢ちゃんが望むと望まざるとにかかわらず、なにが正しいかを知る機会が来るさァ。たぶんねェ」
バタン、と閉じられたドアは一切の追及を拒絶するようだった。
望むと望まざるとにかかわらず、知る機会が来る。魔女は確かにそう言った。ということは、わたしが王都で、あるいは孤児院で知った歴史は誤っているのだろうか。
どこが、どんなふうに。
……考えても答えなんて出てこない。今まで疑問に感じたことなんてなかったのだから。
遥か昔から魔物が存在し、人類は『夜』を脅かされてきた。隣国は魔物と、その血を持つ『黒の血族』によって滅亡させられたのである。それ以降、連中に対抗するために人々は魔術を研磨し、魔具や魔道具を発明した。
たったそれだけだ。
どこにも疑うべきポイントが見出せないじゃないか。
手にした本に目を落とした。きっとここに答えがあるのだろうけど、今のわたしには知るすべがない。
深く息を吐き、並び立つ書架を見上げた。
ノックスが回復するまでまだ数日は必要だろう。この書架にどれだけの知識が詰め込まれているかは計り知れないが、時間の許す限り吸収すべきだ。書物から得た知識によって窮地を助けられたことは何度もある。今後ニコルに肉薄するためにも、決して無駄にはならないはずだ。
夜は戦闘を。昼間は知識を。そんな生活には慣れきってる。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『小人』→人間とは別の存在。背が低く、ずんぐりとした体形が特徴。その性質は謎に包まれているものの、独自の文化を持つと語られている。特に小人の綴った『小人文字』はその筆頭。『岩蜘蛛の巣』の小人たちは、人間を嫌っている様子を見せた。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『王立図書館』→王都にある図書館。クロエが好んで通っていた場所。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。実は最果てと王都近辺を繋いでいる。詳しくは『第七話「岩蜘蛛の巣」』にて




