238.「たとえばワイングラスのように」
『毒食の魔女』をじっと見つめた。その吸い込まれそうな紫色の瞳を、じっと。
魔女はノックスと預かると言ったが、なんのために?
ハルキゲニアの二の舞になることだけは絶対に避けたい。信頼の置ける相手ならともかく、『毒食の魔女』だなんて。悲劇の臭いが濃厚だ。
「なんのために」
そう問いかけると、魔女は平静な口調でとんでもない言葉を口にした。「言ったろう? 珍しい物が好きだってさァ」
ノックスが珍しいから手に入れたい。そんな馬鹿げた理由のために彼の人生を滅茶苦茶にされてたまるか。たとえここに暮らすメイドのジェニーや執事のウィンストンが幸せであろうとも、ノックスもそうなるとは限らない。
なにより彼は――。
ハルキゲニアを去る日、ノックスが口にした『一緒に行きたい』という言葉が蘇る。彼の声は震え、涙も流れていた。魔女の言いなりになるということは、あの日のノックスを裏切ることになる。どこにも行き場がないと感じたあの子が、また捨てられる。そうして積もっていった虚無感は、彼をもっともっと空っぽにしていくだろう。
「悪いけど、あなたを信用出来ないわ。それに、未来が視えるならこうして話す意味なんてないんじゃない?」
なかば無意識にとげとげしい声が出たが、魔女は一向に気にしていない様子だった。
彼女は悠々と和音ブドウを鳴らす。小気味のいい破裂音がどこまでも場違いに響いた。
ブドウを飲み下し、魔女は言う。「話す未来と話さない未来は、変わったりするのさァ。こうしてお嬢ちゃんに伝えたことで、晴れてあの子の未来は決まったよ。あたしが預かることにねェ」
「お断りよ」
すると魔女は左手をひらひらと振って「まァ、最後まで聞きなよ。どちらにするにせよ、聞いて損のない話さァ」と返した。その口調には揺るぎない余裕が窺える。
どうして彼女はその態度を崩さないのだろう。わたしが折れると思ってるんだろうか。だとしたら、とんだ勘違いだ。未来が視えるというのも、きっと大した精度を持っていないのだろう。あるいは、ただの出任せか。ヨハンと比べてどちらがペテン師か分かったものじゃない。
「なにを聞こうと返事は変わらないわ」
「そうだろうねェ。でも、決めるのは聞いてからにしなァ。……お嬢ちゃんが思ってるよりも大事な話なんだよ、これは。なにせ生き死にの問題だからねェ」
生き死にの問題?
反応しないように無表情でいたが、魔女はかまわず続けた。
「お嬢ちゃん。あんたはあの子が普通の人間に見えるかい? つまり、魔術師でもなんでもない、少し魔力含有量が多めの少年だと」
そうじゃないとしたら、なんだと言うのか。「ノックスは普通の子よ。魔術師を目指す普通の――」
魔女は即座に「違う」と遮り、ワイングラスを手に取った。それを嗅ぐでもなく飲むでもなく、ただ持ち上げたままでいる。
「あの子はすでに魔術師なのさァ。この世に産まれ落ちた瞬間から特殊な魔術を使えるんだよ」
思わず耳を疑った。
ノックスが魔術師?
魔球さえ満足に出せない状態で魔術師を名乗ることなんて出来ない。それに、産まれ落ちた瞬間から使える魔術だなんて聞いたこともなかった。到底信じられる内容じゃない。
「疑うといいさァ。けど、全部真実だからねェ。さっきも言ったけど、あたしは嘘が大嫌いなんだよ」そう前置きを入れて、彼女はさらに言葉を紡いだ。「あの子は自分にかけられた魔術を吸い取ることが出来るのさァ。そして、放出しない限りは溜め込み続ける。なにか覚えはないかい?」
魔術を吸い取る……? そんなもの聞いたこともない。
本当にそんなことが出来るとしたら、それは、王立図書館の禁書の棚どころの話ではない。
彼と出会ってからのことを思い出し、不意に、頭にある閃きが走った。それは連綿と、ハルキゲニアまで続いたひと筋の線。
ノックスとはじめて出会った場所――『関所』で彼はアリスの防御魔術を受けた。魔物に見つからず崖下まで降りられたということを鑑みると、アリスの施した魔術は魔物から察知されなくなるような種類のものだろう。目隠しと言ったっけ。
それを彼が吸い取り、ずっと維持していたとなると……。
ハルキゲニアでの悲痛な実験が脳裏に浮かぶ。
ビクターはノックスの身体に魔物の血液を注射したと言った。何度も、何度も。もし血液の側で彼を認識しなかったのなら、ビクターの実験が成功しなかった理由も頷ける。血液とはいえ魔物の肉体に流れていた物だ。目隠しを維持し続けていたのなら、彼の存在を認識出来ず、肉体と混ざり合うこともなく、不純物として自然に排出される可能性はある。極めて珍しい特殊体質なら、ビクターがその答えにたどり着けないのも当然だ。
「覚えがあるようだねェ。隠密系の魔術だとかはモノによって維持出来ないけど、攻撃魔術や防御魔術なんかの露骨なのは大抵溜め込んでおけるよ。まァ、悪くない体質さァ。――上手く使えば、だけどねェ」
上手く使えば、ということと先ほどの生き死にの話がどう繋がるのか。
口を開きかけて、言葉を呑んだ。
魔女が手にしたグラスのワインが、少しずつ嵩を増していっている。魔術で増幅させているのか、それとも単にそう見せかけているのか……。
「溜め込んだ魔術はどうなると思う? まァ、簡単な話さァ。子供でも理解出来るよ」
グラスの縁まで増えると、液体はまるで見えない壁に蓋をされているかのように一滴たりとも零れなかった。ただ、中の液体が動き続けているのを見るに、増幅は続いているようだ。
魔女が手を離しても、ワイングラスは空中にとどまっている。
――刹那、グラスがけたたましい音を立てて砕けた。液体と破片は宙に静止したまま動かない。家庭的な悲劇の一歩手前で時間を止めた具合だ。
ともあれ、魔女の巧みな魔術に感心する余裕はなかった。
彼女はノックスの肉体をグラスに、ワインを内部の魔術に喩えたのだろう。溜め続ければ、いずれ器を壊して放出される……。
「これが、いずれ起こることだよ。知らなかったろう? 知らないまま、あの子に防御魔術をかけ続けたんじゃないかい? 守るためだとか言ってさァ。寿命を縮めるとも知らずにねェ」
直後、グラスが空中でゆっくりと繋ぎ合わされ、元の通りに復活した。魔女は一切手を触れないまま、それをテーブルの上に置く。そして溢れた瞬間、空中で静止したままのワインが半透明の球体に包まれた。
「あの子はねェ、ちゃんと魔術を抜いてやらなきゃならないのさァ。お嬢ちゃんらにそれが出来るかい?」
と、半透明の球体から深紅の雫が零れた。ワイングラスに一滴、また一滴と溜まっていく。
もう説明は充分、とでも言うように、魔女はワインをたぷたぷと注ぎ直した。技巧を凝らした魔術の数々が展開され、残ったのは元のワイングラスと、ノックスの体質に関する情報だけ。
「わたしは……王都で信頼出来る相手にノックスを預ける。あなたじゃなく」
「そうかい。言っておくけどねェ、魔術を抜くのは簡単じゃないのさァ。下手な連中に魔術なんて教わった日には、それを体得する前に破裂しちまうよ」
魔術を教わる過程で、触れた魔術をどんどん吸収してしまう。彼が魔球を出せる頃には取り返しのつかない飽和状態になっていると言いたいのだろうか。
「このことは、あの子には内緒にしておくんだねェ。理由はいくつかある。その体質はお嬢ちゃんが考えている以上に貴重なものでねェ……格好の実験材料にされちまうよ。それともうひとつが、今後のためさァ。あの子の魔術が不安定なうちに自分の体質を意識しちまうと、魔力の流れが乱れる。つまり、抜けるものも抜けなくなって悲惨な結果になるのさァ」
特殊体質と、それを自覚することによる成長の妨げ。そして、好奇の輩に囚われるのを避けるため。確かに、伏せておくべき理由にはなる。
それに、ノックスが自身にかけられた防御魔術によって命を脅かされていると知って、良い気分になるはずがない。責任と罪悪感と、死への恐怖。そんなマイナスの感情が渦巻いて、彼の不幸をより濃くしてしまう。
魔女の言葉は随分と飛躍があったが、ビクターの実験を回避出来たことの理由付けによって、強烈な筋が通っていた。
魔女の言葉がすべて真実なら……。
混乱のなか、思い浮かべるのはノックスの姿である。わたしは彼のために、なにをしてやれるのだろう。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『アリスの防御魔術』→アリスが『関所』で使用した防御魔術。詳しくは『36.「暗がりに夜の群」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて




