237.「後始末」
アリスの呻き声が聴こえて我に返った。まだ死んでいない。
「アリス!!」
「わめくんじゃないよ、お嬢ちゃん。まだ死んじゃいないさァ。もうじきジェニーがタオルを持ってくる。それで止血すれば問題ないよ」
うんざりした口調で話す魔女が、どこまでも異様に思えた。防御魔術が展開されたのは分かったが、明確な形を取って銃弾を弾き、そして解除されるまでの流れが速すぎて追いきれなかったのだ。わざと致命傷を避けて命中させた彼女の意図も分からない。
アリスが口を開き、喘ぐように言った。その目は虚ろで、しかし魔女を真っ直ぐに見据えている。「額を……撃ち抜くんじゃ……なかったかい……?」
「あんたは本当に馬鹿だねェ。手加減されたのが悔しくて、あたしの手落ちにしたいのかい? なんだっていいさァ……。大人しくしてるといいよ」
嘲笑交じりの声。アリスはさぞ悔しいのだろう、歯を食い縛って魔女を睨んでいたが、やがて脱力した。
「オヤブン、箒と塵取りとタオル取って来たにゃ――んにゃ!」
血塗れのアリスを見て、ジェニーは目を丸くした。どうやら彼女は、こんな事態にまで発展するとは思っていなかったらしい。困惑するように魔女とアリスへ視線を送っている。
「お嬢ちゃんにタオルを一枚渡してやりな。あんたの仕事はもう一枚のタオルで床を拭いて、そこの――」言って、魔女は部屋の一角を指さした。そこには本来銅像が置かれていたのだが、弾いた魔弾が食い込んで半壊している。床にその破片が散っていた。「銅像を処分しな。もちろん、後で床を掃いておくんだよ」
ジェニーは「あれはオヤブンが大事にしてた銅像じゃ……」と動転している。
「いいのさ。壁に傷が付くよりマシだからね。まずはお嬢ちゃんにタオルを渡すんだよ。グズグズしてるとソファに血が垂れるじゃないか。ソファまで駄目にしちまうつもりはないからねェ、早くしな」
「は、はいにゃ!」
ジェニーから渡されたタオルを、アリスの傷口に当てる。血を吸ってみるみるうちに赤くなっていった。アリスは苦々しく顔を歪めている。痛みからではなく、こうして介抱される屈辱と、魔女に手加減された悔しさのせいだろう。プライドは誰よりも強いだけに、舌を噛みたいくらいの気持ちになっているに違いない。
「アリス、落ち着いて。今はなにも考えず大人しくしてて」
「まるで狂犬だねェ。まだあたしを睨んでやがる。たっぷり悔しがるといいさァ。全部、自分自身の未熟さのせいなんだからねェ。血が止まったら別室に運んでおくよ」
別室? 思わず魔女を見つめると、彼女は目を細めてこちらを見返した。「足止めして悪いけど、一日で終わる話じゃないのさ」
数時間だって惜しいくらいなのに、一日?
「どういうこと?」
疑問を口にしても、魔女は不敵に笑うばかりだった。
血が止まったと判断したのか、執事がアリスのそばまでツカツカとやって来て、彼女の身体を持ち上げた。「別室に運ぶだけですので、ご安心を。もしご不安であれば付いてきていただいても結構です」
不安ではあったが、アリスをどうこうするつもりならとっくにやっているだろう。至近距離で魔弾を弾くような手合いである。とはいえ、アリスがそう大人しくしているとは……。
案の定抱きかかえられたアリスは暴れたが、執事はびくともせずそのまま部屋を出て行った。
不意に、ぞわりと不安が頭を持ち上げる。
ノックス、ヨハンの二重歩行者、そしてアリス。どんどんバラバラにされている。なにが狙いか知らないけど、状況はひどくなっていく一方だ。
執事のあとを追おうと腰を上げたわたしに、魔女は告げた。
「そんなに不安にならなくていいよ。言ったろう? あたしは誰の敵でもないし、誰の味方でもない。それに、嘘は嫌いなのさ。つくのも、つかれるのも。あの馬鹿娘を殺す気なんてないし、捕まえておく気もない」
魔女の口調は淡々としていて、引っ掛かりがなかった。本当なのか嘘なのか判断出来ない。
「今は信頼しましょう。それが一番です」とヨハンが言った。
やむを得ない。執事のあとを追ったところで、アリスが別室で休むだけなら状況としては大差ないだろう。いずれにせよここは魔女の邸であり、彼女の縄張りなのだ。無闇に抵抗してみたところで、先ほどのアリスのように返り討ちに遭う。
ソファに腰を下ろし、深呼吸をした。
「媚びるんじゃないよ、ペテン師」と魔女は冷たく言い放つ。どうやら彼女はヨハンを心底嫌っているようだ。確かに彼は策略のためにはいくらでも嘘を言う人間である。信用に値しないと判断されても仕方がない。
ヨハンは言葉を返すことなく、ただただ魔女を睨むばかりだった。言葉を返しても取り合ってもらえないどころか、余計機嫌を損ねる状況では黙るほかないだろう。
「さて」と、魔女は気を取り直したようにブドウを摘んでポォンと鳴らした。「子供のことだったねェ。もうじきウィンストンが連れて来るよ。感動の再会になるかは知らないけどねェ」
魔女はクスリと含み笑いを見せた。ウィンストンというのは、あの執事に違いない。彼女の言葉が本当なら、ノックスを返してくれるということだろうか。だったら、どうして攫ったというのだろう。
今はそれを聞くより先に、確かめたいことがある。
「ノックスは無事なの?」
「ああ、生きてるさァ。食事も摂らせたし、湯にも入らせた。あたしは不潔なのが嫌いでねェ」
言って、魔女はヨハンを一瞥する。彼の解れたのコートや、よれたシャツは魔女の嫌悪する対象なのだろう。こればかりは彼自身が悪い。
「ただし」と彼女が付け加える。「無傷じゃないからねェ」
立ち上がり、サーベルの柄に手を触れそうになった。ほとんど無意識に刃を抜こうとしていたことに気が付き、ぐっと拳を握りしめる。
落ち着け。さっきのアリスを見たろ。迂闊な真似をしたら魔女の反撃を食らうだけだ。
複雑な感情を呑み込んで、ただひと言だけ聞いた。「具体的に、どういうこと?」
「言葉通り。無傷じゃないってことさァ。致命的な傷を負ってるわけでもない。説明は面倒だから、直接見るといい」
魔女は脚を組み替え、じっとこちらを見つめていた。こちらの心を見透かし、掬い取り、嘲笑うような、そんな具合……。
不意に、「にゃにゃにゃ!!」と叫びが聴こえて振り向くと、ちょうどジェニーが銅像を取り落としたところだった。あと数センチで床に叩きつけられてけたたましい音が鳴る、といった位置で銅像は静止している。像を覆うように、魔力が視えた。
「気を付けなよ、ジェニー。お仕置きを考えるのも面倒だからねェ」
「ご、ごめんなさいにゃ」
ジェニーはぺこりと頭を下げ、魔女が魔術によって空中で受け止めた銅像を抱えて部屋を去っていく。部屋を出て行ったあと、小さく「おしとやか、おしとやか」と口にする声が聴こえた。
「面白い子だろう? あたしは珍しい物好きでねェ。ここにあるコレクションのなによりもジェニーは貴重だよ。もちろん、ウィンストンもねェ」
魔女は、くくく、と押し殺した笑いを漏らした。召使いを物扱いか。大層な価値観だ。
「さァ、無駄話は終わりだ。本題に入ろうじゃないかァ」
彼女の瞳が、鋭く輝いた。まるで反応を試すような、そんな目付き。
生唾を呑んで次の言葉を待った。彼女の言う本題とは、ノックスを攫った理由の部分に違いないだろうから。
魔女の口がゆっくりと開かれた。深紅の唇が艶めかしく踊る。
「あの子供はあたしが預かる」
背後で時計が、ボォン、と間延びした音を鳴らした。それが二、三度繰り返されると、それきり静寂が部屋を包み込む。
わたしの頭には、どうしてか、ハルキゲニア行きの馬車が思い浮かんだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『ハルキゲニア行きの馬車』→ユートピア号のこと。
・『ユートピア号』→子供を乗せてハルキゲニアへ向かう馬車。詳しくは『54.「晩餐~夢にまで見た料理~」』にて




