247.「シンクレール」
魔女の邸を去ったのは昼過ぎだった。
太陽は中天にかかり、燦々と日光を注いでいる。草原は青々と波立ち、その香りを風が吹き運んでいく。
のどかに浮かんだ綿雲は平穏を象徴しているように思え、自分の心との隔たりを意識せずにはいられない。
「ここでお別れにゃ~」
ジェニーは窪地の縁まで見送ると、ニコニコと手を振った。どうせなら和音ブドウを回収していけばいいのに、と思ったのだが、魔女によると今日の収穫は取りやめとのことらしい。
どうしてなのかは分からないが、彼女のことだ。未来に関わる理由でもあるのだろう。
「じゃあね、ジェニー」
「ばいにゃ~」
思い残すことはあったけれど、すべてを知るにはきっと時間がかかる。それに、魔女はなにもかも教えてくれるというわけではないだろう。
必要な情報を、必要な分だけ。そんな性格だ。
ジェニーに手を振り、わたしたち四人は歩き出した。
「ようやく自由になれましたよ。いやはや、とんでもない女でしたねぇ」
ヨハンは大きく伸びをして、うんざりしたように言った。彼にとってはストレスの連続だったろう。二重歩行者を人質のように扱われ、魔女に逆らうことが出来なかったのだから。
去り際に魔女は、領域を抜け出たところでヨハンの分身を解放すると約束してくれた。それが果たされたということだろう。
心底彼を嫌っている様子だったが、一度口に出したことを守り抜くあたり、律儀である。
「しかし……『黒の血族』ねぇ」と、アリスはぼんやりと空を仰ぎながら口にした。
「そうね……今のところは敵じゃないみたいだけど、どうなるかは分からないわ。けど、そこまでの悪党じゃなさそうね」
「ムカつく奴だけどねぇ」と言って、アリスは包帯の巻かれた首をさする。魔女に首筋を傷付けられたのは事実だが、先に仕掛けたのはアリスだ。
別れ際の光景を思い出し、なんだかしみじみとした気持ちになった。魔女は玄関口まで見送ってくれたのだが、ノックスが彼女に深々と頭を下げたのが印象に残っている。彼にとって魔女は、自分が戦うための武器を授けてくれた恩人なのかもしれない。
隣を歩くノックスは、黙って草原を見つめていた。その心に魔物への恐怖はあるだろうか。
あってほしいな、と思わずにはいられない。
心から恐怖が消え去った人間がどんな存在になるかは間近で見てきた。ニコルとともに魔王討伐の旅に出た、騎士団ナンバー2のシフォン。彼女の凍てついた表情の下には、ぽっかりと空虚な穴が空いているように感じる。
そして、騎士団ナンバー3のトリクシィ。彼女は恐怖の代わりに、同情や哀しみで自己を表現しているが、それが行動と結びつかない。泣きながら魔物を両断し、動けなくなった敵を焼き払うその姿は、人間離れしたものに見える。
恐れを感じることの出来なくなった瞬間から、感情が瓦解していくのではないだろうか。そして一層無謀な戦闘に身を投じ、生き残った人間だけが化物じみた存在になる。
極端なケースを見過ぎたからかもしれないが、わたしにはそう思えてならなかった。
王都が近くなっているからだろう、色々意識してしまう。王に謁見出来るかどうかも不安だったが、アリスやヨハンが本当にただの『用心棒』という説明で通用するのかも怪しい。ともあれ、言葉を尽くすしかないだろう。真偽師の前でだけ、本当のことを打ち明ければそれで充分だ。そこに至るまでに余計な嫌疑を受けるわけにはいかない。
窪地の縁を大きく迂回して反対側へたどり着くと、街道に沿って西へと進んだ。
このまま道沿いに歩けば王都に着くだろう。ただ、どのくらい時間がかかるかは不透明だった。地図を見る限り夜までには到着しそうだが……どうだろう。
遥か後方からガタゴトと音がして、わたしたちは振り向いた。
「なんでしょうか」とヨハンは首を傾げて見せる。
「たぶん、交易馬車でしょうね。王都には人も物も集まるから」
「グレキランスはハルキゲニアよりも広いのかい?」とアリスが疑問を投げかけた。
「ええ。比べ物にならないくらい。もうじき分かるわ」
そう答えた直後、後方に馬車の影が見えた。それはどんどんとこちらへ進んでくる。
よく見ると車体は十人ほど乗れる大きさで、交易馬車と考えるにはいささか小規模だった。馭者は鎧を着込んでいるらしく、陽光を反射して銀に煌めきが届いた。
「鎧を着た馭者……もしかしたら騎士団の関係者かもしれない」
言うと、ヨハンとアリスの目付きが鋭くなった。騎士団が関門になるかもしれないことはすでに伝えてある。謁見のために真偽師に会うより先に、彼らに捕らえられてあらぬ疑いをかけられるのは絶対に避けたい。
旅人の振りをして街道をそのまま歩くと、馬車はわたしたちを抜き去ってから停止した。
嫌な予感がする。
「なにを聞かれても誤魔化して。わたしたちは元勇者の依頼で、魔王の城から遥々王都までやって来た――いい?」
念を押すと、ヨハンもアリスも、そしてノックスも頷いて見せた。
やがて馬車から、藍色のローブを纏った男が降り立った。背丈はアリスと同じくらいである。
彼はどんどんこちらへと歩んでくる。
小さな丸眼鏡をかけ、金色のゆるい癖っ毛。目付きはおだやかで、どこか気弱な印象を与えるその表情――。
騎士時代の思い出が頭に蘇る。
孤立しがちだったわたしと、同じく孤独だったひとりの青年。わたしたちは互いに研鑽を積み、やがてひと桁ナンバーを獲得するに至った。呪術対策の良き訓練相手であり、たぶん、騎士団で唯一の友達――かもしれない男。
騎士団ナンバー9。シンクレール。
彼はわたしが気付いたことを知ったのか、へらへらと笑いながら手を振った。そして呑気に「クロエー!!」なんて呼びかけて歩いてくる。
アリスは訝しげにこちらを覗き込んだ。「なんだ、知り合いかい?」
「騎士時代の仲間よ」
「へぇ。お嬢ちゃんよりも強いのかい?」
アリスの瞳がぎらつく。強者を放っておけない性格は早くなんとかしてほしいものである。
「さあ、知らない。けど、あたしよりも序列は低かったわ。今はどうか知らないけど」
「ふぅん。なんだ」と明らかに興味を失ったようにこぼすアリスは、どこまでも単純である。ナンバーが強さと一致しているわけではないのに。とはいえ、ある程度は序列通りだが。
シンクレールはわたしたちのそばまで来ると、会釈をしてニッコリと笑って見せた。
「久しぶりね、シンクレール」
「君も相変わらず元気そうでなにより。そちらのかたは?」
「用心棒よ」
するとシンクレールは顎に手を当て、「なるほど」と呟いた。
疑問があってもとりあえず分かったふりをする彼の癖も変わらない。だが、呑気そうに見えて良く気が付く男だ。用心するに越したことはない。
「ニコルに頼まれて王都まで行く途中なの。ほら、魔王が討伐されたからといって魔物は消えていないでしょう? だから、用心棒を雇ってここまで進んできたってわけ」
「ああ、なるほど。けど、馬も馬車もないのかい? 徒歩でここまで?」
当然の疑問だ。迷っている時間はない。返答に詰まると疑いが深まるだけだ。
「途中までは馬を使ったんだけど、魔物に襲われちゃって……。けど、心配しないで。ご覧の通り、ここまで健康に歩んでこれたから」
「そっか。まあ、なんでもいいよ。久しぶりに会えて嬉しいなあ。どうせ王都へ行くなら一緒に乗って行くかい? 四人分の空きはあるからね」
シンクレールは微笑んで、馬車を手で示した。相変わらずの親切さだ。願ってもない。
「ありがとう。それじゃ、甘えさせてもらうわ」
馬車にはシンクレール以外誰も乗っていなかった。馭者と彼のみ。どうしたことだろう。それに、騎士の立場で王都を離れることなんて出来ないはずなのに。
馬車が出発すると、ヨハンたちの紹介もそこそこに問いかけた。
「ねえ、シンクレール。どうしてあなたが王都を離れているの?」
「簡単な調査のためさ」と、シンクレールは平然と答えた。「君は騎士団の人間だから言うんだけど、お仲間さんも口外無用で頼むよ。……魔王が討伐されて以降、周辺地域の魔物の増減を調べているのさ。僕だけじゃなく、ほかにも騎士を動員して。……いくつか村や町で聞き込みをしたり、直接調べたりしたんだけど、減ってるみたいだね。――君も道中でそう感じなかったかい?」
魔物が減っている?
そんなはずはない。なぜなら魔王は今も健在で、王都の転覆を狙っているに違いないのだから。
なのに魔物が減少しているということは……。
ニコルの顔を思い浮かべ、苦々しい思いに囚われた。きっと王都を油断させて、それから一気に叩こうとしているのだろう。
真実を口にしたい思いに駆られたが、なんとか抑え、平静を装って答える。
「確かに、減ってるみたいね。ただ、地域ごとに出現量が変わるからなんとも言えないけど……」
「そうだろう? 世界は確実に平和へと向かっているさ。あとは魔物の残党がいるだけで……」
シンクレールの晴れやかな表情を見ていると胸が痛んだ。彼のように世界を捉えている人間がほとんどなのだろう。無理もない。魔王が討伐されて間もないのだ。これからすべてが良くなっていくという希望を胸に抱くのが自然である。――事実はそれと反対なのだが。
「ところで、ニコルさんになにを頼まれたんだい? 元騎士とはいえ、クロエは彼の奥さんじゃないか。用心棒をつけたとしても王都まで旅立たせるなんて余程のことに思えるけど」
確かに、花嫁という立場ならそうなる。
「……王様以外にはどうしても話せない内容なの。ごめんなさい」
決して返事を間違ってはいないはずだ。現段階で、王や真偽師以外に報告すべき内容ではない。
すると、シンクレールは露骨に眉をひそめた。「僕にも話せないことなの?」
「ごめんなさい」
「親友なのに?」
親友になった覚えはないのだが、彼にとってはそうだったんだろう。ともあれ、謝ることしか出来ない。
「ごめんなさい、本当に話せないの。ただ、王様に話してからは大丈夫だから、きっとあなたに伝えるわ」
そこまで口にしてはじめて、シンクレールの表情が和らいだ。
「シンクレールさん、でしたっけ? あなたとクロエ奥様はどういった関係なんですぅ?」とヨハンが余計な疑問を口にする。
「ただの親友だよ! 変な関係じゃないさ、ねぇ」
頬を赤らめてそう口にするシンクレールを恨めしく思った。そんな反応をすると誤解されるだけじゃないか。
「彼の言う通りよ。なんにもない。ただの友達――ええと、親友よ」
『友達』と言いかけた際に、シンクレールが若干顔をひきつらせたので慌てて言い直した。まったく、細かい奴だ。
「へぇ、そうなんですねぇ。ところでシンクレールさん。あなたは魔術師なんですか? 騎士なのに?」
ヨハンは首を傾げて見せた。
ああ、そうか。ヨハンは、わたしのような魔具使いばかりが騎士団にいると思っているのか。
「騎士団にも魔術師はいますよ。あまり詳しくないようですね」
「ええ、王都とは縁のない生活を送っていたものですから。まぁ、こうして奥様の護衛にしていただけて光栄ですよ。――おや、もう日暮れですね。王都まではあとどのくらいかかりそうですか?」
ヨハンがたずねると、シンクレールは「もうじきでしょうね」とだけ答えた。
それからシンクレールは口元に手を当て、考え込んでいた。なにをそう考えているのかは分からなかったが、少し不安である。
「どうしたの? シンクレール」
「一体どこで用心棒を雇ったのか気になったんだけど、別にいいさ。ニコルさんの頼みなら、あまり詳しく話せないんだろ?」
ヨハンとアリス。そしてノックスをどこで雇ったのかまで細かく決めていなかった。ありがたいことに、シンクレールは追及する気がないようである。ただ、なにも教えないと余計な疑惑を招くだけだ。
「用心棒はニコルが用意してくれたのよ。詳しく教えてあげられなくて悪いけど……」
シンクレールは小さくため息をついて、それから、馬車の幌を見上げた。「そっか……。妬いちゃうなあ」
「え?」
聞き返した直後、馬車が止まった。シンクレールは誤魔化すように言う。「さあ、門に着いたようだね。あとは手続きを済ませば到着さ」
彼は言葉を切り、わたしを見つめてニッコリと笑った。
「ようこそ、王都へ。そして、おかえり、クロエ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『シフォン』→ニコルと共に旅をしたメンバー。元騎士団ナンバー2。詳しくは『43.「無感情の面影」』『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『外壁』~」』にて
・『トリクシィ』→騎士団ナンバー3の女性。涙を流しながら敵を蹂躙する。詳しくは『92.「水中の風花」』にて
・『シンクレール』→王立騎士団のナンバー9。魔術師。騎士団内でクロエが唯一友達かもしれないと感じた青年。他人の気付かない些細な点に目の向くタイプ。それゆえに孤立しがち。詳しくは『169.「生の実感」』にて
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『真偽師』→魔術を用いて虚実を見抜く専門家。王都の自治を担う重要な役職。王への謁見前には必ず真偽師から真偽の判定をもらわねばならない。初出は『6.「魔術師(仮)」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて




