220.「火の雨のあとに、悪魔が降り立つ」
光の粒がいくつも降り注ぎ、周囲がぱっと明るくなる。
巣へと着弾したそれらは、じりじりと糸を焦がして消えていく。――火の粉の雨が降っているのだ。
「――!」
アラクネは身に降りかかる火の粉を振り払いながら、声にならない悲鳴を上げた。
そうだ、奴は暗闇を好む魔物……したがって光自体に弱く、火となれば弱点と言って差しつかえないだろう。
どうして火の粉が降ってきたかは明白である。ヨハンの援護だ。
火の粉は巣を燃やすほどの力はないものの、アラクネにとってはたまらないようである。
無差別に降る火の雨は、当然のごとくわたしの背にも降り注いだ。焦げた糸は粘度を失い、簡単に振り払うことが出来た。右腕の糸も同じ要領で焦がし、ようやく自由を取り戻す。
アラクネの姿を視界に捉えつつ、頭を片手で覆った。救われたのは確かだが、髪が焦げるのだけは勘弁してほしい。
右腕でサーベルを抜き放つ。
まじまじと見ると、アラクネは極端な姿をしていた。上半身は艶やかな黒の長髪を持った女性。下半身はごつごつとした漆黒の大蜘蛛。その複眼はおそらく、わたしを捉えているはずだ。
アラクネは叫びをあげて巣をこじ開け、壁伝いに真下の暗闇へと逃げていった。てっきり滅茶苦茶に攻撃してくると思ったのだが……。
一旦脅威は去ったものの、火の粉は依然として降り続けている。このままでは巣ごと崩壊して奈落に真っ逆さま……。
思わず壁際に寄り、ちょうど突起になった岩を掴んだ。火の粉は巣に激突し、音と臭いを残して消えていく。もしこれが底まで消えずに降り注ぐなら、今頃アラクネは大慌てだろう。
やがて、火の雨はまばらになり、そして消えた。
周囲が再び暗闇に包まれる。と、ほとんど間を置かず、べたり、と音がしてまとまった灯りに周囲が照らされた。
ランプを手にした悪魔が、巣を足場に立っている。その顔は骨ばって、ゆるやかな癖のある長髪は灯りを照り返していた。
「お嬢さん、無事でしたか」
「ええ、おかげさまで。……助かったわ。ありがとう」
ヨハンはニヤリとこちらに笑みを見せると、わざとらしく自分の腰をさすった。
「ああ、衝撃で腰が……。私はもう戦えそうにありません」
「はいはい……」
明らかに演技だったが、もとよりヨハンの性質は理解している。彼はサポート向きの魔術ばかりを使うし、前線で大型魔物と戦った場面など見たことがない。
「アラクネは逃げましたか」
巣に空いた大穴を見つめて、ヨハンが言う。退治出来ると思って火の粉を降らせてはいなかったのだろう。
「ええ。下まで逃げていったわ」
こうして灯りに照らされると、急に足場が不安に思えた。穴全体に張られた巨大な蜘蛛の巣――その真下は光の届かない闇である。
周囲を見渡すと、ロープらしき物はどこにも見当たらなかった。小人め……。
「やっぱり、ロープは底まで伸びてなかったのね」
「困った連中です。元々アラクネの餌にするつもりだったんでしょう」
やけに察しがいい。まるでわたしがアラクネから聞いた内容が、すべて彼の耳に入っているようだ。それに、小人が『女王蜘蛛』と呼んだ魔物がアラクネであることまで把握している。
そういえば彼は、以前わたしの身辺を盗聴するような魔術をかけているとかなんとか白状していたような……。
「ねえ……あなたはまた変態的な監視魔術を使ってわたしのことをコソコソ見ているの?」
ヨハンは露骨に目を逸らし、肩を竦めて見せた。こいつ……。
「必要なときだけにして頂戴。本当に気持ち悪いから」
「心外ですな。私はお嬢さんのピンチを救うときだけしか使いません」
これはあとでじっくり話しておかなければ。四六時中ヨハンを気にしなきゃならないなんて絶対に嫌だ。
「あとでじっくり話を聞かせてもらうわ……。今はどうやってアラクネを追うか考えましょう」
小人がわたしたちを罠にかけたことは事実だが、大型魔物を放っておくわけにはいかない。今後同じ手口で餌にされる人間が出ないためにも。
けれども、ヨハンは別の考え方をしているようだった。
「そうですね、まずはアラクネです。彼らとの契約はまだ有効ですから」
契約もなにもないではないか。魔物の餌として扱うなんて卑劣にもほどがある。
「どうして契約が有効なのよ。小人はわたしたちを騙したのよ」
ヨハンは首を横に振り、人さし指を立てた。
「彼らはなにひとつ嘘を言っていません。もちろんアンフェアだとは思いますし、人道を無視した行為には違いないでしょう。……肝心なのは、彼らが命じた内容です。『女王蜘蛛』の討伐。現に穴にはアラクネが潜んでいたわけですから、偽りはありません。たとえ連中がアラクネと妙な契約を結んでいたとしても、それは別物として考えるべきです」
「そう言われればそうだけど……結局餌扱いなのは気に入らないわ」
まったくもって納得出来ない。
ヨハンは「彼らとしては、どちらが得でしょうね」と、意味深な口調で言う。
「どういうこと?」
ランプの灯りが揺れる。同様に、壁に映るわたしたちの影も揺らいだ。
「つまり、こうです。私たちがアラクネの餌になれば、それはそれで小人の得にはなる。確か、人間ひとりで一ヶ月は我慢してくれるんでしょう? だとすると二ヶ月間は小人の犠牲は出ません。一方で、私たちがアラクネを討伐したとしましょう。小人たちはこれからずっと、身内から犠牲を選ぶこともなくなる……。まあ、したたかな連中だとは思いますが、私たちが勝利するほうが彼らの利益が大きいというわけです」
「……だったらアラクネのことくらい教えてくれても良かったんじゃないのかしら。それを隠すなんて、こっちが不利になるだけよ」
「お嬢さんの言う通りです。本気で討伐を望んでいるならそうすべきでしょうな。思うに、あまり期待されていないんでしょうよ。それこそ餌にする算段のほうが大きかったわけです」
ため息が出る。どれだけ嫌われているんだ、わたしたち人間は。
「なんにせよ、降りなきゃ始まらないわ。それに……」
上手く降りれたとしても、どうやって登るのだろう。上まで続く抜け穴があるならまだしも……。
……抜け穴?
そういえば、小人たちはこの洞窟でどうやって文化的な生活を営んでいるのだろうか。特に彼らが身につけた布類は、どこで調達しているのか……。
「帰り道に関しては心配していません」とヨハンは呟く。
「ええ、わたしも今気付いたわ。捕食された人間が身に着けていた物は、小人たちが底で回収しているはずよね。なら、どこかに抜け道はあるはず」
小人が通り抜けられる小穴なら、わたしたちでも中腰になれば通れるだろう。最悪、匍匐前進でもいい。
装飾品の回収についても、アラクネと契約を結んでいるに違いない。老小人はそれだけしたたかな存在に思えた。単に犠牲を出すだけの仕組みで折り合うわけがない。
「それで、どうやって降りればいいのかしら。壁の凹凸でも使う?」
一応、壁のあちこちに突起はあったので、降りるのは不可能ではない。
「なにを冗談言っているんですか……」とヨハンは呆れ顔を向けた。
「え? 降りれそうじゃない?」
「騎士様は出来ても、私は無理です。一緒にしないでください」
ヨハンの手足の長さならわたしよりも降りやすそうに見えるけど、と思ったが口にするのはやめておいた。彼の体力でやれるとも思えないし、実を言うとそんな苦行は避けたい。
「ほかに手段があるなら従うけど……。考えはあるの?」
ヨハンは盛大なため息をついて、短く首を横に振った。
「あります。……ですが、リスキーですよ」
壁を這い降りるよりまともな方法ならなんでもいい。それに、リスクなんて承知の上だ。今までどれだけ危ない橋を渡ってきたと思っているのか。
「いいわ。聞かせて頂戴」
地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。




