275.「そそっかしい子」
庭でひとり、午後の風を浴びていた。ハナニラの匂いが鼻をくすぐる。陽射しはぽかぽかと温かで、空は晴れ渡っていた。
しかしながら、ため息が止まらない。
きっちりと縫合された胸を服の上から撫でると、じくじくと痛んだ。
ウィンストンの治療は適切だったのだろう。手際も良かったのだろう。なんでもないように振る舞ってくれたのは、優しさなんだろう。けれども、恥ずかしいものは恥ずかしい。隠すべき場所を隠していても恥ずかしいのだ。
お嫁にいけない。いや、体裁上は既婚者だけども。
ジェニーがパタパタと忙しそうに邸を出入りしている。両手に抱えた籠には衣類が山盛りになっていた。庭の目立たない箇所に洗濯物を干す彼女をぼんやりと眺め、またため息をつく。
屈辱とか恥辱とか、感情的なアレコレは捨てなきゃならないんだろう、きっと。変な強がりがいつか決定的な場面で足を引っ張るかもしれない。
衣類を干し終えたジェニーが、こちらを見て手を振った。振り返しつつ、呑気な午後だなぁ、と思ってしまう。魔王の生存もニコルの裏切りも、まるでなかったみたいに平和なひととき。
たぶん、こういう一瞬一瞬はとてつもなく大事なものなのだろう。けれど……思い切り謳歌する気分にはなれなかった。それはウィンストンに裸を見られたからじゃない。
この先、どう進んでいくか。はっきりとした見通しが立たないのだ。王都に近寄ることは出来ないものの、そこがニコルの標的である以上避けては通れない。そもそもヨハンが語ったように二重思考で真偽師を突破出来るのなら、スヴェルだって同じ方法で王の目を欺くことが可能なのだ。王を守る自分と、ニコルのために王都を壊滅させる自分。その二つを両立させれば……。
ひとりで考えていても、結論は出そうにない。立ち上がり、服を払った。
ちょうどジェニーも邸に戻るらしく、真っ直ぐ玄関口に向かう彼女が見えた。
「ねえ、ジェニー。ちょっといいかしら」
彼女はなぜか嬉しそうに目を細めて「なんにゃ?」と近寄ってきた。
「魔女のところへ行きたいの。部屋まで案内してくれるかしら?」
するとジェニーは目を丸くして固まった。そして口をぱくぱくさせている。
どうしたのだろう。
「どうしたの?」
聞くと、ジェニーはがっくりと肩を落とした。
「オヤブンに『クロエのことを見つけたら呼ぶように』って言われてたけど、すっかり忘れてたにゃ……」
ああ、なるほど。洗濯に夢中になっていたというわけか。誰にも言わずに庭まで出ていたから、今頃魔女は待ちくたびれているかもしれない。
「きっと魔女はご機嫌ナナメでしょうね」
「にゃにゃにゃ……」
しょんぼりとする彼女がなんだか不憫である。どうとでも言い逃れ出来るだろうに、と思ってから気付いた。未来の視える魔女に隠しごとなんかしても意味がないのか。嘘だってすぐに見抜かれてしまう。
邸に戻り、魔女の部屋に向かう間もジェニーは分かりやすく気落ちしていた。
「お仕置きされるにゃ……」
「お仕置きって、なにをされるの?」
「おかずが一品減るにゃ……」
思わず笑いそうになった。と同時に、そんなことで一喜一憂出来る彼女が羨ましくなる。
「それは残念ね。あたしの分のおかずを分けてあげるから元気出して」
てっきり喜ぶと思ったのだが、彼女は口元を引き結んでぶんぶんと首を横に振った。
「それは、おしとやかじゃないにゃ」
はたして、おしとやかとは。
「ねえ、あなたがよく言ってる『おしとやか』ってなんのこと?」
「ジェニーがおてんばだから、オヤブンによく言われる言葉にゃ。おしとやかにしないと見捨てられるんだにゃ」
きっと魔女は冗談のつもりで口にしたのだろう。いや、でも、あの性格なら本当にやりかねないかも……。
「あなたも色々と大変なのね」
「オヤブンよりは大変じゃないにゃ」とジェニーはきっぱり返す。
確かに、魔女は夜間防衛で毎晩大規模な魔術を展開している。当人は大したことないようにやってのけるが、はたから見ると異常どころの話ではない。
ジェニーは奥まった部屋の前で足を止めた。両開きの扉には、碧色の宝石が散りばめられている。
ここが魔女の私室なのだろう。
ジェニーは大きく息を吸い、ガラス細工でも扱うような慎重さで三回ノックをした。
内側からヒールが床を打つ音が聴こえ、片側の扉が薄く内側に開かれる。その隙間で、魔女がいかにも不快そうな表情を覗かせていた。
「お、オヤブンっ! クロエを連れてきたにゃっ!」
「お手柄じゃないか、ジェニー。指示してから二時間で連れてくるなんて、随分とスピーディだねェ」
おそろしく不機嫌である。わたしは悪くないはずなのに、なんだか罪悪感が込み上げてきた。
「それに、とびっきりのサプライズをしてくれて嬉しいよ……。あたしは応接間にお嬢ちゃんを通せと言ったけど、ジェニー、お前はあたしを驚かせようとして直接部屋まで連れてきたんだねェ。偉いじゃないかァ、えェ?」
そんな指示も出していたのか。
ジェニーを見ると、彼女は「んにゃぁ……」とひと鳴きして今にも泣きそうな顔をしている。さすがに不憫だ。
魔女はジェニーの反応を見たからなのか、ため息をついた。
「まァ、いいさァ。入りなよ、お嬢ちゃん」
部屋に入ると、おや、と思った。木目調の質素な部屋だったのである。それに、応接間の半分程度の広さしかない。
別室へ続くドアが左右の壁にひとつずつあったが、生活スペースはここと見て間違いないだろう。小ぶりの食器棚には陶磁のマグカップと皿がいくつかと、茶葉らしきものが半分ほど詰まった大瓶がひとつ、陶磁のティーカップがひとつ。整った木机の上には手のひら大の盆がぽつんと置かれてあった。部屋の隅には申し訳程度のひとり掛けソファが二つ、小ぶりのローテーブルを挟んで向かい合わせに置いてある。天井から下がるのは一灯式のささやかな永久魔力灯。
邸の外観やほかの部屋の様子と比較すると雲泥の差である。ゲストルームはこの部屋の何倍も豪華なのだ。
「あんまりじろじろ見まわすモンじゃないよ……さァ、そこにかけな。小さいけど、品は良いからねェ」
言って、魔女は食器棚を開けた。カップとソーサーをふた揃え。ティーポットに茶葉を入れ、ローテーブルに置いた。そしてソファに腰かけ、指先をポットの内側に向ける。
彼女の指から、トトトト、と湯が注がれるのが見えた。シンクレールが騎士団本部で見せたのと同じ、お湯を出すだけの魔術。
勧められた通り、彼女の向かいに腰を下ろした。
「あ、あの」とジェニーは入り口で手を上げ下げして焦った表情を浮かべている。「おもてなしの用意はジェニーがするにゃ……」
「ああ」と魔女は先ほどよりは和らいだ顔で返した。「お前の仕事は応接間でもてなしの準備をすることさァ。それは済んでいるんだろう? 上出来じゃないかァ。使わなかったけどさァ」
ジェニーがぐっと唇を結ぶと、魔女は「ハハ」と軽快に笑った。
「あんまりからかうのも可哀想だねェ。いいさァ、ジェニー。許してやろう。あたしとお嬢ちゃんはここでのんびりしてるから、お前はほかのお客をもてなしておやり」
優しい口調だった。さっきまでの不機嫌な様子が嘘のように。
ジェニーはしばらくもじもじしていたが、「ごめんなさいですにゃ」と言って去って行った。
「狭い部屋で悪いねェ」
「いえ、こっちのほうが落ち着くわ」
「そりゃあ、良かった。……まったく、そそっかしい子だよ、ジェニーは」
確かに、ふわふわした人である。
「そうね。けど愛嬌もあるし、退屈しないわ」
「確かに、退屈しのぎにはなるねェ」
魔女は落ち着き払った仕草で紅茶をそれぞれのカップに注いだ。湯気と一緒に、ふんわりと華やいだ香りが鼻をくすぐる。
「さて」と魔女はこちらをじっと見つめ、不敵な笑みを浮かべた。「邸を出てからなにがあったのか、教えてもらおうじゃないかァ」
◆改稿
・2018/06/01 誤字修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ウィンストン』→『毒食の魔女』の邸の執事。丁寧な口調の壮年男性。ジェニーとは犬猿の仲。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『スヴェル』→ニコルと共に旅をしたメンバー。王の側近であり、近衛兵の指揮官。『王の盾』の異名をとる戦士。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』にて
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。ある事件により、真偽師の重要度は地に落ちた。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『261.「真偽判定」』『第九話「王都グレキランス」』にて
・『二重思考』→魔具職人のコーティング技術が外部に出回らないように使用されている魔術。あくまでも噂であり、全貌は不明。記憶の一部を思い出せなくする魔術、とされている。詳しくは『26.「アカツキの見る世界」』『257.「すべては因果の糸に」』『271.「二重思考」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。詳しくは『第九話「王都グレキランス」』にて




