幕間.「王位継承」
滴るような月の光が、下草のまばらに生えた大地を照らしていた。枯れ枝がくっきりと影を落とし、さながら檻のような眺めだった。
氷獄から解放されたトリクシィが、まず目にしたのはその憂鬱な景色である。解放感なんて存在しない。あるのは不快感と、途方もない哀しみだった。
自分の手のひらを見つめ、彼女は徐々に哀しみを高めていく。目尻に潤いを感じても、決して悲嘆を消そうとはしなかった。
クロエとシンクレール。なんて哀しい人たちだろう、とトリクシィは思う。王都を裏切って無事でいられるはずもないのに。なにが二人を駆り立てているのだろう。恋だの愛だの、そんなものは幼稚だ。自分自身の判断を誤らせる原因にしかならない。ある種の精神的な病とさえトリクシィには感じられた。
トリクシィにとって涙は、正しいおこないをするためになくてはならないものである。
最初は暗示だった。魔物を薙ぎ倒す自分が感情を失いつつあることを知り、試しに、心の底から敵に同情してみたのだ。それは取ってつけたような拙い暗示だったが、繰り返すにつれて想定以上の効果を上げた。
自分はまだ感性を失っていないのだと、自然に思い込めるようになったのだ。
それからというもの、トリクシィは戦闘中、必ず哀しみを胸に抱いたのである。魔物に殺されたあらゆる人々に、散っていった仲間に、そしてなにより自分自身に、途方もない悲哀を擦り込んだのだ。
いつしかそれは、演技なのか本心なのか分からなくなった。しかしトリクシィは、哀しみの理由を深堀りして立ち止まるような真似だけはしなかった。刃を鈍らせる要素だけは徹底的に排除したのである。
戦闘中に気が昂って涙をこぼしたとき、途方もない感動があったことをトリクシィはよく覚えていた。
涙はひとつの証明である。哀しみという本物の感情が、肉体の働きに多大なる影響を与えたのだ、と。騎士として苛烈極まりない夜を越えながらも、本物の感情を失わなかった証。
それからというもの、トリクシィは戦闘中に必ず泣くようになった。しかしそれで刃がゆるむことはない。容赦はなく、しかし慈悲深い感情を抱いている。視界が多少曇る程度、些細なことだった。もはや涙がなければ戦えないとさえ、彼女は確信している。
涙は、あらゆる罪への手向けになるのだ。
トリクシィは歪む視界を眺めつつ、深く息を吸い、そして吐いた。
これからかつての仲間を討たねばならない。その事実は、これまで乗り越えて来たどんな夜よりも哀しい。
「哀しい」
ぽつりと呟き、トリクシィは全力で疾駆した。向かうべき方角は分かっている。魔術師――シンクレールの魔力は匂いで分かるのだ。
クロエが視覚で魔力を察知するのと同様に、トリクシィの察知力は嗅覚に依存していた。それを鋭敏に高め、たとえ百メートル先であっても魔力の気配を感じ取れるまでにしたのである。
戦闘と、哀しみ。その二つが手を取り合って互いを成長させた結果が今のトリクシィである。夜を行く魔物も、ならず者の凶刃も、彼女の前では等しく哀しい。
「随分と遠くまで逃げたのね……あたくし、鬼ごっこは好きじゃないの」
クロエとシンクレールの姿を捉え、トリクシィは滂沱の涙を流して足を止めた。少しでも早く息の根を止めてあげないと可哀想という気持ちと、ちゃんと後悔して死ななきゃ魂が浄化されないという思想がせめぎ合って彼女の足を止めたのだ。
クロエが目の前で荒い息をしている。それを見て、トリクシィはやはり、哀しみ以外の感情を覚えなかった。
気を失ったシンクレールと、瀕死の子供。その二人を庇うように両手を開いて立ち塞がるクロエがどこまでも健気で――だからこそ、哀しかった。
非力ながら他人を守るその姿が哀しい。その真っ直ぐな視線が哀しい。獣のように歯を食い縛るその様が哀しい。そんなにも懸命になりながら、罪人に堕ちたクロエのその心が哀しい。
「トリクシィ……お願いだから、見逃して」
その命乞いも、やはり哀しい。騎士のポリシーを忘れてしまったのだろう、クロエは。そう確信して、トリクシィは深窓令嬢を握り締めた。
「クロエさん。もう罪を広げるのはやめましょう。これ以上抵抗したって哀しいだけじゃない」
本心からトリクシィは呟いた。
そう、一連の抵抗は悪あがきに過ぎないし、そうやって抗えば抗うほど精神は濁っていくものだ。そんなふうに魂が泥沼に沈んでいく様子は、トリクシィにとってなににも代えがたい哀しみであった。騎士への侮辱でさえある。
なにがクロエにここまでさせるのか――までは考えなかった。
「罪なんかじゃない。わたしは王都を守るためにこうして――」
「もうたくさんよ」
トリクシィの刃は躊躇がなかった。クロエの胴を横薙ぎにする。鮮血が、まるで花弁のように舞った。
クロエの言いたかったことくらい、飽きるほど聞いている。トリクシィは心底うんざりしていた。自分は騙されただけ。勇者は本当に裏切っている。そのうえ、真偽師の読み違えを延々と強調して、自分は悪くないと抗弁するのだろう。聞く価値もない。これ以上王都と、そして国の英雄である勇者を貶める言葉をクロエに言ってほしくなかった。
嗚呼、とトリクシィは吐息を漏らした。
自分の知るクロエは消えてしまったのだ。騎士として夜を越えながらも、多彩な感情を捨てなかった彼女が。
実力としては完全に下だったが、その姿はトリクシィにとって少しだけ羨ましかったのだ。自分は哀しみを膨らませることで、ようやく様々な感情を維持していられる。一方でクロエは、あらゆる感情をあるがままに保持しているように見えたのだ。
「こんなことになってしまって本当に哀しいわ……さようなら、クロエさん」
腹から血をこぼして地面に横たわったクロエを眺め、トリクシィはぽつりと呟いた。視界が涙で滲む。
――しかし、これだけで終わりにするつもりはなかった。
玉座に至る回廊に立ち、王子は朝陽を眺めて目を細めた。射し込む光はおだやかで、現在王都に広がる混乱なんて露知らず、今日という一日がはじまる。
王はまだ死んではいなかった。しかし、虫の息である。なにしろ、『黒の血族』の攻撃をその胸に受けたのだ。無事であるはずがない。
王子は玉座へと向かうと、ため息を吐き出して腰を下ろした。
「王子、さぞお疲れになったでしょう」
大臣たちは口々に彼をねぎらう。それが随分と卑屈に思え、王子は鼻白むばかりであった。
今朝、王子が正式に王位を継いだのだ。王が絶命の縁にいるということで大臣から強く推され、王子がその役目を担ったのである。代々、家督で続いていた王家を途絶えさせるわけにはいかず、王が不在の期間を代理の者でまかなうわけにはいかなかった。
古臭いプライド。王子にはそう思えてならなかった。ヒエラルキーだとか、家柄だとか、そんなものは虚飾でしかない、と。
とはいえ、王子に野心がないわけでもない。まずは手始めに、自分を飼い慣らして旨い汁を吸おうとしている大臣連中の鼻を明かしてやらねば……。
王子は玉座の背後に立つ、鎧の大男――『王の盾』スヴェルを振り仰いだ。
「なあ、スヴェル。お前は誰の味方だ?」
「私は王を守るのみです」
「今の王は僕だ。これならはっきりするだろう? スヴェル、僕を守るのか?」
「はい。王を守ります」
朴念仁だ。王子はそう感じて、くすりと笑った。
しばらくすると騒々しく駆けまわる物音がして、玉座の大扉が開かれた。
「王子……! 裏切り者の討伐に向かった騎士が戻りました!」
「うん、通していいよ」
そう返すと、近衛兵は目を丸くした。そして「真偽師は……」と言いかけて口を噤む。
真偽師の価値など、今回の一件で地に落ちた。そんなペテン師に依存しているからあんなことになってしまったのだ、と王子は不快感に顔を歪めた。
近衛兵が下がると、ややあって、ひとりの女性が姿を現した。ところどころに血の跳ねた白いワンピース姿の女性である。彼女はつかつかとヒールを鳴らして玉座を進み、王子の前に跪いた。
「謁見にまいりました、トリクシィでございます。騎士団の序列はナンバー3。……クロエとその仲間の討伐を果たして帰還致しました」
「そうか。詳しく話してみろ」
命じると、トリクシィは静かな口調でひと晩の物語を語ってみせた。
クロエと、彼女の仲間である子供を発見したこと。
討伐に同行したシンクレールの裏切り。
そして、その三人の粛清の模様を事細かに……。
残念ながら、王を射抜いた男は発見出来なかったという。
「見る限り、君は嘘を言っていないようだね。……うん、信じるよ。あの男を捕まえられなかったのは残念だけど、『黒の血族』は楽に討てるものではないからね。裏切り者の騎士を始末しただけでも充分だ。それで騎士団の汚名を晴らしたなんて思わないほうがいいけど」
「……承知しております」
「なら、もう下がっていいよ」
トリクシィは深々と頭を下げて去っていった。
王子は玉座に肘をつき、少しだけ考えをめぐらせた。
そうか、裏切り者は殺すことが出来たか。
それならもう言うことはない。
王子の口元が満足気に歪んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。現在はナンバー4。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『スヴェル』→ニコルと共に旅をしたメンバー。近衛兵の指揮官。『王の盾』の異名をとる戦士。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』にて
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。ある事件により、真偽師の重要度は地に落ちた。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『261.「真偽判定」』
・『近衛兵』→グレキランスの王城および王を守護する兵隊。
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地だった。




