273.「再訪の地」
ヨハンが転移させた先はイフェイオンの東に広がる山岳地帯だった。
さすがにこの展開まで計算に入れていたなんて思えないが、満身創痍のわたしたちと、なによりこの状態のノックスを回復させるためには『毒食の魔女』の力を借りるしかない。
そのことを提案したのは、意外なことにヨハンだった。その過程で現在地も話してくれたのだ。
あれだけ魔女に嫌われていたのにそれを口に出せるだなんて。今のところはわたしにも分かる範囲で論理的に動いているというわけだ。
決して油断はしないが、ヨハンの言うこと全部を頭から否定するのも違う。感情的になり過ぎるのもよくないだろう。
窪地に向けて歩く。ゆっくりと、確実に。膝までの長さまで伸びた草がさわさわと音を立てている。
「で、その魔女にどうやって会うんだい」とシンクレールがぽつりとこぼした。
そうだ。彼は魔女と会っていないのだ。彼女がどういう存在かも知らないはず。
「近くなれば、きっと向こうから迎えを寄越すわ」
シンクレールは怪訝そうな表情で草原の先を見つめ、「ああ、うん。そっか」と呟いた。
そうやって理解を諦める性格も、以前のままである。
「……なにか言いたいことがあるなら言って頂戴。あなたには嘘をつかないから」
ここ数日、シンクレールにとってはわけの分からない日々が続いているだろう。王を射抜いたヨハンと再び手を組んでいるわたしは、彼の目には悪党として映っているだろうか。
やがてシンクレールは遠慮がちに口を開いた。
「……君はいったい、なんのために……その……ヨハンと組んでいるんだ」
裏切り者、と言いたいのをぐっとこらえてヨハンと呼んだのが傍目にも分かった。さすがにすぐ隣を歩く男を裏切り者と呼ぶことは出来ないらしい。
シンクレールらしいというかなんというか……。
「トリクシィから逃げるために必要だったし、今後、本当に魔王とニコルを倒すためには彼の力を借りて損はないわ」
言うと、ヨハンがニヤニヤとこちらを見た。鬱陶しい。
ヨハンに限らず、本気になるのなら誰の力であっても借りなければならないだろう。手段を選んでいるような余裕はなにひとつない。今回のニコルのやり口で身にしみて理解した。
「それにしても、世界の半分を彼に渡すだなんて……」
確かに、過剰だろう。そして現実味もない。だが、本人がハルキゲニアで冗談交じりに言っていたのだ。それを真に受けたわけではなかったが、ヨハンと契約をする際に、それしかないと思ってしまったのである。
そして結果的に契約を結ぶことが出来た。
「なぁに、平和に使いますよ」なんてヨハンは口笛のような気楽さで言う。
一切信用ならないが、ヨハンが受け取るべき報酬だ。それをどう使うかは彼次第だが――。
「あなたが魔王の後釜に座るつもりなら容赦しない」
そう言ってのけると、ヨハンは苦笑した。
「ですから、平和に使うって言ってるでしょうに……まあ、信用出来ないでしょうけど」
魔王の次に、あの城の玉座に座るのはヨハンかもしれない。
……いかにもありそうな話だ。そうなったときには、わたしの戦いがまだ継続されるというだけである。王都を脅かす存在はなんとしてでも討ち取るつもりなのだから。
「それにしても」とシンクレールは憂鬱そうに俯いた。「本当にニコルさんが裏切り者なんだね?」
「そうよ」
一度はわたしを信じると口にしていたが、シンクレールは少し揺らいでいるようだった。無理もない。今までの常識からは考えられないようなことなのだから。固定観念を解体しきってしまうまでには随分と時間がかかるだろう。
しかし彼が思いわずらっているのは、そんなことではなかった。
「……クロエに哀しい思いをさせるなんて、許せない」
呆気にとられて彼の横顔を眺めると、そこには紛れもない怒りが浮かんでいた。
わたしがニコルに求婚され、その直後に裏切られたことに対して怒っているのだろう。
「そうね、許せない」
本当に好きだったからこそ、許せない。
「でも、シンクレール。本当にわたしに協力してくれるってことでいいの? まあ、後戻りなんて出来ない状況かもしれないけど……」
「協力するさ。どこまでも……だって――」
シンクレールは言いかけて、口をつぐんだ。
隠してるつもりなのかどうか知らないが……恋愛感情でもあるのだろう。バレバレだ。それに応えるつもりはないけれど、なんだか利用しているみたいで申し訳なさがある。いつかはっきり振ってあげたほうがいいんだろうけど……。
いずれにせよ、シンクレールも今になって王都に戻ることなんて絶対に出来ないだろう。もちろん、わたしたちを売れば恩赦は受けられるかもしれない。しかし、あのトリクシィが黙っているとは思えなかった。きっと酷い目に遭う。
だからこそ、とは思いたくないが、シンクレールが後戻り出来ない理由のひとつではあるだろう。
「ありがとう……ごめんね」
「いいんだ……」
下草が短くなり、窪地の縁に近付く頃。遠くでぶんぶんと手を振る人影が見えた。
それは物凄いスピードでこちらへと走ってくる。
白黒縞々の靴下に、ふわふわしたメイド服。
それほど期間は空いていないはずだったが、なんだか懐かしく思えた。
彼女はわたしたちの目の前で急ブレーキをかけるように足を止め、ニッコリと笑った。
相変わらず愛嬌たっぷりだ。
「お久しぶりにゃ」
「久しぶり、ジェニー」
彼女はこちらを順繰りに見つめた。そしてわたしの背でぐったりと息をするノックスに目がとまり、「にゃにゃにゃ」と漏らした。
「オヤブンの邸に連れてくにゃ! さあ、行くにゃ!」
ノックスの変化がジェニーにとって他人事でなければ、本当にありがたい。
彼女のあとに続いて草原を、窪地とは逆方向――つまり、わたしたちが歩いてきた方向に進む。
シンクレールは怪訝そうな顔で彼女のうしろ姿を見守っていた。
「逆戻りだけど、大丈夫なのかい?」
わたしに話しかけたのだが、答えたのはジェニーだった。
「安心するにゃ! オヤブンの邸は特別にゃ!」
そう言われてすんなり納得出来る人はいないだろう。案の定、シンクレールは首を傾げたまま黙っていた。
やがて、違和感が全身を覆った。
空気の微細な変化、とでも言おうか。シンクレールもそれを感じ取ったと見え、緊張した面持ちに変わっていた。どんな言葉よりも、この瞬間の変化のほうがずっと雄弁だ。
彼ほどの魔術師なら、先ほど歩いていた草原と今歩いている草原がまったくの別物であることくらい察しただろう。
どんどん進んでいくと、邸が見えてきた。田舎町の外れにある建物にしては、あまりに豪奢な邸宅。ハルキゲニアの富裕街区にあるような外観である。
……帰って来てしまった。それも、思ったよりずっと早く。
『毒食の魔女』は、ノックスの歩む先に明るい未来は待っていないと言っていた。
彼女の言う通りだ。あのとき魔女にノックスを預けていれば、こんな馬鹿げた悲劇に付き合わせることもなかっただろうか。
あのときのノックスの決意をどうこう言うつもりはないし、もう一度同じ選択を迫られたとしても、きっと彼を尊重するだろう。けれどどうしても後悔が胸を曇らせてしまう。
駄目だ。わたしはまだまだ弱い。戦闘能力はトリクシィ未満で、知恵だってヨハンにおよばない。精神的にも、決して打たれ強いわけじゃない。
なにもかもが足りない。それだけは理解している。
玄関口を抜けると、その人が待っていた。
赤いスリットドレスに黒のロングコート。胸元や指に煌めく宝石。銀の巻き髪。そして――隻腕と膨大な魔力。
「随分と早いお帰りだねェ。ろくでなしども」
『毒食の魔女』は愉しむような口調で出迎えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『ジェニー』→『毒食の魔女』の邸にメイドとして住み込む少女。愛嬌たっぷりで天真爛漫。語尾に「にゃ」を付けて喋る。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。未来を視る力を持つ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『イフェイオン』→窪地の底に広がる豊かな町。王都に近く、特産品の『和音ブドウ』を交易の材としている。『毒食の魔女』によって魔物の被害から逃れているものの、住民一同、彼女を快く思っていない。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。




