279.「物好きな主人」
魔女の首筋。
その急所を目指して振り下ろされたナイフが血を浴びることはなかった。頸動脈から数センチのところで凶器が静止している。
ピンポイントで展開された極小の防御魔術に阻まれたのだ。
魔女は悠々とワインを飲み干し、愉しげに息をついた。その顔には微笑さえ浮かんでいる。
ウィンストンはというと、ナイフを握りしめたまま悔しそうに顔を歪めている。今まで冷静沈着で厳粛とした姿しか見せなかった彼がこんな表情をするなんて、信じられないくらいだ。
目の前でなにが起こっているのか、さっぱり理解が出来ない。ヨハンとシンクレールを一瞥したが、彼らも唖然と魔女を見つめていた。
魔女は含み笑いをこぼしつつ呟いた。
「五点。お客がいるから油断しているなんて思ったかい?」
ウィンストンのため息が広がる。彼はナイフを懐に納め、こちらを見回して「失礼いたしました」と頭を下げて見せた。
わけが分からない。
ウィンストンは何事もなかったかのように空のグラスを回収すると、粛々と食堂を去っていった。
「えーと……」と口を開いたはいいものの、上手く言葉が出てこない。
そんなわたしを見て、魔女はクスクスと笑う。
「驚いたかい? まァ、そうだろうねェ」
「どういうことか教えてくれないかしら?」
わたしに同調するように、シンクレールが頷いた。ヨハンは魔女の言葉を待つように、ニヤニヤと彼女を見つめている。
「長話をするつもりはないよ」と前置きを入れて、魔女は語りはじめた。
宣言通り、ごくシンプルに。
「ウィンストンはあたしを殺したくてたまらないのさァ。あいつの故郷を壊滅させたからねェ」
魔女がウィンストンの故郷を滅ぼした?
確かに魔女にはそれだけの力があるだろうけど、無意味に破壊するとも思えない。
「――で、行き場を失ったあいつを執事として雇い入れたのさァ。あたし相手に刃を振りかざす奴なんて珍しいからねェ」
珍しいから、自分の敵をそばに置く。その神経が理解出来ない。
「昔は毎日、あの手この手で暗殺を仕掛けてきたものさァ。夜討ちはもちろん、毒殺、爆弾……邸中に罠を張られたこともあったねェ」
まるで思い出話のように魔女は語る。現在進行形で暗殺がおこなわれているのに……。
「今となっちゃ、あの有様さァ。殺す気があるんだかないんだか分かりゃしないよ」
不満そうに言ったが、先ほどの攻撃は頸動脈を目指していた。殺す気満々ではないか。
「未来が読めるなら暗殺なんて成立しないんじゃないですか?」とヨハンが口を挟む。
魔女はいかにも不快そうに舌打ちをした。
「無粋なこと言うんじゃないよ。あたしは身内の未来なんて視ない。そんなつまらないことしてなんになるってんだい」
すると、ジェニーに関してもウィンストンに関しても、未来を知らないというわけか。にもかかわらず数々の暗殺をかわしているとなると、刺激的どころの話じゃない。
珍しい物が好き、と言っていた魔女の言葉を思い出す。なるほど。ウィンストンはただの執事だと思っていたが、決してそうじゃなかった。最も身近な場所で魔女の命を狙う男。強大な力を持つ彼女にとっては、何度失敗しても挑戦し続ける彼を面白く感じているのだろう。
「ウィンストンが狙ってるのはあたしだけさァ。あの子供やあんたらを巻き込むことはないよ。そこは安心していい」
魔女が言うならそうなんだろうけど、安心とはほど遠い事実である。
「いつからそんな関係が続いてるの?」
おそるおそるたずねると、魔女は思い出すように天井を見上げた。
「そうさねェ……。ウィンストンが子供だった頃からだねェ」
あんたは何歳だよ、と言いたくなったが我慢した。『黒の血族』に年齢の話を持ち出しても虚しいだけだ。血族は老化しないと言われているのだから。
ウィンストンが今五十代だとしても、四十年近くは暗殺を受け続けたというわけか。気が遠くなる。
「さァ、これで話はおしまい。もう充分だろう?」
そう残して、魔女は去って行った。
「まったく、妙な人ですね」
ぽつり、とヨハンがこぼす。
「ええ、そうね……」
やがてわたしたちも、それぞれ食堂を去った。
ふと思い出して、ゲストルームには戻らずに魔女の部屋へと向かった。今夜のことについて、あらかじめ言っておくべきだろう。魔物の時間に入ってから拒絶されても困る。
魔女の私室をノックすると、昼間と同様に薄く片側の扉だけが開かれた。
わたしの顔を確認すると、魔女は無言で室内に入れた。
部屋は随分と暗かった。机の上にランプ型のささやかな永久魔力灯があるだけである。魔女は昼間と同じソファを勧めると、ランプをローテーブルに移動させた。
「あの子の様子を見に来たのかい」
「それもあるけど、別の話もあるの」
魔女は促すように黙った。その瞳には薄暗い輝きが宿っている。
「今夜、魔物の討伐に付き合わせてくれないかしら」
言うと、彼女は蔑むように目を歪めた。「なにも出来やしないんだから、ベッドで夢を見ていればいいじゃないかァ。武器もないんだろう?」
「……確かに、なにも出来ないかもしれない。けど、あなたの魔術を間近で見ておきたいの。なにもしないよりは、絶対にそのほうがいいから」
「案外図々しいねェ、お嬢ちゃん。自分が今どれだけ恥知らずなことを口にしてるか分かってるのかい?」
自覚してる。なにも出来ないけど、見学させてほしいなんて……。
魔物の討伐は本来、楽なことではないのだ。足手まといを自覚してなおついていくなんて、とんでもなく図々しい。
「分かってるわ。とんでもなく失礼なことをお願いしているってことくらい……。でも、ただ身体を休めてるだけじゃ絶対に魔王に勝てない」
「そうさねェ」と魔女は言葉を切り、やや俯いた。「魔王がどれほどのものか知らないけど、今のお嬢ちゃんじゃ口を開く前に殺されるだろうねェ。――でも、思わないかい? どれだけ努力したって限界はある。相手は『黒の血族』で、人間とはスペックが違うんだよ。血族のトップに勝てるだけの力をつけるなんて、何百年時間があったって出来ることじゃないさァ」
それでも、進まなければならない。無謀は承知しているし、自分自身の弱さも嫌というほど味わった。
けど――いや、だからこそだ。
魔女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「わたしは諦めの悪い人間なの」
視線が交差し、一瞬の沈黙が流れた。
それを裂くように、魔女がため息をこぼす。
「とんだ頑固者を招き入れちまったねェ……」
「ええ。わたしは図々しくて恥知らずで、頑固者なの」
「分かったよ。好きにするといいさァ。ただし、自分の身は自分で守るんだよ。ウィンストンに言えばいくらでも物騒な武器を貸してくれるさァ」
くすり、と魔女が笑う。それにつられて頬がゆるんだ。
暗殺家の執事なら、確かに、武器はあり余るほどあるだろう。
「なにからなにまで、お世話になります」
「別にいいさァ。あたしは物好きだからねェ」
わたしが言うことではないが、とんでもない物好きだ。
にゃあにゃあうるさいメイドと、暗殺を繰り返す執事。
王都では裏切り者の死者として扱われているわたしとシンクレール。
魔女と同様に『黒の血族』の血を半分持っている性格の悪い男。
そして、昏睡状態にある特殊体質の子供。
それらすべてを受け入れてしまえるんだから、すさまじい。
「いつか必ず恩返しするわ」
相応の覚悟で返した言葉だったが、魔女は目をつむって首を横に振った。
「いらないよ、そういうのは」
夜は、更けていく。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。昔から魔女の命を狙って暗殺を繰り返している。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




