267.「裏切りには粛清を」
トリクシィは潤んだ目と、傘の先をこちらに向けていた。シンクレールは露骨に目を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
ヨハン――本当の名前はメフィストなのだが――は転移魔術に二日のタイムラグを施したと言っていた。つまりトリクシィとシンクレールは二日かけて魔術痕をたどり、わたしへと到達したことになる。
全部が奴の手のひらの上だ。まるでこれまでの旅のすべてが……ままごとみたいじゃないか。
『最果て』で、そして謁見までに乗り越えたあらゆる困難と成長が、彼の目には予定調和に映っていたかと思うと悔しくてならない。
――けれど、脱力して全部諦めるのは絶対に駄目だ。消えかけた命をこの背に負っているのだから。
でも、一体どうやってこの場を切り抜ければいい?
答えの出ないままに、口を開いた。
「トリクシィ! シンクレール! わたしはあの男に騙されて――」
トリクシィはこちらの言葉など耳に届いていないような様子で遮った。「シンクレールさん。例の武器をクロエさんに返してあげましょう」
見ると、シンクレールの手にはわたしのサーベルが握られていた。トリクシィの言葉に頷き、シンクレールはこちらに武器を放る。
目の前で、鞘に納められたサーベルが転がった。
思考に一瞬の空白が生まれ、疑問が押し寄せる。
どうして武器を返すのか。
その理由は?
もしかしてヨハンだけが敵であることを見抜いて、わたしを討伐隊に加えてくれるということだろうか。
だとしたら願ってもな――。
「元騎士として逝かせてあげるわ、クロエさん。あたくしも丸腰の女性とお子様を一方的にいじめるのは辛いのよ。さあ、剣を手に取って、刃をあたくしに向けて頂戴。二対一なんだもの、それくらいは遠慮しなくてもよろしくってよ」
ああ――トリクシィは本気だ。敵に刃を握らせ、その上で完膚なきまでに叩き潰したい。そんな欲望が見え透いている。
「シンクレール、わたしは裏切ってないの、信じ――」
「クロエ。騎士として、君を討伐する」
目を逸らしたまま、寂しげな口調でシンクレールは呟いた。
まったく信じてもらえない。ああ、そうか。ヨハンが真偽師と対峙したのは、彼らの信頼性を根底から揺るがすためだったのか。わたしの言葉が真実だと判定したその根拠や、信じるに足る理由を丸ごと無力化してしまうために。こうして二人の追手と対峙した際に、決して死を免れることがないように。
ヨハンが真偽判定を切り抜けた方法は不明だったが、彼は誤判定を導き出して見せたのだ。彼が『王を撃ち抜く』旨の言葉を発し、真偽師はそれを虚偽だと判定した。その直後、王が射抜かれたのだ。言葉のあやだとかニュアンスだとかで誤魔化せる誤判定ではない。明らかに矛盾している。
「クロエさん。貴女がいつまでも武器を取らないのなら、あたくしは丸腰でも攻撃しなくてはならないのよ。それくらいご承知でしょう?」
トリクシィの声には、一切の慈悲も淀みもない。
彼女は殺すためにここまで来たのだ。
王都の裏切り者を。
王殺しという世紀の大罪を負ったわたしたちを。
「分かったわ、トリクシィ。でも、この子は見逃してあげて。なにも知らずに巻き込まれただけなの」
わたしも同じく、知らないままとんでもない大事に巻き込まれたわけだが、それを口にしても取り合ってもらえないことは分かってる。だからこそ、せめてノックスだけは、と思ったのだ。
そんな淡い期待は粉々に砕かれた。
「あたくしは誰ひとり見逃してはいけないのよ、クロエさん。これは趣味じゃなくて任務なの。貴女はお忘れかもしれないけど、騎士は与えられた任務にどこまでも忠実なのよ。……たとえそれが元仲間の命を奪うものであっても、ね」
……駄目だ。なにを言っても取り合ってくれそうにない。
膝を曲げ、ノックスを地面に下ろすとサーベルを手に取った。
彼を守る。一歩だって退いたら、巻き込まれて命を消されてしまうだろう。今のノックスは、魔術や魔具の攻撃を一度でも受けたら終わりだ。すでに過剰なまでの魔力を吸収してしまっているのだから。
挫けるな。これは彼を守るための戦いであり、そしてわたし自身の正しさを――。
いや、違う。
トリクシィとシンクレール。二人に刃を向けることは、わたしの正しさを証明することになんてならない。なにをしようと誤解はとけないし、誰の目から見ても、悪人が抵抗しているようにしか判断してもらえないだろう。
けれど、これしか方法がない。なんとか二人を退けて、ニコルを打倒するための算段を練らなきゃ……。
サーベルを抜き放つ。すると、トリクシィは満足気な微笑を浮かべた。
「ようやくその気になってくれたのね。……でも、あたくし哀しいわ。クロエさん。信じていたのに裏切られるなんて。そして、昔の仲間の命を摘み取らなければならないなんて……。けれどなにより、貴女が悪に堕ちてしまったことが一番哀しいわ」
トリクシィの瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
頭の中で警鐘が鳴っている。このまま二人と戦っていいのか、と。いや、せざるをえないのだが、ほかに出来ることがあるんじゃないか、と頭で別の声が呼びかけているのだ。
そうだ。――戦闘が避けられないとしても、言葉は尽くそう。
わたしの信用は地に落ちたかもしれないけど、説得を諦めたらそれこそただの悪人で終わりだ。
「シンクレール! 聞いて! わたしはあの男に利用されただけなの! なにも知らないまま――」
「ずるいよ、クロエ」
シンクレールはやはり、目を合わせずに言う。
「僕なら説得出来ると思って言ってるんでしょ? 本当にずるい……」
か細い声だったが、その言葉は胸を貫いた。確かに彼の言う通りだったのだ。
シンクレールなら説得出来る。彼なら信じてくれるかもしれない。そう思ったのは事実である。
彼の目には、籠絡しようと情に訴えかける悪党に見えているのだろうか、わたしは。……多分、そうなんだろうな。
でも、説得を諦めるなんてしたくない。出来ることはすべてやると決めたんだ。ヨハンにだって想定出来ないことくらいあるだろう。きっとそれは、人の感情や一時の気まぐれに近い不確かなものに違いない。
そこから状況をひっくり返す以外の方法はないのだ。
「シンクレール。あなたの言う通りよ。わたしは……シンクレールなら信じてくれるかもしれないと思ってる。だって、あなたは人の感情をちゃんと汲み取ってくれる人だもの。わたしがこんなふうに言うのは、あいつに利用されたことが嘘じゃないからよ」
「けれど君は裏切った」
「裏切ったのはあの男で、わたしは騙されていただけなの。もちろん、そんな化物を呼び込んでしまったのは事実よ。その罰は受ける。けど、誤解されたままでいたくないのよ。シンクレール。あなたにだけは真実を伝えたかった。たとえ信用されなくとも、あなたにだけは!」
シンクレールは言葉を返さず、俯いて沈黙していた。頑なにこちらを見ないその態度は、しょげているのか言葉に惑わされないようにしているのか分からない。この言葉が彼の胸に響いてくれれば……。
しかし、主張ばかりをさせてくれる状況ではなかった。トリクシィの目からは、今にも涙がこぼれそうである。
「哀しいわ。哀しくてたまらない。可哀想なシンクレールさん。大丈夫よ。貴方はあたくしが守るから」
言って、彼女はシンクレールの頭を撫でた。
――酔っている。
そうとしか思えなかった。
トリクシィは武器を振るう理由をより強固にし、一切の慈悲をかなぐり捨てて攻撃しても自身の心にヒビが入らないようにしている。
「これ以上のお喋りは終わり。哀しくてたまらないけど、今からあたくしは貴女に刃を向けるわ。嗚呼、深窓令嬢を貴女に振るう日が来るなんて」
彼女は手にした傘の魔具――深窓令嬢をひと撫でした。
そして彼女の瞳から、まるで戦闘の合図のような一滴が溢れ出る。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『メフィスト』→ニコルおよび魔王に協力する存在。ヨハンの本名。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。傘の魔具「深窓令嬢」の使い手。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。氷の魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『261.「真偽判定」』
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地




