233.「ブドウ畑に踊る影」
一瞬の静寂が部屋を満たした。
ヨハンの二重歩行者が捕らわれた?
「……じゃあ、魔女は『帽子屋』並みに魔力を察知出来るってことなの?」
「そうなりますね」
ヨハンが苦しげに目をつむった。部屋に射し込むおだやかな朝陽が、なんともミスマッチである。
「捕らわれたって……解除することも出来ないの?」
「ええ」
魔術の解除を妨げるなにかがあるのだろう。魔術の凝固かなにかだろうか。けれども、そんなことが可能だなんて聞いたことがない。術者の意志を無視して外部から魔術を固定するような真似が出来るとは思えなかった。
アリスはぼそりと「面倒だねぇ」と呟く。その瞳は暗く濁っていたが、口調にはどこか愉しむような響きが混ざっている。のっぴきならない状況だと理解しながらも、戦闘狂の性癖が刺激されたのだろう。彼女は明確に、戦闘を予感しているのかもしれない。昨晩の防御魔術を目にしてなお収まらない闘争心には恐れ入る。けれど、積極的に喧嘩を売るような真似は控えてほしいものだ。
「アリス。お願いだから、軽率に銃口を向けないでよ。話し合いで解決すればそれが一番なんだから」
「話し合いねぇ。こっちは坊やを攫われてるんだ。まず弱みを握ってから話をするような奴はろくでもないさ。……けど、今回はお嬢ちゃんの言う通り大人しくするよ。あたしだって誰彼かまわず突っ込む馬鹿じゃないさ。――ただし、魔女がその気ならこっちもヤるしかないねぇ」
彼女はホルスターから魔銃を抜き、じっくりと銃身を見つめた。危険な相手だということは理解しているのだ、アリスも。けれど、いざというときの覚悟は決めておく。そういうことだろう。
なんにせよ重要なのは、魔女についての情報を得ることだ。
「今、二重歩行者がどうなってるのか教えて頂戴」
ヨハンは手のひらで顔を拭うと、目を閉じたまま答えた。
「暗い場所にいます。手足は動きません。こちらが魔術を解除しようとしても、その信号が伝えられないようです。魔力だけが普段以上に消費されていく状況ですね。いやはや……こんなことははじめてです」
そうだろう。二重歩行者の監禁なんて聞いたことがない。捕まったのがヨハンの作り出した魔術なのだからなおさらだ。警戒心に満ち、いつだって敵の想定を跳び越えてきた男なのに。一度打ち破られている以上、今回はなおのこと慎重に動いたに違いない。それでもこうして無力化されているのだ。いや、魔力を消費させられ続けている状況は単なる無力化を超えた窮状である。
どうやら彼の具合の悪さは、お酒のせいではないらしい。それもそうか。たかが二日酔いでヨハンがこんな状態になるだなんてイメージ出来ない。自分の読みの浅さが恥ずかしくなった。
「魔女について分かることはないかしら?」
ヨハンは小さく首を横に振って、顔をしかめた。
「メイドの影に隠れて魔女の邸に入った瞬間、二重歩行者との連絡が途絶えたんですよ。気付いたら暗がりで、手足が動かない。はぁ……もう二重歩行者は使わないほうが良さそうですなぁ」
うんざりした口調。
確かに、ヨハンの立場からすると気落ちどころではないだろう。『帽子屋』に消滅させられ、魔女に捕らわれた。ご自慢の魔術を二度も破られたのである。こんな状況でなければからかってやるのに、とてもじゃないけど今はそんな気分になれない。
「『毒食の魔女』ねぇ……」
そう呟いて、アリスは銃口を覗き込んだ。銃身が朝陽を受けてギラリと輝く。
重苦しい空気を変えるべく窓を開けると、風に乗って一枚の葉が舞い込んだ。
朝食は昨日と同じ食堂で摂った。卵とベーコンのサンドイッチに、薄味のスープ。そして和音ブドウ。食堂は朝でも賑わっており、そこかしこで気前のいい破裂音が鳴っていた。アリスは昨晩のリベンジとばかりに意気込んでブドウを口に運んだが、ブチィ、という随分と可愛げのない音をさらしただけである。
ヨハンは相変わらずの体調だったが「栄養は大事ですから」とかなんとか言って、もそもそと食べていた。
支払いはわたしが持つと申し出たのだが、二人に断られてしまった。借りを作りたくないのだろう、きっと。
そして今、町外れを歩いている。昼の十二時に西の丘。昨晩召使いの男が指定した場所へと向かっている。まだ三十分ほど余裕はあったが、早く着いたところで問題なかろう。これ以上ヨハンをこの状態のままにしておくのも不安だったし、なによりノックスが心配だった。彼の身になにかあってからでは遅いのだ。ハルキゲニアほど酷い状況ではないだろうけど……。
ブドウ畑にさしかかったところで、「おーい」と呼びかけられた。昨晩食堂で会った男である。
「ブドウ泥棒かと思ったらあんたらか。なんだ、散歩かい?」
「いえ、丘の上で人と待ち合わせをしてるの」
すると男は首を傾げたが、別段追及はしてこなかった。その代わりニコニコと「昨日はご馳走になったなあ。ありがとう」と返す。
「いいの。こっちも面白い話を聞けたからおあいこよ」
面白い話、と言われて気付いたのか、男はポンと手を打って丘の上を指さした。「もうじき召使いが来るから、見物していくかい? なに、ここで働いてる振りをすればいい」
遠慮しようかと思ったが、それより先にアリスが返事をした。「せっかくだから見ておくよ」
こんな場所で面倒が起きるとも思えなかったが、もののついでだ。
「お嬢さん」とヨハンの囁きが聴こえた。振り返ると、彼は丘の上へ視線を移す。つられて丘の上を見ると、小さな影があった。
片手に籠を持った、細身のワンピース姿。そして――足元に漲る魔力。
昨晩の光景が蘇る。ノックスを片腕に担いで空を闊歩したメイド気取り。
「今日はあいつか……」と男はため息をつき、こちらを向く。「なにがあっても驚くなよ」
なんのことだろう。
口を開きかけたが、声は引っ込んでしまった。わたしの目はメイドに釘付けになったのだ。
遥か遠くで、ぐっ、と身を屈めたかと思うと、彼女は空へと跳び上がったのである。魔具の出力だろうけど、尋常ではない跳躍だった。
彼女は真っ直ぐにこちらへと落下してくる。ワンピースの裾とパニエがバタバタとはためく。やがてストン、と膝を折って地面に降り立つと、ささやかな土埃が舞った。
男が釘を刺す気持ちもよく分かる。もし一般人がこんな芸当を見たら、魔術や魔具だと分かっていてもびっくりするに違いない。それくらい鮮やかな跳躍だった。
召使いはパンパンと裾を払う。ぼそぼそと、「おしとやか、おしとやか」と聴こえた。妙に高い声……。
彼女は立ち上がると、男に籠を突き出してニッコリと笑顔を見せた。「オイ住民っ! ブドウを出せっ」
思わずアリスに顔を向けると、彼女は呆れたように薄く口を開いていた。ヨハンはというと、片手で頭を押さえている。
ブドウ畑の男は「あいよ」とうんざりしたように呟いて、和音ブドウを次々ともいでいく。彼の後ろでメイド姿の召使いが、両手に抱えた籠でそれを受け止める。
木を移動する男の後ろを愉しそうについていく姿に、どうも気抜けしてしまう。昨晩ノックスを攫ったのと同一人物なのか疑ってしまうほどのどかな光景だった。
籠がいっぱいになると、メイドは「にゃはは、大漁~」と大口を開けて笑った。牙のような八重歯が覗く。
「それじゃ」と彼女は言い、わたしたちへと向き直った。「行こっか、客人」
「え……待ち人ってのは……」
目を丸くして呆然と呟いたブドウ畑の男に苦笑を返し、わたしたちは丘の上へと歩き出した。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。本名はジャックであり、『タソガレ盗賊団』元リーダー。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』『幕間.「Side Jack~正義の在り処~」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて




