229.「燕尾服の魔術師」
まだ終わっていない。その言葉の意味が分からなかった。
すでにメイドは空の高みへ消えている。追撃は不可能だ。
と、再び靴音が聴こえた。少し重たくて硬質な響き。音の方向へ目を凝らすと、先ほどメイドが現れた方角から今度は男が歩いてくる。
黒の燕尾服に、同系色のネクタイ。白手袋が月光を受けて煌めいている。後ろに撫でつけた灰色の髪に、口回りを覆う整った髭。引き締まった顔立ちの壮年の男である。
足取りは淀みなく、そして――全身に魔力を湛えていた。
今度は魔術師か。けれど、都合がいい。さっきのメイドの仲間なら、縛り上げてでも彼女の行方を聞き出す必要がある。
屋根から降り、彼の歩みを見守った。
「止まりなよ、オッサン」
アリスの威圧的な声が響く。かまえた魔銃が、月光を浴びてぬらぬらと輝いていた。
彼女も先ほどの無力を悔いているのだろう。声に焦りと苛立ちが混じっていた。
燕尾服の男は両手を顔の辺りまで持ち上げ、無抵抗を示す。ただ、歩みは止めなかった。
「それ以上近寄ると撃つ」
トリガーに指をかけたアリスを、ヨハンがたしなめた。「戦意はないようです。様子を見ましょう」
アリスは舌打ちを返しただけで、引き金から指を離すことはなかった。
わたしはというと、彼女と同じく臨戦態勢を取っている。サーベルをかまえ、奴が妙な動きを見せようものならすぐに斬れるよう集中力を高める。
わたしたちから三メートルほどのところで、男はようやく足を止めた。そして両腕をおろし、後ろ手に組む。
「ご無礼をお許しください。我々は貴方がたに危害を加えるつもりはありません」
はきはきした渋い声である。見た目よりもずっと年嵩なのかもしれない。
「危害を加えるつもりがないのなら、どうしてノックスを攫ったの」
切っ先を彼に向ける。その目は刃を一瞥しただけで、あとは平静そのものである。まるで脅威でもなんでもないと考えているかのように。
「主人が必要と判断したからです」
主人?
なら、あのメイドもこの燕尾服の男も誰かに仕えているということか。それにしても、拉致が必要だなんて無茶苦茶な話だ。
「今すぐノックスを返して頂戴」
「それは出来ません。主人の意志です」
なら、こちらにも考えがある。腕に力を籠めた瞬間、ヨハンが手で制した。
なんで邪魔なんかするのよ。声には出さず、ぐっと歯を食いしばる。思わず睨むと、彼は首を横に振った。「詳しく話を聞きましょう」
ヨハンは男に視線を戻し、言葉を返した。
「あなたがたが命令通りに動いていることは分かりました。危害を加えるつもりがない、という言葉も一旦は信じましょう。……さて、こうしてあなたが現れたのには理由があるのでしょう? それをおっしゃってください」
「主人は、貴方がたを邸に招待したいと考えています」
どういうことだろう。目的が見えてこない。「どういうことかしら?」
すると燕尾服の男は、真っ直ぐわたしの目を見つめて返した。
「言葉通りです。目的に関しては吾輩も存じません。主人に直接おたずねになるとよろしいでしょう」
「目的も分からないままノックスを攫ったの?」
再び切っ先を向ける。燕尾服の男ははっきりと頷いた。
「ええ、そうです。どのように判断していただいても結構です。吾輩は言付かった内容をお伝えするためにここにおります」
「さっさと言いなよ、伝書鳩さん」とアリスは敵意剥き出しで挑発する。そんな言葉にも、男は動じる気配を見せなかった。顔色ひとつ変えず、身じろぎもせず言葉を紡ぐ。
「明日の昼十二時に、西の丘の上までお越しください。吾輩が邸までご案内いたします」
「今すぐ連れて行きなよ、オッサン」
アリスの指先に力が入るのが見えた。限界なのだろう。
「それは出来ません。……撃っていただいても結構ですが、そのときは邸への招待は出来なくなります。それでよろしいですか?」
アリスの舌打ちが鳴る。銃口は男に向けたままだったが、指先に籠めた力が抜けるのが傍目にも分かった。
「それでは明日の十二時に。それと、今晩は宿を取って存分に食事を摂り、身を清めてください。主人は不潔と空腹と睡眠不足を嫌いますから」
「宿を取るって言ったって、どこも開いてないわよ? 馬鹿なこと言わないで頂戴」
こんな静寂の町で、どこに休める場所と温かな食事があると言うのか。
「じきに分かります。それと、あの坊ちゃんには温かい食事と寝床も与えますので、ご心配なく」
その言葉とともに燕尾服の男は消えた。靄のように、魔力がぼんやりと霧散する。周囲を見回しても彼の姿はどこにもなかった。
なるほど……そもそもここに現れた彼自身が魔術の産物だったというわけか。随分と念入りだ。
「二重歩行者ね……」
そう呟いてヨハンを見ると、彼は肩を竦めてため息を吐き出した。自分の得意とする魔術を、こうも鮮やかに他人が使うのは良い気分にはならないだろう。
不意に、遠くで音がした。喧騒が段々と近付いて来る。
月の照らす街路に、ぼんやりと人工的な光が増えていく。
人の声と、物音。
目をつむって頭を振ると、景色は一変していた。
街路には人々が往来し、家屋からは絶えず笑い声や食器の立てる音が響いている。賑やかな町の平凡な夜そのものだ。
「どうやら、二重歩行者よりもずっと大がかりな魔術にかかっていたようですね……」と、ヨハンは苦笑いを浮かべた。
町ひとつを静寂のなかに消した、とは思えない。おそらく、わたしたちに対して妙な魔術を仕掛けたのだろう。それも、井戸から出た瞬間に。
上質な錯覚魔術。きっとそうだ。
「……」
口を開きかけたが、ため息だけが漏れた。またノックスを危険な目に遭わせている……。燕尾服の男はああ言ったものの、心配が心に積もっていった。
「ひとまずはあの男の言う通りにしましょう。まずは宿を――」
そう言って周囲を見たヨハンは、ちょうど背後を向いて苦々しく笑った。彼の視線の先――広場に面した一角に宿屋の看板があったのだ。
どこまでもお膳立てされている……。
個室を三部屋押さえると、まずは外で食事を摂ることにした。町に関する情報を集めるためにも食事処が最適とヨハンが提案し、わたしとアリスが同意したかたちである。
『和音食堂』と書かれた看板の店に入ると、中は広々としていたのだが随分と混み合っていた。お酒も提供しているらしく、赤ら顔の男女があちこちに見える。談笑や囁き、注文を叫ぶ声や上機嫌な唄が飛び交っていた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
ちょうど四人掛けの席に案内されると、ひとりでちびちびと酒を呑む中年男と相席になった。男とヨハンが隣に座り、わたしが男の向かい側、アリスがわたしの隣といった配置である。
男のグラスに注がれた真っ赤な液体には見覚えがある。ハルキゲニアの午餐で口にした記憶が瞬間的に戻ってきた。……お酒なんて、もう一滴たりとも呑むものか。
ともあれ、町の者らしい軽装の男と同席出来るとは幸運だ。話を聞き出すなら絶好のシチュエーションだろう。
ヨハンは店員の娘に、料理についてたずねている。「この料理はなんです?」だとか「この具材はどこ産の?」だとか、はたまた「この店一番のオススメはなんです?」とか……。
彼くらい開き直ることは出来ない。とにもかくにも情報収集である。
「あの……お楽しみのところごめんなさい」
中年男に話しかけると、彼はニコニコと笑った。「なんだい」
良かった。親切そうな人だし、それほど酔っている様子もない。
「ヨハァン! あたしはお酒が呑みたい」
「じゃあ、ワインを一杯」
「あんたは呑まないのかい」
「呑みません」
「呑め」
「嫌です」
「お姉ちゃん、ワイン二杯ね、さっさと持ってきな」
呑気なやり取りをする二人を無視して、男に話しかけた。
「わたしたちは旅をしてるんだけど、ここはなんて言う町なのかしら?」
男はヨハンとアリスのやり取りを眺めて愉快そうな笑みを浮かべながら答えた。「旅人かぁ、いいねえ。ここはイフェイオン。平和な町さ。ゆっくりしていくといい」
イフェイオン、という言葉には聞き覚えがある。確か、王都から大して離れていなかったはずだ。馬車で半日も進めば着く程度だろう。
王都を目前にして厄介事に巻き込まれてしまっているこの状況を思うと、悔しさが胸に込み上げてくる。けれど、出来ることは決まっていた。聞くべきことを聞いて明日に備えよう。
「この近くに魔術師はいるかしら?」
たずねると、男はやや俯いて、ぽつりと答えた。
「ああ……いるよ。『毒食の魔女』がね……」
ヨハンとアリスをちらと見ると、二人はいつの間にか鋭い目付きに変わっていた。
『毒食の魔女』。
聞いたことはなかったが、この件に関わっているかもしれない。
靴の魔具使いと、壮年の魔術師を従える魔女……。テーブルの下で、ぎゅっと拳を握った。
◆改稿
・2018/05/19 誤字修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
登場済みの魔術に関しては『幕間.「魔術の記憶~王立図書館~」』にて項目ごとに詳述しております。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『錯覚魔術』→洗脳魔術の一種。記憶や印象の刷り込みをする魔術。術者の魔力への依存度が高く、対象の精神状態も関係するので効果のほどを定義することは困難。詳しくは『207.「聖樹の正体」』にて




