250.「見習い殺し」
シンクレールが出ていくと、トリクシィと二人きりになった。沈黙が流れていたが空気はきっと最悪だろう。
わたしは無表情を崩さず、トリクシィは余裕たっぷりな微笑を湛えている。
落涙のトリクシィには、別の異名もある。ひそやかに、そして充分な警戒を持って語られる異名が。
『見習い殺しのトリクシィ』。
言い得て妙である。彼女は今のシンクレール同様、圧力たっぷりに自分の手下を作り上げるのだ。彼女の要求に耐え切れず精神的にボロボロになる騎士を何人も見てきた。
これまでは見習い相手にそれを繰り返していたのだが、今度はシンクレールか。最低だ。
「旦那様はどちらにおられますの?」とトリクシィはすましてたずねた。彼女の口から『旦那様』だなんて言われると余計に腹立たしい。真相を口に出来ないだけに、余計に苛々してしまう。
けれど、不審に思われるわけにはいかない。あくまでも平静を貫くんだ。
「ニコルは魔王の城よ。今日はわたしひとりきり。――ああ、変な心配はしないで頂戴。離婚したとか、そういうわけじゃないから」
「では、どういった用件でお戻りになったの?」
トリクシィはニコニコと追及する。疑惑を表情に出せばいいのに、彼女はそれをおくびにも出さない。
「悪いけど、それは言えないのよ。大事な用件だから。秘密のひとつくらい許して頂戴」
すると、トリクシィはわざとらしく頬に手を当てて小首を傾げた。
「あら、秘密だなんて水くさいわ。クロエさんの用件って、その愉快な魔具と関係しているのね」
一瞬身体が震えそうになったが、なんとか抑えた。やはり、サーベルが魔具であることに勘付かれたか。多分、彼女は一瞥ですべて見抜いたのだろう。これが一切コーティングされていない武器であることも。それを指して『愉快な』なんて言ってのける神経が不愉快だ。
「それも言えないの。水くさいことばかり言って申し訳ないけど」
トリクシィは表情を崩さなかったが、快く思っていないのは明らかだ。彼女の沈黙には、いつだって含みがある。それも、悪い意味の含みが。
幸いなことに、ちょうどシンクレールが戻ってきた。整然と並ぶクッキーを崩さぬためか、彼は慎重な手つきで銀器をテーブルに置く。
「面倒をかけてしまったわね、シンクレールさん。でも、あたくしとっても嬉しくってよ。こうして善意を見せてくださるなんて素敵……。そろそろお紅茶が良い具合になっている頃ね。あなたもそう思うでしょう? シンクレールさん」
シンクレールはぽつりと返した。「そうだね。今注ぐよ」
……平静を装っているのが見え見えだ。内心では悔しさを噛み殺しているに違いない。こうして見世物みたいに彼を扱うトリクシィに我慢ならなかった。
シンクレールはぎこちない手つきで三人分のカップとソーサーを並べ、無言で注いでいく。
「ありがとう。シンクレールさんは本当によく気が付く方ですね」
「任務で世話になってるから、これくらいは……」
トリクシィはソーサーを持って、カップに口をつけた。小さく、喉が上下する。「美味しいわ……とっても。お二人も召し上がって。クッキーも遠慮せずに食べて頂戴ね」
彼女に勧められた物なんて絶対に口にしたくなかったが、そうも言ってられない。トリクシィはなにもかも自分の思い通りにしないと気が済まない人間なのだ。善意の皮を被って、わがままを押し付けているだけ。戦闘中の落涙だって、刃を振るうための方便に過ぎないのだろう。
今は大人しく従っておいて、彼女が上機嫌で消えてくれるようにしなければ。
「それじゃ、いただくわね。ありがとう、トリクシィ」
「いいのよ。お気になさらないで」
紅茶は悪くない味だったし、クッキーもしっとりしていて口当たりが良い。けれど美味しいと思えないのは、彼女がいるからだろう。王都にいる間、シンクレールが毎日こんな思いをしていたかと想像すると気分が悪い。
「ところでクロエさん、旦那様との結婚生活はいかが?」
……まずい。無表情を意識しているのに顔が引きつるのが自分でも分かる。
「順調よ。……あなたのほうこそ、騎士生活は相変わらずなのかしら?」
「ええ、いつもと変わらず。良かったのは、シンクレールさんがあたくしのパートナーとして協力してくれていることかしら。彼、凄いのよ。魔物全部を氷の魔術でやっつけちゃうの」
そう言って、トリクシィは口元に手を当てて笑った。
きっと彼女にとっては、シンクレールの魔術など敵の足止めをする道具でしかないのだろう。自分より明らかに劣った相手しか誉めないその性格も相変わらずだ。
シンクレールもさすがに気に障ったのか、ぼそりと返した。「凄くはないよ。……それに、最後はいつも君が焼き払ってくれる」
ぴん、と空気が張り詰める。
トリクシィはしばし沈黙し、それから、一切表情を変えることなく口を開いた。
「あらまあ……あたくし、『焼き払う』なんて品のない言葉は好きじゃないわ」
彼女がへそを曲げたのを察したのか、シンクレールは慌てて「ご、ごめん」と呟いた。
トリクシィに嫌味を言うのはいくらでも出来たが、必死でこらえた。いちいち真面目に取り合っていたら神経が磨り減るだけだし、なにより、団長との面会前に面倒を起こしたくない。
トリクシィはまたひと口紅茶を飲むと、空色の瞳をシンクレールへと向けた。
「ところでシンクレールさん。どうしてクロエさんがここにいるのかご存知?」トリクシィはわたしを一瞥し、微笑みを絶やさずに続ける。「彼女、あたくしには秘密だって言うのよ。シンクレールさんならご存知かと思って」
シンクレールは少しの間目を伏せていたが、やがて決心したように、トリクシィを真っ直ぐ見据えた。「僕も詳しく知らな――」
なにも喋るまいと決意したであろうシンクレールを遮って、トリクシィは言う。「知ってることだけ教えてくださらない?」
その声はいつもと変わらない口調だったが、異様なほど威圧的に響いた。そのせいか、シンクレールは口を薄く開いたまま黙っている。
「ねえ、シンクレールさん。あなたがどうやって騎士団のナンバー4になったか話してご覧なさいよ。誰が、どうして、こうなったかまで話してくださらないと、あたくし嫌よ」
ただでさえ白いシンクレールの顔が、青くなっていく。
なにがあったかは知らないし、興味がないと言えば嘘になる。けれど、彼女の言わせようとしていることがシンクレールにとってデリケートな内容であることは明らかだった。
息を吸い込んだシンクレールを、手で遮る。もう我慢ならない。
「相変わらずね、トリクシィ。そうやって人を脅かして愉しむ性癖はなかなか治らないのかしら? それとも無自覚にやってるの?」
こんなことを言っても自分が不利になるだけだって分かってる。けれど、どうしても黙っていることが出来なかった。
トリクシィは満面の笑みでこちらを見つめていた。それが不穏の前兆であることははっきりしている。
「クロエさん、それはあなたの誤解よ。あたくしはなんにも悪いことなんてしてないし、シンクレールさんにはいつも感謝してるの」
「あなたの言う『感謝』がどれだけ押し付けがましくて我慢ならないか、自分で気付いてないの?」
「酷いこと言うのね、クロエさん……。あなたがそこまで言うのなら、あたくしも態度を改める必要があるわ。とっても哀しくて、とっても辛いことだけど――」トリクシィは立ち上がり、日傘を手に取った。「クロエさん、今のあなたは騎士ではないのよ。なのに、どうして本部に足を踏み入れているのかしら? それを追及する義務を、あたくしは感じるわ。さて……騎士団ナンバー3として答えを要求します。あなたはどうしてここにいるの?」
トリクシィは攻撃の姿勢こそ見せていなかったものの、満足のいく答えが得られなければいつでも実力行使するといったような、そんな雰囲気を醸し出している。自業自得とはいえ、とことん厄介な状況になってしまった。
言葉に窮しているうちに、扉がノックされた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『落涙のトリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。詳しくは『92.「水中の風花」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『コーティング』→魔具の出力を整えるための技術。王都では魔具工房のみで継承されている門外不出の技術とされている。詳しくは『26.「アカツキの見る世界」』にて




