266.「夜闇の悪魔」
目覚めて最初に見えたのは星空だった。ちかちかと瞬く小さな星と、それを控えめに覆い隠す枯れ枝。
妙な夢を見ていた気がする。
わたしは空の真ん中に浮かんでいて、そこを太陽と月が早回しで夜と昼を繰り広げる、そんな夢。背に強風を感じ、髪がバサバサと風に揺れていたが、わたしは指一本動かせず宙に横たわっている。なんのエピソードもなければ、登場人物も自分だけ。ほかにも色々な場面転換があったのかもしれないけれど、覚えているのはそれくらいだ。夢なんていつだって断片的なものだろう。
ぼんやりした頭で身を起こすと、寒さに身体が震えた。どうやら枯れ木に覆われた山の中か、あるいは傾斜のある森にいるらしい。まだ夢の中にいるような感覚が抜けない。
風が吹き、自分の身体を抱いて腕をさすった。
寒い。どうしてこんなところにいるんだっけ。なにが起こってここまで来たんだっけ。
思い出そうとすると頭痛がした。
不意に、薄い呼吸が聴こえた。それはわたしの背後で鳴っている。身を起こしてから――というより、目覚める前からずっと鳴っているような、ささやかで薄い呼吸音だった。
死の手前のような、そんな息。
振り向くと、頭を殴られたような衝撃が広がった。
ノックスが倒れている。いつもよりずっと青白い顔をして、目はきつく閉じられていた。
自分自身の吐息が白く浮かんでは消える。それは荒々しく、不揃いな靄だった。目の前が滲み、頭が空っぽになる。それでも身体は動き、ノックスへと駆け寄っていた。
「ノックス……! ノックス……」
肩を掴んで呼びかけても、反応はなかった。先ほど同様、薄い呼吸を繰り返すのみ。
生きてはいる。しかし、風前の灯にしか思えなかった。
記憶が徐々に、蘇る。
――わたしは『最果て』を旅していた。ニコルに転移させられたからだ。そして彼の裏切りを告発するため王都に戻り、真偽師の審査の上で玉座へたどり着いた。
そして――。
ヨハンの奇妙な問答。真偽師への揺さぶり。黒の矢。
魔王の顔が記憶のスクリーンに大写しで展開され、怒涛のように欠けた記憶が蘇ってきた。
ヨハンは王を射て、それからわたしとノックスを掴んだ。記憶はそこで途切れている。ただ、そのときの感覚もはっきりと思い出した。
あれは――ニコルに転移魔術をかけられたときの感覚に似ていた。ほとんど同じと言っていいくらいに。
直感が頭を揺さぶり、その後ろから論理が付け足される。
ヨハンは王を射た。これは事実だ。そしてその方法は魔術ではない。一番近くで見ていたわたしには、彼の腕に魔力が集う様子は確認出来なかった。それに、瞬時に現れた漆黒の弓矢。あれは――。
唇を噛み締める。
あれは、黒の血族の持つ攻撃手段だ。自らの肉体に魔力ではない力を纏わせ、武器とする。
特徴はただひとつのみ。『漆黒』。それだけだ。
ヨハンは王の命を奪い、わたしとノックスをここまで転移させた。そして――当然のごとく大量の魔力を吸収してしまったノックスはこうして死の瀬戸際に横たわっている。
「なんで……」
疑問は夜闇に溶けていった。ここがどこかは分からないが、魔物の気配はまだしない。夜は浅いのだろう。死に瀕した少年と、元騎士とはいえ丸腰の女性。ひと晩生き残ることが出来るかどうか……。
魔物のことを考えても、一向に集中出来なかった。脱力感が全身を覆っている。それは寝起きのせいではない。
ようやくたどり着いた王都。その場所で待っていた結末が、考える力を奪っているのだ。
不意に、下草を踏む靴音がした。
「目が覚めたか……そのまま寝ていればいいものを」
その姿を目にしたとき、怒りが燃え上がった。
枯れ木のような体躯の大男。風に翻るコートは汚れ、手にした鞄も履いた靴も傷だらけ。癖の強い黒の長髪の下、不健康そのものの顔。目の下には濃い隈、こけた頬に無精髭。まるで骸骨――いや、不吉な悪魔だ。
「ヨハン! どうして……!」
言いたいことがあまりにも多く、言葉が詰まる。どうして王を射たのか。ノックスがこうなるのを知っていたのに、どうしてここまで転移させたのか。どうして一緒に旅をして来たのか。
――どうして、何度もわたしを助けたのか。
彼は興醒めしたようにこちらを見下ろし、口を開いた。
「ヨハン? それは偽名だ。いつでも捨て去れる下らない名前だな。冥途の土産に全部話してやろう……俺の名はメフィスト。『黒の血族』だ。半分だけだがな」
聞き覚えのない名前だったが、それがヨハンの本名なのだろう。『黒の血族』としての。半分ということは、ハーフを意味しているのだろうか。
彼の口調が様変わりしている違和感を気にしている余裕はない。愕然と崩れ落ちそうになる身体を、意志の力で保つので精一杯だった。
「……はじめから王を殺すつもりだったの?」
声が震える。拳が自然と握り締められ、涙が頬を伝った。
「ニコルと契約したからな。王を射る、と。契約は絶対だ。お前と交わした口約束ではなく、黒の血の力を使った正規の契約だからな。破れば俺は死ぬし、報酬が回収出来なければ依頼者が死ぬ。おおよそそんなものだ」
『毒食の魔女』は未来視という特殊な力を持っていた。そしてヨハン――いや、メフィストは今口にした『契約で縛り付ける力』と『漆黒の武器を扱う能力』を持っているのだろう。
なにも知らなかった。
なにひとつ。
疑いはいつしか晴れ、気付いたら彼に頼っていた。
あまつさえ、これからも手助けしてくれないかとさえ考えて……。
わたしは、大馬鹿者だ。
「王を殺すだけなら、わたしとノックスを転移させる必要なんてないじゃない……!」
「それだけならな。……俺は魔王とも契約を交わしている。内容はこうだ。『ニコルから受けた仕事が完了したのち、クロエとその仲間を抹殺すること。方法は問わない』。……俺はお前らの死を観測する必要があるからこそ、ニコルの魔力を借りてまで転移させただけだ」
すべて真実なのだろう、きっと。抹殺の依頼も、ニコルから魔力を借り受けたことも。
「なら、今からわたしたちを殺すってわけね……」
今のわたしに武器はなく、ノックスは瀕死。どうあがいても彼に勝つことなど敵わない。せめて武器になりそうなものを探すのが最善なのだろうけれど、そんな気力さえ湧いてこなかった。
しかし、意外にも彼は首を横に振った。
「俺は直接手を下さない。正確に言えば、ニコルとの契約だからな。クロエをこの手で殺さぬように依頼を受けている。まったく、厄介だ。魔王は殺せと言い、ニコルは殺すなと言う。……だが、矛盾はしていない。俺は死の観測をすればいいだけだ」
ニコルがわたしを生かそうとしている事実よりも、この後に待ち受ける物事が気がかりだった。直接殺さないとなれば、やはり、魔物の餌にするというわけか。瀕死のノックスを背負ってひと晩逃げ続ける必要がある。
そもそも、夜明けまでノックスが生きていてくれるだろうか。
涙が溢れてやまない。
挫けそうだ。
なにもかも諦めて、すべてを呪いながら死を受け入れられればどれほど楽だろう。
「魔物から逃げるくらい……」
言いかけると、彼の短い笑いが聴こえた。それはあまりにも小さな存在を眺めて、ついつい漏れてしまう呆れ笑いだった。
「お前が魔物から逃げ切れることくらい想定している。どうも、理解していないようだな。……ニコルの転移魔術はある条件を加えることが出来る。知らないようだから教えてやるが、タイムラグを作り出せるんだ。お前が最初に転移したときも、数日間のタイムラグがあった。だからこそ事前にニコルの依頼を聞き、ダフニーでお前を回収出来たというわけだ。……理解出来たか?」
つまり、転移してから何日か経っていると言いたいのだろう。それがどういった影響をおよぼすのか……分からない。
「もうひとつヒントだ。俺はお前が耳にしたことはすべて把握している。それは今までの道中で明らかだろう? 騎士団での会話もすべて俺の耳に入っている。たとえ音吸い絹の中にいても、お前が耳にしたことはすべてだ。――騎士団長はお前が裏切った場合の処遇についてなんと言っていた?」
確か、容赦しないと言ったはずだ。そしてあの場にはトリクシィがいて、わたしは彼女の恨みを買ったことだろう。
「さて、そろそろ答えが出てもいいだろう。強力な魔術にはそれだけ大きい魔術痕が残ることくらいよく知っているだろう? 俺はわざと、二日もあればたどれる程度の魔術痕を残してお前たちを転移させた。そして今日が二日目の夜。裏切り者の粛清に飢えた獣が現れる頃合いだろうよ」言って、彼は目を細めて遥か先を見つめた。「――噂をすれば、だ。魔物と騎士……せいぜい頑張るんだな」
彼の姿が消えた。二重歩行者にすべてを語らせたということだろう。彼の本体は今でもどこかからこちらを見ているのかもしれない。
逃げるべきは魔物だと思っていたが、そうではなかった。かつての仲間……馴染み深い猛者から逃げねばならない。
ただ――その余裕はなかった。
彼が見つめた方角に目をやったが、誰の影も見えなかった。だからこそノックスを背負って歩き出そうとしたのだが、叶わなかった。
目の前で魔力が弾け、二人の騎士が姿を現したのである。
つくづく転移魔術に呪われていると言わねばならない。騎士団の魔術師でも、数メートルの転移なら人体に施すことも可能だ。ひと桁ナンバーの騎士ともなれば、その距離は長く、そして複数人の転移も不可能ではないだろう。
「ごきげんよう、クロエさん」
トリクシィとシンクレール。二人の騎士が目の前にいた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『転移魔術』→物体を一定距離、移動させる魔術。術者の能力によって距離や精度は変化するものの、おおむね数メートルから数百メートル程度。人間を移動させるのは困難だが、不可能ではない。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『メフィスト』→ニコルおよび魔王に協力する存在。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『音吸い絹』→音を遮断する布状の魔術。密談に適している。詳しくは『216.「音吸い絹」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『騎士団長』→王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『261.「真偽判定」』
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地




