260.「いつかハンカチを返すまで」
朝鳥の鳴き声が聴こえる。
大きく伸びをすると「ぅん」と間の抜けた声が漏れ出た。元騎士だって寝起きはぼんやりなのだ。
結局明け方まで寝返りを繰り返してアレコレと悩んでいたので三時間も眠れなかった。けれど寝不足という感覚はない。それよりも、今日の謁見のことばかりが頭に浮かんでしまう。
真偽師を納得させるのに特別な材料は必要ない。ただ正直に、あるがままの真相を伝えれば汲み取ってくれるのだから。余計なことを口走ったり、狼狽したり、ほんの少しであっても嘘を言わなければ問題ないだろう。
昨日騎士団長が話を通してくれたなら朝一番で返事が来るかもしれない。あまりのんびりして出発を遅らすわけにはいかなかった。
間違いなく宿に戻るだろうけど、念のため身支度を整えておこうと思い立って布袋を開けた。水筒を取り出して中を洗ったり干し肉の具合を調べたりとしていたら、ふと妙な布を見つけた。自分の袋の中に入っていたのだから当然見覚えはあるのだが、自分の持ち物ではなかったのである。
水色の布地。その中心に大樹を描いたデザイン。いつかハルキゲニアで借りたヨハンのハンカチだった。そういえば、返すのをすっかり忘れていた。
今すぐ返しに行こうとドアまで歩き、はたと立ち止まった。そして、しっかり畳んで布袋に戻す。
これを返すのは、契約が終わったときにしよう。本当にお別れのときに、すっきりと返せばいい。もし彼が契約延長に応じてくれるなら、そのときはまだ借りておこう。
借りっぱなしは良くないと知りながらそう決めたのは、やっぱり、彼に期待しているからなのかもしれない。
――いや、誤魔化すのはやめよう。
その力を借りたいし、わたしが間違った方向に歩もうとしているときはちゃんと指摘してほしい。それに関して、彼以上の適役はいないのだから。なんだかんだこれまで旅をしてきて、彼の判断や行動、そして言葉――もちろん、嘘は除いて――は信頼出来ると分かったのだ。
本当に最低の出会いだったけど、今ではヨハンに会えて良かったとさえ思っている。絶対に本人の前では言わないけど。
きっと今日も、彼なりの助けをしてくれるだろう。けど、それに寄りかかっていてはいけない。わたしはわたしに出来る全力を尽くすのだ。それが舌戦であれ戦闘であれ。
コルセットを締めると、気持ちがしゃんとした。サーベルがないのは落ち着かないが、こればかりは仕方ない。謁見が済んだら騎士団長も大目に見て、所持の許可を魔具制御局に取り合ってくれるはずだ。
居間に行くと、すでにヨハンとノックスがいた。ソファを挟んだローテーブルの上でチェスを繰り広げている。
こういう情景を見るのも久しぶりだ。ハルキゲニアを出て以来、気の休まる瞬間などろくになかったから。
「どっちが勝ってるの?」
ノックスの隣に腰を下ろして誰にともなくたずねると、ヨハンが苦笑を返した。
「坊ちゃんの優勢ですね。ただ、勝負の途中ですから……どうなるかは分かりませんよ」
「強がっちゃって……。ノックス、遠慮なく勝っちゃいなさいね」
ノックスがニコニコと頷いたので、ヨハンは困り顔を浮かべていた。
なかなかチェスの決着はつきそうにない。というより、ルールが分からないので観ていてもさっぱりだ。
気まぐれにバルコニーへ出ると、爽やかな朝の空気が肌を撫でた。早起きの商人たちや出稼ぎらしき人々が街路を行き来している。その賑やかな声や靴音がこちらまで聴こえてくる。
あらゆる物とあらゆる人が集まる玄関口、グレキランス。この都市を壊そうとするニコルの考えがまったく理解出来なかった。多くの時間を過ごし、多くの人と関わり合い、多くを学んだこの王都を、どうして壊そうだなんて思えるのだろう。
彼のことだからまったく理由がないわけではないはずだ。けど、いかなる理由があろうとも、王都が積み上げてきた一切を、そこにいる住民とともに葬ってしまおうだなんて絶対に許せない。
なぜか唐突に、『岩蜘蛛の巣』で見た夢が蘇った。廃墟になった王都の夢……。
「なにが正しいのか、自分で判断しろ」
ふと、呟く。夢の中で騎士団長とニコルに言われた言葉だ。所詮夢のことで、深い意味なんてない。それに、捉え方次第でどのようにも考えられる類の言葉だ。
けれど、真理だと思う。すべては自分の判断次第。他人の判断に乗るかどうかも、自分の責任が伴うのだ。
伸びをして居間に戻ると、勝負は盛り上がっているらしく、両者真剣な顔付きで盤上を見つめていた。
不意にヨハンが手を動かし、駒を掴んだ。
「こちらのクイーンで、坊ちゃんのクイーンを取りましょうか。これでチェックメイトです」
ノックスの駒が、ころん、と倒された。どうやら勝負はヨハンの勝ちらしい。さっきまでノックスが優勢だと言っていたのに、最後には逆転する。
なんだかそのやり口がヨハンらしい。
「さて、チェスはおしまい。再戦もなし」
そう呟いて、ヨハンは部屋の入り口を一瞥した。甲冑の音が微かに聴こえる。
騎士団長が来たのかもしれない。
身体を固くして待っていると重厚な足音はドアの前で止まり、ノックの音が鳴り響いた。
「どうぞ、開いてますよ」とヨハンは声を張り上げた。
ドアの先から現れたのは、やはり騎士団長だった。
彼は「失礼する」と言って部屋の中に足を踏み入れた。そのうしろに人影が揺れる。
思わず声が出てしまった。
視線を泳がせ、おずおずと現れたローブ姿は良く知る姿だったから。
「シンクレール……」
彼は不器用に微笑んで「や、やあ」と消え入りそうな声で答えた。
どうやらトリクシィはいないようで、ほっと安堵の息が漏れる。もし彼女がここにいたなら、ノックスにどんな悪影響が出るか分かったもんじゃない。魔術的な意味においても、性格的な意味においても。
「あまり時間もないので、単刀直入に話そう。――ところで、そこの男と子供は今回の話を知っているのか?」
ぼかしてはいるが、直球の言葉である。
「ええ、知ってるわ」
「なら、話は早い。直截な物言いは避けるが、察してくれ。――許可が下りた。今から一緒に来てもらう」
主語の抜け落ちた言葉だったが、意味するところは充分に理解出来た。謁見の許可が下り、王城へ連れて行ってくれるということである。
ヨハンに目で合図を送ると、彼は口を開いた。
「お初にお目にかかります。私はヨハンと申しまして、お嬢さんの用心棒みたいな立場なんでさぁ。……今回は私も、すべて同行させていただきます。なに、妙な真似をしようってんじゃない。あくまでお嬢さんの話を補完するだけですし、もちろん、私も正しいかどうか判定していただいて結構です。ひとりから話を聞くより、二人から聞くほうが確実でしょう?」
相変わらずの捲し立てだ。そして、筋も通っている。真偽師に間違いはないとはいえ、複数人を尋問するほうが良いに決まっている。
団長もそれを理解している様子で、厳かに頷いた。「もちろん同行してもらう。――そこにいる子供もだ」
するとヨハンは、即座に言葉を返した。「いえ、坊ちゃんは必要ないでしょう。二人で充分かと思いますし、坊ちゃんはあまり状況を把握していませんから、言葉の正確性を判断する材料にはなりません」
きっぱりした言葉である。ちょっと、あんまりなくらいに露骨だ。そんな言い方をしたらノックスじゃなくても傷付くだろう。
言いかけたわたしより先に、騎士団長が口を開いた。
「駄目だ。彼女に同行した人間には話を聞かせてもらう。……ところで、もうひとり女用心棒がいると聞いたが……どこだ?」
「……分からないです。元々彼女は王都までの道中を警護する契約でしたから。到着したらもうわたしとは無関係なんです」
強引な言葉だったが、騎士団長は追及しなかった。わたしが決して真実を話さないことを見抜いているのだろうか。
「……承知した。だが、ここにいる者は全員ついてきてもらう。いいな?」
有無を言わせぬ口調だった。ヨハンが薄く口を開いたのが見えたが、結局言葉になることはなかった。なにを言おうと、騎士団長が決して退かないことが理解出来たのだろう。
正直、ノックスを連れて行くのはわたしとしても気が進まない。真偽師の魔術がどういった類なのかは分からないが、もしこちら側に魔術をかけるものなら大問題である。ただ、その可能性は薄いだろう。あくまで真偽を判定するのがあちらである以上、虚偽を見抜く力もあちらが一方的に備えているのが自然だ。相手に施す魔術の場合、かけられる人物次第で効果に差が出てしまう。ゆえに、真偽師本人が自分自身にかける魔術と考えるのが妥当だった。
真偽師は十中八九問題ないとして、あとは謁見である。
『王の盾』と戦闘になれば、危険にさらされるのは間違いない。確か奴は魔具使いだったはず。
鎧と大斧。二つの魔具で戦う守護者。
魔具で攻撃されても、きっとノックスは吸収してしまうだろう。
そんな心配をすべて承知しているかのように、ノックスは「大丈夫」と呟いた。
――そうだ。彼はとっくに全部を覚悟してついて来たのだ。今さら『心配だから置いて行く』なんてのはフェアじゃない。それこそ『毒食の魔女』から引き離した意味がない。
「分かった。それじゃ、行きましょう」
背後からヨハンのため息が聴こえたが、振り返ることなく、荷物をまとめて部屋を出た。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『騎士団長』→王都の騎士を統括する存在。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐
・『スヴェル』→ニコルと共に旅をしたメンバー。近衛兵の指揮官。『王の盾』の異名をとる戦士。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『王城』~」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。見習い騎士に圧力をかけて精神的にボロボロにすることから、「見習い殺し」の異名も持つ。詳しくは『92.「水中の風花」』『250.「見習い殺し」』にて
・『毒食の魔女』→窪地の町イフェイオンの守護をする魔術師。『黒の血族』と人間のハーフ。詳しくは『第八話「毒食の魔女」』参照
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。初出は『6.「魔術師(仮)」』
・『ヨハンのハンカチ』→クロエがヨハンに借りたままになっているハンカチ。詳しくは『156.「涙色」』にて
・『魔具制御局』→魔具を統括する機関。詳しくは『6.「魔術師(仮)」』『196.「魔具制御局」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。王都へ戻るために突破しなければならない場所。初出は『110.「もしもあなたがいなければ」』
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『グレキランス』→クロエの一旦の目的地。通称『王都』




