281.「毒食の理由 ~獣の片鱗~」
夜闇の影から現れた魔物は確か――スピナマニスという名だったはずだ。表皮を固い鱗で覆われ、かつ、トゲがいくつも生えている。何度か戦ったことはあったが、刃の通る相手じゃなかった。連中が出現したときはいつも魔術師か、特殊な攻撃が可能な魔具を持つ騎士が駆り出されて討伐にあたっていたはず。
スピナマニスは通常だとのそのそと這って移動するが、標的を発見すると――。
「丸まったにゃ」魔物を見つめ、ジェニーはしげしげと呟いた。
その平凡な口調からすると、もしやスピナマニスを目にしたことがないのかもしれない。なら、その特徴を知らないはずだ。奴らがその状態になったということは、かなり危険な状況だってことも。
「ジェニー! シンクレール! 気を付けて! 一気に来るわよ」
叫んだ直後、その巨体が急速に回転をはじめ、周囲のグールを蹴散らしつつこちらへ迫ってきた。
合計三体。二体は魔女へ、もう一体はこちらへと接近してくる。
「面倒だねェ……。ジェニー、そっちのほうは任せたよ」
「はいにゃ!」
勢いよく返事をすると、ジェニーは前傾姿勢をとった。まさか……奴と近距離で戦うというのだろうか。
「ジェニー! あいつの身体はとっても硬いしトゲもあるから、まともにやりあったら傷付くのはこっちよ」
「にゃにゃ! じゃあどうすればいいにゃ?」
やっぱり考えなしか。
振り向き、シンクレールに目くばせする。彼は頷いて、地面へ手を突いた。
大丈夫だ。シンクレールは対処法を知っている。
「とりあえずそこから動かないで!」
「分かったにゃ」
ジェニーが素直で助かった。無闇に突っ込むタイプだったら厄介なことになっていたに違いない。
スピナマニスは速度を上げて接近してくる。もはや馬車の最高速度を超えていた。
残り十メートル程度の位置で、奴とわたしたちの間の地面が魔力を帯びる。
「氷像!」
シンクレールが叫ぶと同時に、地面から斜めに氷の台が出現した。スピナマニスは勢いそのままに台を駆け昇り、そして――宙に浮く。
そのままわたしたちの頭上を大きく飛び越え、反対側の地面に激突した。
「あいつはあんまり頭が良くないの。硬いだけよ。それと、車輪みたいになってる状態はそれほど長い時間維持出来ないわ。だから、解除されるまではシンクレールの魔術で凌ぐってわけ」
「にゃるほど」
ジェニーは感心したように目を丸くして、こくこくと頷いた。
問題は解除されたあとである。上手く急所の腹部に刃を突き立てられればいいが……その箇所だって決して柔らかいわけではない。氷の大剣でなんとかなるかどうか怪しいものである。
シンクレールは氷像――氷の魔術による造形――を的確に作り上げ、スピナマニスの攻撃を無力化していた。もうじき車輪状態も解けるだろう。
気になるのは魔女のほうである。彼女は二体相手にどうやって立ち回っているのか。
彼女に視線を向けると、ぎょっとした。スピナマニス二体に挟まれ、しかも五メートル圏内まで接近を許していたのだ。通常は決して助からない位置である。
瞬間、おぞましいまでの寒気と耳鳴りに襲われた。肌が粟立ち、腕が震える。
別種の魔物の気配――それも、スピナマニスなどチンケに思えるくらい強大な気配が、叩き付けるように噴き出している。
魔物の気配は魔女の片腕――存在しない腕からしている。
そこからは一瞬だった。
正直、なにが起きたのか判別も難しい。
ただ、魔女が悠々と立っていることだけは事実だった。
魔女の腕から黒い霧が現れたかと思えば、それが獣の咢に変化し、迫り来る二体のスピナマニスそれぞれの身体を外殻ごと抉り取ったのだ。まるで飢えた猛獣が獲物にかぶりつくように。
二体のスピナマニスが蒸発していく。気が付くと、魔女の片腕も消失していた。
『毒食』という彼女の異名を思い出し、無意識に身震いした。確かに今の光景は食事に見えてもおかしくない。
消えた腕に飼った獣。それに魔物を食わせる様は、なるほど、毒を食らう姿に見えるだろう。
仕組みなんてもちろん分からない。きっとシンクレールだって見当がつかないだろうし、もしかしたらヨハンでさえ知らないかも……。
いずれにせよ、魔女がとんでもなく強い存在であることは確かだった。彼女なら勇者一行だって造作なく相手に出来るかもしれない。だからこそ、魔王討伐に協力しないその姿勢が悔しかった。
地面を抉る轟音が鳴り響き、スピナマニスに意識を戻す。魔女は、残る一体はこちらが始末するように告げたのだ。今は彼女の実力に甘えるのではなく、自分の力を発揮しなければならない。
「そろそろ解除されるから、かまえて! お腹が弱点よ!」
「分かったにゃ。ジェニーが頑張るにゃ」
スピナマニスが丸まってから二分以上が経過しているはず。奴がその状態を維持出来るのは平均で約三分。解除されてから再び車輪状態に戻るまでにはその半分ほどの時間がかかる、というのが常識だ。つまり、わたしたちが攻撃に使える時間は一分半。決して長くはないが、問題ない。
シンクレールに目配せをすると、彼は頷きを返した。大丈夫だ、きっと同じ作戦を考えている。
スピナマニスを相手取るにあたって、決まった流れが存在する。奴の車輪状態が解除されたら、まずはその身体をひっくり返す。その後、腹部に強烈な攻撃を打ち込めばそれで終わりだ。今のわたしに奴の腹を貫くほどの攻撃が出来るかは怪しいが、こればかりは試してみなければ分からない。
シンクレールの作り出した氷の台から空中へ躍り出たスピナマニスが、その身体を開くのが見えた。
よし。あとは奴が着地すると同時に――。
「にゃにゃにゃ!!」
「え?」
わたしの隣でメイド服が翻り、跳び上がるジェニーが見えた。呆気に取られてその姿を目で追う。
確かにわたしは『解除されたら攻撃開始』と言ったし、腹部が弱点であることも告げた。けれど、いくらなんでも空中で――。
重く、痺れるような音が響き渡る。
ジェニーは空中でステップを踏み、スピナマニスの身体を真上に蹴りあげたのだ。その巨体が天の深みを目指して、みるみるうちに小さくなる。ジェニーは空中にとどまったままそれを見上げていた。
魔具を使ったとはいえ、あの巨体を細い足で打ち上げるなんて……。魔女も異常だが、ジェニーも負けていない。
「クロエ~! そこから離れるにゃ~!」
彼女はこちらを見下ろし、大声で叫んだ。見ると、スピナマニスがこちらへと落下してくるのが分かる。その身が地面に叩きつけられると、確かにわたしたちは無事ではない。
シンクレールとヨハンの二人と視線を交わし、奴の落下地点から遠ざかった。
その巨体が落ちると同時に攻撃再開――いや、おかしい。
見上げたスピナマニスは、妙に丸い身体をしていた。
――車輪状態に移行している。しかも、回転しながら。まだ一分も経っていないのに……個体差はあるだろうが、想定外の移行速度だった。もしあの状態で落下されれば、地面を抉りながらの接近が再開されるだろう。
「ジェニー、避けて!」
彼女は空中で、高速回転する敵を見上げ続けていた。そして、ぎゅっと拳を握っている。もはや彼女と敵との間には五メートルもない。なにを考えているんだ。
その直後に起きたのは、あまりに異様な展開だった。ジェニーの身体が消えたと思ったら、スピナマニスの真上に移動していたのだ。
そして巨大な空震とともに拳が振り下ろされ――スピナマニスを地面に叩きつけたのである。
耳をつんざくような轟音と、身体が跳ねるような地震に襲われた。打ち落とされたスピナマニスの外殻が無残に飛び散るのが一瞬映り、それから奴は土煙に混じって蒸発した。
「あはは……」
シンクレールの、乾いた笑いが聴こえる。
もはや笑うしかない。
彼女は、騎士でさえ破壊することが困難とされる外殻を拳で叩き割ったのだ。生身の拳で。
亀裂の入った地面に、すとん、とジェニーが着地する。
その顔には満面の笑み。そして、それまで存在しなかったものがあった。
頭に生えたふさふさの耳と、すらりと長い尻尾。
「おや」とヨハンが呟きを漏らす。わたしもほとんど無意識に「ジェニー、それ――」と口走っていた。
彼女は小首を傾げたあと、自分の頭に触れ、ぎょっと目を見開いた。それから訪れたのは蒼褪めた顔と、潤む瞳、そして――。
「にゃにゃにゃにゃ……! き……嫌われたにゃぁ!!」
ジェニーの頬を涙が伝い、わたしたちに背を向けて一目散に駆けていった。「待って!」と叫んだときには消えていたほどのスピードで。
なにがなんだか分からないけれど、彼女のそのままにしておくわけにはいかない。
「ジェニーを追いかけるから、あとはお願い!」
「ええ、承知しました」とヨハン。シンクレールは口をぽかんと開けたまま頷いただけだった。
理由は知らないけど、彼女は泣いていたし『嫌われた』とも言った。放っておけるわけない。
「待ちなよ、お嬢ちゃん」
駆け出したわたしの前に、魔女が立ちはだかる。彼女の目付きは特別冷たくもなければ、厳しくもなかった。普段通りの、やけに達観した表情。
「なに?」
思わず、口調も表情も鋭くなってしまう。すぐにでもジェニーを追いかけて、なにか誤解があるなら解いてあげないと。
「干渉するな、とは言わないよ。それはお嬢ちゃんの自由さァ。ただ、物事の優先順位を誤っちゃいけない。今はどういう状況で、なんのためにここまで来たんだい?」
今は魔物の時間で、わたしは戦うために来た。それは確かだったが……泣きながら去っていったジェニーを放置するつもりなんてない。
こちらの気持ちを察したのか、魔女はため息をついてジェニーの去った方角に視線を向けた。
「うちのメイドは邸に戻っただけさァ。陽が昇ったら会ってやればいい。ちょっとぐらいひとりにさせてやりなよ。デリケートな子なんだよ、あれで」
魔女の口元に、ふ、っと寂しげな笑いが微かに浮かんだ。
「……ジェニーは本当に大丈夫?」
「心配性だねェ。……大丈夫さァ。お嬢ちゃんだってひとりきりになりたいときはあるだろう?」
誰しもそうだ。多分、例外なんてない。
『けれど』とか『でも』とか『だって』を、ぐっと呑み込んで頷いた。ジェニーとの付き合いは魔女のほうが長いのだし、きっとなにもかも熟知しているのだろう。
ただ、それだけで引き下がる気にはなれなかった。
「……ジェニーが何者なのか、説明してくれる?」
「直接聞きなよ、って言いたいけどねェ……うちのメイドはとことん口下手だ……。変な誤解をされるくらいならあたしから説明してやるさァ」
言葉を切り、魔女は群なすグールをぐるりと見渡した。「夜が明けたらねェ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。トリクシィに抵抗した結果、クロエとともに行動することになった。詳しくは『169.「生の実感」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて




