232.「二日酔い疑惑」
ベッドに腰かけて深呼吸をした。それでも胸騒ぎは収まってくれそうにない。
窪地に防御魔術で蓋をされている状態では『毒食の魔女』を見ることさえ叶わず、やむなく帰ってきたのだ。
帰路、アリスは無表情で黙りこくっていた。怒りも愉悦も表現しないなんて珍しいことである。心中おだやかじゃないことは間違いないだろうけど。
相変わらず遠くのほうで、魔物の気配が現れては消えていく。夜間防衛はしているようだが、だからといってノックスがなにもされていないとは限らない。
彼の無事を祈ることしか出来ないのがなんとも歯痒かった。
机上に置いたサーベルを見つめる。月光を浴びて鞘が鈍く輝いていた。明日、なにがなんでもノックスを取り戻す。絶対に――。
ベッドに横たわって目をつむると、関節がじわじわと痺れていくような感覚を得た。……疲労の証拠だ。
思えば、ハルキゲニアを出て以来まともに眠っていない。『鏡の森』では夢のなかで活動していたし、『岩蜘蛛の巣』でヨハンに背負われて眠ったのも長い時間ではないだろう――というか、時間どころの話ではない。ああ、もう、思い出すだけで恥ずかしい。ひとに背負われるなんて、騎士としてどうなんだ。
思えばヨハンには助けられっぱなしで、こっちからはなにも出来てない。強いて言えば『魔の径』で彼を背負って進んだくらいのものである。ハルキゲニアでもビクターに揺さぶられたり、やたら焦ったりしたわたしを励ましてくれた……。
「あ」と、無意識に声が漏れた。
そういえば、ハルキゲニアでヨハンから借りたハンカチがあったはず。今も荷物のなかに入っているけれど、返しそびれたまま忘れていた。
今すぐ返しに行こう、と身を起こし――再びベッドに倒れ込んだ。ぽふん、と身体が柔らかく沈む。
ヨハンは『返すのはいつでもいい』と言ってくれた。なら、彼との契約が終わったときに直接返そう。そのときはたぶん、今みたいに変な意地や恥ずかしさを感じることなく、純粋に感謝の言葉を伝えられるかもしれない。
目をつむると、すとん、と落下するように眠りへ引き込まれていった。
鳥の鳴き声がして、起き上がる。なかなか目が開かない。眠りの誘惑が全身を包み込んでいる。瞼を擦り、頭を何度か振って、ようやく目が覚めた。
ふと窓際を見ると、毛の黄色い鳥と青い鳥が並んでいる。ぴぃぴぃと楽しそうに声を上げる彼らの様子は平和そのものといった印象だ。爽やかな朝の目覚めであることには違いないのだけれど、心は決しておだやかではない。
浴室で顔を洗い、ベッドに腰かけて外を眺めた。もう飛び去ったらしく、カラフルな鳥はいない。
「魔女の邸へご招待、ねえ……」
もし『毒食の魔女』が敵なら、わざわざ口のなかに飛び込んでいくようなものである。
それでも、進むしかないのだ。
今の段階ではっきりしているのは召使いの二人である。靴の魔具を使うメイドと、見事な練度の二重歩行者を見せた魔術師。靴のほうは空中を闊歩した以上、天の階段に類する魔術が籠められているとみて間違いない。加えてその魔具は、アリスの魔弾を弾くほどの強度がある。メイド本人の反射神経もかなりのものだ。正確な判断は出来ないけど、高い身体能力を持っていると考えていいだろう。魔弾を蹴るなんて簡単に出来る真似ではない。
魔術師に関しては力量がはっきりしないものの、二重歩行者を使うくらいだ。隠密魔術にかけては卓越していると考えたほうがいい。
そして――『毒食の魔女』。異様な錯覚魔術と、窪地を丸ごと覆う尋常でない規模の防御魔術。
王都を目前にして、こんな連中に目をつけられるなんて……。
不意にノックの音がした。ドアまで寄って鍵を開けると、不健康な骸骨顔が現れる。普段以上にげっそりして見えるのは昨晩のお酒のせいだろうか。
「おはようございます、お嬢さん」
「え、ええ、おはよう。いつも以上に青白い顔してるけど大丈夫?」
ヨハンは「失礼」と呟いてふらふらと机に寄り、椅子に腰かけた。そして天を仰ぎ、額に手を当てる。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「あ? ええ、大丈夫です。それより、これからのことを少し話すべきかと思いまして」
とても大丈夫そうには見えない。時折ぎゅっと目をつむって顔をしかめる様子には不安しか覚えない。
まあ、わたしもお酒を呑んだ次の日には酷い頭痛に苛まれる。人生で二度しか味わっていないけれど、もう経験したくない。
「今日のことを話すならアリスも呼んで来るわ」
「あ? ええ、お願いします」と、ぼんやり返事をするヨハン。さすがに心配だけど、彼のことだ。『毒食の魔女』に会う頃には回復する……と信じたい。
廊下に出ると、隣の部屋のドアを叩いた。返事はない。そして、物音もしなかった。
気まぐれにノブを捻ると、なんの抵抗もなく回った。鍵もかけずに眠ってる? いくら平和な町でも不用心すぎるのでは?
ドアを押し開けると、寝乱れたベッドが目に入った――。
「バァン」
声がして振り向くと、押し開かれたドアの隙間――ちょうど入ってきた人間からは死角になる位置でアリスが魔銃をかまえていた。それも、下着姿で。
「……なに遊んでるのよ。とんでもない恰好で……」
アリスはケラケラと笑ってドアを閉めた。「なにって、そりゃあ侵入者様に銃口を向けてるのさ。せっかく気分良く寝てたのにねぇ」
ノックされてから即座にベッドを離れ、物音ひとつ立てず死角に潜んだのだろうか。だとしたら彼女も彼女で異常だ。
アリスはあくびをして、ふらふらとベッドまで歩いた。深紅の下着と肌が陽の光を浴びてコントラストを生み出している。
「アリス……あなたいっつもそんな恰好で寝てるの?」
「そうさ。あたしにしてみりゃ、服を着たまま眠る奴の気が知れない」
「風邪引くわよ。それに、鍵をかけないなんて……」
「鍵なんか必要ないのさ。音もなく鍵を開けちまう奴なんて山ほど見てきたよ。気配がしたときにすぐ対処出来なきゃ長生き出来ないさ」
軽口を叩きつつアリスは素早く服を着て、大きく伸びをした。
「……いよいよ魔女様とご対面だねぇ」
「その前に今日の作戦会議でもしましょう。わたしの部屋でヨハンが待ってるから」
言ってから、誤解されかねない言葉だと気付いた。案の定、アリスはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて愉快そうに言う。「へぇ。あんたらはそういう仲だったのかい。へぇ」
「絶対にないわ。馬鹿げてる。変な誤解をしないで頂戴」
「へぇ。誤解かねぇ。ふふふ……」
誤解に決まってる。
「アリス……今すぐ決闘しましょうか?」
「冗談だよ、お嬢ちゃん。まあ、どっちだっていいけどね」
アリスはまたもあくびを漏らし、部屋を出て行った。まったく……。
彼女のあとを追って自室へと戻ると、ベッドに腰かけるアリスと、相変わらず額を押さえて天井を見つめるヨハンがいた。
「ヨハン……あんたその調子じゃ今日は役に立たないねぇ」とアリスは愉快そうに言ったが、目は笑っていない。昨晩の防御魔術は一切の油断を薙ぎ払うようなインパクトがあったのだ。ヨハンに期待してしまう気持ちも分かる。
「いえ、大丈夫です」
無理をしているのは明らかである。とはいえ、今日のことについていくつか話しておかなければならない。部屋に備えつけられた時計は午前九時を指していた。
「さて、今日のことを話しましょう。まずは――」
昨晩のことを、と言おうとしたがヨハンが手のひらをこちらに向けたので言葉を切らざるを得なかった。
「私から報告があります」
絞り出すように彼は言う。一体なんの報告があるというのだろう。じっと彼を見つめて、次の言葉を待った。
やがてヨハンは、何度か深呼吸を繰り返してから続けた。
「昨晩召使いに襲われたときのことをから、端的に話します。……ノックス坊ちゃんが掴まったときのことです。私は二重歩行者でメイドのあとを追いました」
いつの間に、と驚く気持ちと、ヨハンらしい、と納得する気持ちと半々だった。彼なら誰にも気付かれずに魔術を忍ばせることなどわけないだろう。ハルキゲニアでは『帽子屋』に見破られたが、ヨハンの魔術がそう何度も破られるはずがない。
彼は鼻柱を摘んで目をつむり、やがてこちらをどろりと見つめた。
「お恥ずかしい話ですが、正直に申し上げましょう。今、魔女に捕らわれているのは坊ちゃんひとりではありません。私の半身も魔女の邸に監禁されています」
◆改稿
・2018/05/19 誤字修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。本名はジャックであり、『タソガレ盗賊団』元リーダー。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』『幕間.「Side Jack~正義の在り処~」』にて
・『ヨハンのハンカチ』→クロエがヨハンに借りたままになっているハンカチ。詳しくは『156.「涙色」』にて
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『天の階段』→空中に透明な足場を作る魔術。初出は『112.「ツイン・ラビット」』
・『錯覚魔術』→洗脳魔術の一種。記憶や印象の刷り込みをする魔術。術者の魔力への依存度が高く、対象の精神状態も関係するので効果のほどを定義することは困難。詳しくは『207.「聖樹の正体」』にて
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。王都へ戻るために突破しなければならない場所。初出は『110.「もしもあなたがいなければ」』
・『魔の径』→『吶喊湿原』、『毒瑠璃の洞窟』、『大虚穴』からなる、ハルキゲニアと外部と結ぶ秘密の経路。詳しくは『第四話「魔の径」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。




