221.「狩りの時間」
風の音が耳元で鳴っている。身体中のあらゆるものが上へ上へと引っ張られているような妙な感覚。目はまともに開けていられず、薄く開くので精一杯だった。
ヨハンの指示通り、二人仲良く落下している。彼のコートの袖を掴み、なんとか同じ箇所に落ちることを祈った。
羽根布団という魔術がある。周囲を弾性の高い魔力で覆う魔術。基本的には防御魔術として使われるものではあったが、ヨハンに言わせれば着地の衝撃を弱める目的でも利用出来るらしい。確かに、基本的には無傷でいられるかもしれないが、それはせいぜい数十メートル落ちる場合だろう。こうして底の見えない穴で使って、果たして無事で済むのだろうか。
けれども、駄目で元々だ。地道に壁を伝って降りたらどれほど時間がかかるか分からないし、そもそも滑落の危険が非常に高い。それならば、と彼のアイデアに乗ったのだ。
どのくらいの時間、落下を続けているのか分からない。一分も経っていないとは思うのだが、体感的に随分と長く思えた。
不意に、ヨハンの腕が下へと伸びた。瞬間、落下速度が急激に落ちていく。全身を包む柔らかな感触。まるでゼリーのなかに入ったような気分だった。
やがて落下が止まると、ぱちん、と音がして地面に着地した。
「なんとか上手くいきましたね」
何度か深呼吸を繰り返し、ヨハンは呟いた。実際、彼がタイミングを誤れば大変なことになっていただろう。仕方がないとはいえ心臓に悪い
「そうね……」
ランプが再び灯されると、周囲の様子がぼんやりと見えた。今わたしたちが落ちた大穴よりも大きいサイズの空洞が広がっている。天井に空いた大穴が小さく見えるほどだ。
地面には大小様々な骨が落ちている。そのなかに頭蓋骨まであるのだから気分が悪い。
特徴的なのは、わたしの背丈くらいある石筍があちらこちらに出来ていることだ。どこもかしこも石筍だらけで、まともに歩くのは難しいだろう。
「ひどい場所ね」
「ええ、本当にそうですねぇ。しかし、アラクネはどこへ消えたのでしょうか」
光の届く範囲に、その姿はなかった。ただ、気配は消えていない。
サーベルを抜き、集中力を高める。気配の方向を探り、距離を勘案し――。
「分かった。あっちよ」
空洞の先――ゆるやかな坂になった場所。その先にアラクネの気配がする。
「承知しました。警戒を怠らないで進みましょう」
「当然よ。けど……上で使った光を拡散させる魔術は使わないの?」
ヨハンはばつの悪そうな表情を浮かべた。
「いやぁ……私の魔力にも限界がありますからね。これ以上の使うのは、正直なところ辛いものがあります」
嘘なのか本当なのか分からない。しかし、ヨハンがここまででかなりの力を使ったのは確かだ。光源の拡散、火の粉の雨、そして羽根布団……。彼の限界なんて分からないけど、それなりに疲弊していてもおかしくはない。魔術師によって使用出来る魔術の限界はかなりの振り幅があるのだから。
「分かったわ。それなら慎重に進みましょう」
足場を選びつつ歩く。ここがどれほど深い場所なのかは分からないが、この洞窟の最深部だとしてもおかしくないだろう。どこかの水脈と繋がっているのか、空洞全体が湿っており、水滴の落ちるピタピタという音が絶えず聴こえた。
陰気な空洞だ。空気は重たく、足場も悪い。吸い込む空気にはどこか饐えた臭いが混じっている。
無言で歩いていると、どうにも気分が落ちていく。かといってアラクネがそばにいる以上、迂闊に会話なんて出来ない。いつ敵の糸が飛んでくるか分からないのだ。サーベルを握る手にも、自然と力が入る。
なにより厄介なのは奴の呪力である。文献では、どんな呪術を使っていたっけ……。
どうにも思い出せない。そもそも、ほとんど王都に出現しない魔物である。有効な対処方法についても報告はなかったはずだ。
グレガーの夢の中にもう一度入ることが出来ればいくらでも調べられるのに、と苦々しい気持ちになった。
なんにせよ、呪力球以上の攻撃は覚悟しておくべきだろう。そしてヨハンは事前に宣言した通り、きっと戦わないに違いない。なにかあればサポートしてくれるとは思うが、先ほどの魔力限界の話が本当だとするとそれも難しいだろう。
これは全部、アリスとノックスに再会するための戦いなのよ、と自分を奮い立たせる。アラクネの討伐は小人との契約だ。そして完遂したとなれば、きっとヨハンは報酬を要求するだろう。どんな手段を使ってでも、決して反故にはさせないはず……。そういう男なのだ、わたしの知る限り。
やがてゆるやかな坂に差しかかった。気配は近い。坂を上り終え、少し進んだところに奴はいる。ヨハンはランプを高く掲げて視界を確保していたが、罠のようなものは見当たらない。石筍の間に糸が張りめぐらされているわけでもないようだ。
心臓がどくどくと鼓動を早めていた。集中力を高めつつ落ち着くのは難しい。特に、いつ攻撃が飛んでくるかも分からないような状況ならなおさらだ。
坂を登り切ると、石筍だらけの場所に出た。先ほどの大空洞よりも天井は低く、石柱まである。
――近い。
強烈な気配が、叩きつけるように漂っている。
石筍や石柱で死角になった箇所に潜んでいるのだろうか。それとも、光の届かない暗がりに――。
不意に、前方から呪力の塊が現れた。それは一直線に天井まで進み、ぶつかる寸前で静止した。
紫色の呪力球……。攻撃のためのものなら、どうして天井付近に……。
その疑問には、すぐに答えが返ってきた。ヨハンが灯していたはずのランプが、急激に光を失ったのだ。もはや数センチしか照らせないほどに。
彼の舌打ちが聴こえる。もはやお互いの顔さえ見れないほどの暗闇だった。つまり、アラクネにとって動きやすい空間になったわけである。
光を吸収する呪術を使ったのであろう。魔術にもそれと類似するものはあったが、使いどころがかなり限定される。だからこそ、それに対する対処法や有効策も知らなかった。
闇に目が慣れるまではまだ時間がかかる。その間に攻撃されれば対応出来ないかもしれない。
「お嬢さん」
耳元でヨハンの声が聴こえ、思わずびくりと身体が震える。それは現実の声ではなく――彼の交信魔術だった。
「ラーミアと戦ったときと同じです。お嬢さんは水中でどのように動きましたか?」
彼の言いたいことは分かる。集中力を極限まで高めれば魔物の気配は手に取るように分かるのだ。けれど、敵の位置が分かったとしても石筍や石柱を利用されては敵わない。無機物の位置まで正確に把握する能力なんてないのだから。
「なにかあれば耳打ちします。ご健闘を」
それきり、ヨハンの声は聴こえなくなった。彼は完全にランプを消したのか、姿も見えない。なにかあればと言ったけれど、暗闇でなにも見えないのはヨハンも同じことじゃないの?
彼の考えていることは――いつもそうだけど――いまいち分からない。けれど、ここまでの積み重ねがある。
信頼……。うん、多分そうだ。
サーベルを握り直し、集中力を高めた。アラクネの気配に焦点を合わせ、位置情報の正確性を高めていく。
奴は――。
動いている。それも、天井を這って。すぐ真上まで来ているではないか。
奴は顔と複眼の両方をこちらに向け、じっと見下ろしていた。
だからこそ、あえて見当違いな方向をきょろきょろと見つめてみせる。あたかも、奴の位置に気が付いていないかのように。
蜘蛛の口がもごもごと動き、やがてぴたりと止まった。次に来る攻撃は――。
思い切り右へと跳んだ。タイミングは間違えていないはず。
べしゃり、と嫌な音がして元々わたしが立っていた箇所に糸が命中するのが分かった。意識さえ研ぎ澄ませば、なんとか戦える。
さあ、ここからだ。
アラクネの気配へ向けて、サーベルを向ける。「さあ、お姉さん。楽しんで頂戴。――狩りの時間よ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『羽根布団』→対象を包み込み、衝撃を緩和させる魔術。詳しくは『Side Alice.「自由の旅のアリス」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪力球』→呪力の塊を放つ攻撃手段。魔物が使用する。
・『ヨハンの交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『グレガー』→かつて騎士団のナンバー2だった男。『鏡の森』でバンシーを従え、不死魔術を維持していた。洗脳などの非戦闘向けの魔術に精通している。詳しくは『205.「目覚めと不死」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場




