239.「傷と魔術」
魔女の語った言葉通りだと、今後ノックスと一緒に旅をするのは困難である。
王都に預けるにせよ、周囲の理解が絶対条件だ。それだけの相手というとなかなか思い浮かばない。
……騎士団に預けるのは絶対に駄目だ。好奇心からノックスを危険な目に遭わせる奴がいるかもしれないし、ならず者に知られれば大変なことになる。
ノックスに体質のことを知らせないままだと、自分から魔術に近付いてしまう危険だって存在する。
ならどうすればいいかというと……魔女に保護してもらうのが一番だが、現状ではやはり彼女を信用することなんて到底出来ない。守護を担う代わりに町の稼ぎの一割を要求するなんて暴利だし、なにより、自分の召使いさえ『珍しい物』扱いする人間だ。教育という観点では彼女は決して適任とは思えない。
ぐるぐると思考はめぐり、結局のところ、回答らしい回答は導き出せそうになかった。時間が必要である。
そんななか、ヨハンがこちらを見つめていることに気が付いた。例の不気味な眼差しではなく、どこか柔らかい、説得力を持った目付き。
「ノックスは彼女に預けましょう。嘘を言っているようには見えません。彼の今後を考えるなら、それが最善の道ですから……」
確かに、そうなのだろう。けれど今回ばかりは――というより今回も――彼の言う通りに選択する気になれない。即決出来る話ではないし、魔女に関してもう少し知る必要がある。
「ゆっくり考えなよ。あたしは急いでないさァ。そっちは知らないけどね」
含み笑いを漏らす彼女は、どこまでも達観しているように感じられた。
「もし本当に未来が視えるなら、ノックスをあなたに預けなかったらどうなるか教えて頂戴」
そのくらいの情報はもらったっていいだろう。彼女が素直に答えるかどうかは別として。
「そうさねェ……分からないよ」
なんだそれ。さっきは未来が視えるとか言っていたではないか。それとも、からかっているだけなのか。
魔女は補足するように言葉を加えた。
「あたしも万能じゃないのさァ。未来は視えるけど、例外がある。あんたらが『黒の血族』と呼んでる連中に関することは正確に視えないのさァ。残念だけど、あの子がお嬢ちゃんと一緒に行くなら、その未来はあたしにも分からない。ただ……」
魔女は言葉を切って、ヨハンとわたしを順に眺めた。そして見下すような表情を浮かべる。「ただ、ろくでもないことになるのは分かり切っているさァ。未来なんて視えなくても、あの子に関わる人間がどんな奴か観察すれば良く分かる」
それはヨハンを指して言っているのだろうか。それともわたしを……。
いずれにせよ、彼女はその点について詳しく語るつもりはないようである。和音ブドウを摘まんだ爪が、照明を反射して妖しく輝いた。
わたしと一緒に行くということは、『黒の血族』の長たる存在――魔王に関わる流れに否応なく巻き込まれてしまうことになる。それゆえに未来は見通せない、ということか。
やがて靴音が聴こえ、執事――ウィンストンが姿を現した。
「子供を連れてきましたが、いかがいたしますか?」と魔女に問うと、彼女は即座に「呼びなァ」と返した。
ノックスがすぐそばにいるということだろう。ようやく彼に再会出来る。たったひと晩の別離だったが、今さっき魔女から聞かされた情報も含めて、わたしの心は不安でバラバラに砕けそうだった。
ウィンストンは入り口に顔を向け、「君、入りなさい」と呼びかけた。
遠慮がちに姿を見せたのは、ノックスに間違いなかった。ハルキゲニアでヨハンに買ってもらったシャツとジャケットとズボン。そしてマルメロでプレゼントした、今は動かない時計……。
「ノックス……」
様々な言葉が喉の奥でつっかえて、声にならない。単純に再会を喜ぶ気分になれなかったのは、彼の体質の問題ばかりではなかった。
ノックスの手には、裂かれたような傷があったのである。それは明らかに攫われてからついた傷だ。
立ち上がり、彼を抱きしめた。そして、魔女を睨む。
「無傷じゃないと言ったろう?」と彼女は、なぜか愉しむような口調で言ってのけた。
どういう神経をしているんだ、こいつは。幼い少年の傷をなんとも思わないのか。
ともあれ、少し落ち着かなければならない。ソファの端にノックスを座らせて、わたしは真ん中に戻った。
「どういうことなのか説明して頂戴」
すると魔女は大きなため息をつき、首を横に振った。その仕草が腹立たしい。
「あんたは分かっちゃいないよ。なァんにも分かっちゃいない。そいつのために必要なのは夜を凌ぐ防御魔術じゃない。自分で危険を潜り抜ける力さァ。だから――」言葉を止めて、魔女はクスリと笑んだ。自信たっぷりな、不愉快極まりない笑み。「そいつをひと晩、守らなかった」
魔女の座ったソファの横で屹立するウィンストンは、彼女の言葉が正しいことを示すためか、はっきりと頷いた。
魔術を使えず、戦闘能力もなく、経験だってほとんどないノックスを守らなかった?
先ほど魔女の言った体質の問題なら、彼を後方に下げておけば済む話である。それを前線に立たせ、痛ましい傷を負わせたというわけか。
――もう悩む必要はない。
「さっきの話だけど、お断りよ」
「へェ、そうかい。あたしはかまわないけどさァ……。少し冷静に考えるといいよ。そいつを守ってばかりいるだけで、この先やっていけるのかい? 魔術もろくに教えられず、ただただ危険な目に遭わせるだけ……。あたしは言葉を選ぶつもりなんてないから正直に言うけど、お嬢ちゃんは過保護なだけの間抜けだねェ」
ずきん、と胸に痛みが走った。確かに今まで彼を守ることばかり考えていた。でも、魔術さえ会得してくれれば夜だって凌げると、そう思ってた……はず。いくらなんでも丸腰の彼を放置するような荒療治は承知出来ない。
「まったく、頑固だねェ。あたしがなにも出来ない愚図を愚図のままにしておくわけないじゃないかァ。ねェ、お前。お嬢ちゃんに見せておやりよ」
魔女は真っ直ぐノックスを指さしていた。なにを見せるというのだ。
するとノックスは短く頷き、おずおずと遠慮がちに立ち上がった。そして両手を前にかざす。
彼の身体に宿った魔力が流れを作り、その両手へと収斂していく。波があり、流れも粗いが、それは間違いなく魔術の前準備だった。
そして――。
彼の両手でゆっくりと練られる魔球を目にして、息を呑んだ。
今まで魔術なんて少しも使えなかったノックスが、たったひと晩で魔球を練り上げる程度には上達している。その光景は圧倒的な説得力を持って迫ってきた。
やがて拳大の魔球が完成した。ふらふらと不安定で、とても実用には耐えない。けれど、グールを怯ませることくらいは出来るかもしれない。
「――んっ!」
ノックスが声を漏らすと、魔球はふらふらと、ゆるやかなスピードで前進した。攻撃とはいえない代物だが、これだけのことが出来るようになるまで普通ひと月以上かかるものだ。それをたったひと晩で実現させた魔女……。
彼女が左手を持ち上げると、魔球がパシンと音を立てて弾けた。
「グールを転ばせるくらいは出来ただろう?」と魔女が問うと、ノックスはぎこちなく笑って頷いた。
「まだ愚図だけど、伸びしろはある。あたしに預ければガス抜きくらいは自分で出来るようになるだろうねェ」
魔女の笑みは、勝ち誇ったような高圧的なものだった。けれど、今のわたしに彼女の態度をどうこう言うほどの余裕はない。
「預ける……?」
ノックスの疑問がぽつりと、水滴のように部屋に広がった。どうやら彼はそのことについて魔女から話を聞いていなかったようである。
「そう。これからお前はここで魔術の修行をするのさァ。簡単なことじゃないし、死ぬほど辛い目に遭うかもしれないけど、今よりはずっと――」
「嫌だ……!」
彼の短い叫びが響いた瞬間、胸を、トン、と押されたような感覚を得た。ハルキゲニアのときと同じように、彼は自分の意志で言葉を発し、選択している。
そんなノックスを眺めて、魔女は目を細めた。「さぁて、どうするかねェ」
愉しむような、余裕たっぷりの口調。しかし雰囲気は張りつめ、今にも破裂しそうな具合だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。『毒食の魔女』いわく、先天的に魔術を吸収してしまう体質であり、溜め込んだ魔術を抜かなければいずれ命を落とす。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『マルメロ』→商業の盛んな街。タソガレ盗賊団のアジトから近い。詳しくは『47.「マルメロ・ショッピングストリート」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『黒の血族』→魔物の祖と言われる一族。老いることはないとされている。詳しくは『90.「黒の血族」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて




