242.「夜の帳が下りる」
夜が深まっていく。
ゲストルームの煌々とした灯りとは違って、外は青白い月光に照らされている。窓を開けると、夜風がゆるやかに流れ込んできた。頭を落ち着かせるには具合のいい冷たさである。
ノックスはベッドの上にちょこんと腰かけ、目を閉じていた。眠っているわけではない。彼の身の内に溢れる魔力は絶えず変化を見せていた。魔力のかたちが整ったかと思うとゆるみ、またしても整ってはゆるみを繰り返している。視界を閉ざして集中力を高め、魔力を掴もうと訓練しているのだろう。
魔物の襲撃からひと晩耐え抜く。ノックスひとりだったら絶対に無理だろうけど、わたしが一緒に戦ってやれる。彼の半径五メートルに近付かないという条件付きだが、難易度は決して高くない。
それだけに不安なのが、魔女の思惑である。彼女がこんな甘い試練を出すものだろうか。
不意にドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」と言って姿を現したのはウィンストンだった。彼は部屋には入らず、落ち着き払った口調で告げる。「間もなく出発しますので、身支度を」
出発? なんのことだろう。
「場所を変えるのかしら?」
たずねると、ウィンストンは頷いた。「おっしゃる通りです。ここは主人の領域ですから、魔物は入って来れません。イフェイオンの町を守護するためには、ここを出る必要がございます」
魔物の入って来ない領域、というのも妙な話だ。特殊な魔術がかけられているのだろうけど、そんなものはやっぱり聞いたことがない。とはいえ、嘘ではないのだろう。
色々聞き出したい気持ちはあったが、ぐっとこらえた。今はそれどころではない。
「分かったわ。ノックス、準備は大丈夫?」
彼はゆっくりと目を開き、こくりと頷いた。
「では、参りましょう」
邸を出ると、そこにはヨハンとアリス、そしてジェニーの姿があった。魔女はまだ邸のなかにいるのだろう。それにしても――。
「どうして二人がいるの?」
戦うのはわたしとノックスだけのはずだ。それなら邸で休んでいたほうがずっといい。アリスは傷を負っているし、ヨハンは二重歩行者を奪われたままのはずだ。
ヨハンはニヤついて飄々と答えた。「お嬢さんと坊ちゃんが戦うのに、邸で寝てるわけにはいかないでしょう? まあ、単なる気まぐれと思ってもらって結構です」
アリスはというと、いかにも不機嫌そうな口調で「あいつが妙な真似をしないように見張るのさ」とこぼす。
「二人とも……ありがとう」
二人がどんな考えでいようとも、そばにいてくれるのは嬉しかった。彼らが近くにいることで、魔女がなにか仕掛けるのを抑止出来るかもしれない。二人分の魔力で余計に魔物を引き寄せてしまう危険はあったが、それを差し引いても充分メリットがある。
「揃ってるねェ。さァ、愉しいピクニックをはじめようじゃないかァ」
夜に溶けるような漆黒のコートが翻る。そして魔女は、真っ直ぐ歩きはじめた。彼女の後ろにつき従うようにジェニーとウィンストンが続き、その後ろからわたしたち四人が歩を進める。
月夜を行く魔女一行。傍から見ると、とんでもなく物騒で怪しげな行列だろう。
魔物の時間はすぐそこで、たった二人で立ち向かわなくてはならない。片や元騎士で、片や魔球を覚えたての子供。
やがて魔女の領域を訪れたときと同様に、空気の変わるような違和感を覚えた。彼女のテリトリーを抜けたということだろう。
「さて」
魔女は立ち止まり、左手をイフェイオンの方角へと向けた。「ブドウ作りしか能のない愚図どもを守ってあげようかねェ」
瞬間、彼女の手のひらから魔力が迸った。それはイフェイオンをぐるりと囲む窪地を覆い、やがて凝固した。
分かってはいたことだが、こうして間近で見ると圧倒されてしまう。
窪地全体に張られた防御魔術はみるみるうちに魔力が隠れていき、ただの透明な蓋と化した。
魔術の展開速度、隠蔽速度、そして安定感と出力。どれを取っても彼女が超一流の魔術師であることを示している。
もしかすると、勇者一行のひとりであり、王都では最強と謳われていた魔術師――ルイーザよりも優れているかもしれない。
魔女は振り返り、アリスへと視線を注いだ。勝ち誇ったような、嘲笑混じりの目付きで。「なに驚いてるんだい、馬鹿娘」
「驚いちゃ悪いのかい?」とアリスはぼんやりと返した。魔術を使えないわたしが見るのと、魔術師であるアリスが見るのとでは内面に与える影響も差があるのだろう。現に、アリスは窪地に施された防御魔術に釘付けだ。
「さァ、無駄話は終わりだ。馬鹿娘もペテン師も、余計なことはするんじゃないよ。食堂で話した条件を忘れたなんて通用しないからねェ。あたしは絶対に嘘をつかないのさ。認めると言ったら認めるし、殺すと言ったら殺す」
夜風が下草を揺らし、青白い波が立った。風を纏って踊る魔女の髪も、翻るコートも、どこか人間離れした妖しさを醸し出している。
「ところで、私たちを標的に襲ってくる魔物とは戦っていいんですか?」とヨハンが問うと、魔女は興が削がれたように舌打ちをした。
「駄目に決まってる。今夜魔物と戦うのはお嬢ちゃんとあの子だけさァ。あんたら邪魔者はひと晩中逃げ回っていればいい」
「それはいくらなんでも横暴では――」
「ああ! うるさいねェ! グダグダグダグダくだらないことばかり……! あんたの言葉を聞いてると耳が腐る。そこまで言うんなら、とっておきの檻を用意してやるよ」
魔女は苛々とした様子でヨハンとアリスのほうへ手のひらを向ける。
瞬間――立方体の防御魔術が展開された。
彼女はカツカツとヒールの音を響かせて空中を歩くと、ヨハンとアリスを閉じ込めた防御魔術の上に腰かけた。
「これなら文句ないだろう? 言っておくけど、こんなサービスはもうないからねェ。それに、防御魔術ひとつ分魔物を引き寄せることも理解しなよ」
横暴なやり方には違いなかったが、彼女の実力を目にした手前、さすがに逆らおうとは思わない。
ジェニーはぴょんと跳び上がると、魔女の隣に腰かけた。ウィンストンは魔女同様、空中闊歩の魔術――天の階段を使って防御魔術の箱の上に立つ。
「さァて、夜のはじまりだよ。しっかり戦ってみせなァ」
魔女の笑いが夜に溶ける。まるでそれが合図のように、周囲にぽつりぽつりと魔物の気配が現れた。それはどんどん数を増していく。
ノックスから離れ、サーベルを抜いた。
「ノックス! 危なくなったらちゃんと言って! 助けに入るから!」
「うん……!」
ノックスの声は、今まで耳にしたことのないくらい決意の籠ったものだった。
彼は覚悟を決めて挑んでいる。だからこそ、全力で守る必要があった。ここで終わらせるつもりなんてないのだから。
「五メートルを割ったら仲良くあの世行きだからねェ。まァ、墓くらいは作ってやるさァ。ねェ、ジェニー」
「んにゃっ!? そ、そうだにゃ。穴掘りするにゃ!」
ジェニーが手をぶんぶんと振って謎のやる気をアピールしている。本当によく分からない女の子だ。
「言われなくても条件は守るわ。絶対に認めさせるから、そのつもりでいなさいよ」
啖呵を切って魔女を睨む。未来がどのように視えていようとも、二人で夜明けを見てやるんだ。たとえ不幸が待っていようとも、決めたことを曲げるつもりはない。後悔や悲劇の予感よりも、ノックスの意志を大切に思いたいのだ。
「せいぜい頑張りなよ、甘ったれのお嬢ちゃん」
迫りくる大量のグールを見据えて、呼吸を整えた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』参照
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『天の階段』→空中に透明な足場を作る魔術。初出は『112.「ツイン・ラビット」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。




