216.「音吸い絹」
ヨハンの歩みに合わせて小穴を進む。鼻を刺激する不快な臭いも穴の狭さも、気にしている余裕なんてなかった。ノックスとアリス……二人との再会を目指して歩くしかないのだ。
「あぁ……腰が辛いですねぇ」
ぼそぼそとヨハンは言う。中腰での歩行は負担が大きいものの、こっちはまだまだ平気だ。きっとヨハンは高身長が災いしているのだろう。あるいは単に体力がないのか……。
「それにしても……あなたは本当に隠密系の魔術が得意よね」
「そりゃどうも」
ヨハンの身体から溢れた魔力が薄い膜となって、わたしまで一緒に覆っていた。
音吸い絹という魔術がある。魔力のヴェールで対象を覆い、外側に音が漏れないようにする魔術だ。当然のごとく隠密の用途で使われるのがほとんどで、魔物との戦闘にまで活かす魔術師はそうそういない。
音吸い絹の維持には繊細な技術が要求されると聞いているのだが、ヨハンのそれは綻びなく保たれていた。腰が痛いなんて言いながら、随分と器用な男だ……。
「誰から魔術を教わったのか、とっても気になるんだけど」
「見よう見真似……単なる素人芸です」
あっけらかんと答えるヨハンの背骨をつついてやりたい。これまで彼が見せてきた魔術はどれも見事な練度だった。お得意の二重歩行者は言わずもがな、交信魔術や疑似餌、麻痺波に音吸い絹。そして極めつけは遅延魔術だ。見たことも聞いたこともない魔術をも見事に操るなんて……師にあたる人物がいないなんて考えづらい。
「いい加減教えてくれてもいいと思うんだけど。ほんとに頑固なんだから」
「お嬢さんに頑固と言われる日が来るとは思いませんでしたね……。ま、秘密主義者ってことでご勘弁を」
いつだってこの調子だ。まったく……。
こうして話しているといくらか気は紛れたものの、やはり不安だった。本当にノックスたちと落ち合えるのだろうか。そもそも小人の足音は途絶えている。この穴の先にいるとは限らないし、いたとしても素直に姿を現してくれるとも思えない。
小人に関する文献が少ないのは、なにも人間側がほかの種族を忌避しているばかりではないだろう。彼らの側でも人とのコンタクトを避けているに違いない。でなければもっと書物に記されているはずだ。
「お嬢さん」
呼びかけられて思考が切れる。「なに?」
「小穴もあと少しで終わりです。どうやら空洞に繋がっているようですが、油断しないでくださいね」
言われるまでもない。
「もちろんよ」
ようやくこの鬱屈した穴が終わると考えるだけで、少しは気分が上向く。状況は厳しいものの、小穴の先が行き止まりでなかっただけ不幸中の幸いである。
ヨハンの歩みがゆるやかになったので、こちらもそれに合わせた。前方を警戒しつつ進んでいるのだろう。彼の手にしたランプの灯りが、ぼんやりと小穴を照らしている。いくら小人に警戒されないように気を付けていても、ランプまで消すわけにはいかない。進み方も分からない洞窟の中で光まで制限するのはあまりに危険だ。
とはいえ、この灯りは小人にとってあまりに分かりやすい目印である。『岩蜘蛛の巣』の小人が牧歌的で人懐っこい種であることを祈った。
「段差になっていますから、気を付けてください」
言って、ヨハンの姿がすとんと落ちていった。慎重に穴の縁まで進むと、一メートルほど下に彼の姿が見える。縁に腰かけるようにしてぶらりと足を出すと、腰に違和感を覚えた。どのくらいの時間小穴を進んだかはっきりとしないが、足腰がぎこちなく固まる程度の負担はかかっていたようである。全然平気だと思っていた手前、ちょっぴり情けない。
両手で弾みをつけて飛び降りて、辺りを見回した。ヨハンはランプを高く掲げてはいたが、照らせる範囲はそれほど広くはない。現に十メートルも先は厚く塗られたような漆黒に覆われていた。
「やはり空洞でしょうか」
「そうみたいね……」
風が吹き抜ける音がする。響き方からすると『毒瑠璃の洞窟』よりは小規模の空洞に思えた。しかしながら実態が見えない以上、なんとも判断しがたい。
不意に、左方向から小さな足音がした。ぺたり、と地を踏む微かな音。
思わずヨハンと顔を見合わせた。先ほどまで見失っていた小人が、ようやくたどれるかもしれない。彼らと意志疎通し、アリスとノックスに再会する。そして『岩蜘蛛の巣』自体も脱出するのが理想である。
ヨハンの指先が宙を撫でるようにひらひらと動く。その指から溢れた魔力が、薄い布状に広がって彼を包み込んだ。音吸い絹――と思うや否や、魔術製の布がするりとわたしを包む。
本当に、憎たらしいほど綺麗に魔術を使う奴……。
「これで音は気にせず追いかけられるわね」
「ええ。急ぐ気持ちは分かりますが、くれぐれも魔術から出ないようにしてください。音が漏れたら追跡の意味がありませんから」
「分かってる。……けど、ランプの灯りだけでこっちの存在は知られてるんじゃないのかしら……」
この暗闇だ。たとえささやかなものであっても充分目立つだろう。闇の先からいくつもの目がわたしたちを覗いていたとしても決しておかしくはないのだから……。考えて、少し寒気がした。
「知られているとしても、ランプを消すのは得策ではないですよ。視界に頼らず歩けるならまだしもですが」
「そうよね……」
やむを得ない。音が消えるだけでもありがたく思わないといけないのかも。
わたしたちは小人の鳴らしたであろう音のほうへと歩を進めた。慎重に、足場を確認しつつ。
岩肌は滑らかで、ところどころ石柱が立っていた。
音の心配はいらないのだが、警戒心が高まっているのか、どうしても足運びを気にしてしまう。
「小人に囲まれたらどうしますか?」と、ヨハンは唐突に言った。
口元に指を当てて想像してみる。小さくてずんぐりした奴に囲まれる……。あまり心地良い気分にはならないだろうなぁ。
「場合にもよるけれど、脅威になるのなら攻撃するしかないわね。もちろん、対話が一番だけど」
話してなんとかなる相手ならいいのだが。そもそも小人相手にサーベルを抜くような状況になってしまったら、当初計画していた小人経由でアリスとノックスに再会するというのもご破算だ。
「なら――」
ヨハンは言葉を切って、ランプを地面に置いた。そして、そのささやかな灯りに手をかざす。「ぜひとも対話していただきたいですね」
彼の手のひらから魔力が放出されるのが見えた。
一瞬、目が眩んだ。ヨハンが放った魔力はランプに触れるや否や、その光を急激に拡散したのである。目を開けられないほどの閃光――。
薄目でヨハンを見ると、彼は不敵な笑みを浮かべて佇んでいた。けれどもその瞳は決して笑ってはいない。むしろ、挑むような目付きである。
ようやく光に慣れると、周囲の異様さに気が付いた。ヨハンが使用した魔術――おそらくは、光源を拡散する魔術――によって空洞内部はわずかな影を残してほとんどが明るく照らされていた。
はるか頭上には、天井から伸びた鍾乳石。辺りには石柱や石筍がいくつも形成されている。空洞自体はドーム状になっており、壁には数えきれないほどの拳大の穴が空いていた。そして――。
石柱の影。穴の先。あるいは堂々と、こちらを睨む小さな存在があった。数えきれないほどの小人が、こちらを睨んで立ち尽くしている。
絶句してしまった。これほどの数がそばにいながら、わたしは少しも気が付かなかったのだ。
「さて」とヨハンは呟く。「穏便な対話でもしましょうかね」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『二重歩行者』→ヨハンの得意とする分身魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『ヨハンの交信魔術』→耳打ちの魔術。初出は『31.「作戦外作戦」』
・『疑似餌』→魔物の持つ魔力誘引特性を利用した魔物引き寄せの魔術。対象の身体に魔力を注ぎ込むので、対象者が引き寄せの力を持つ。詳しくは『83.「疑似餌」』にて
・『麻痺波』→読んで字のごとく、麻痺を拡散させる魔術。大した効力は持たない。詳しくは『143.「ザクセンの理想郷」』にて
・『遅延魔術』→ヨハンの使用する魔術。対象の動きをゆるやかにさせる。詳しくは『69.「漆黒の小箱と手紙」』にて
・『岩蜘蛛の巣』→王都を追放された者が放り込まれる洞窟。王都へ戻るために突破しなければならない場所。初出は『110.「もしもあなたがいなければ」』
・『毒瑠璃の洞窟』→毒性の鉱物である毒瑠璃が多く存在する洞窟。詳しくは『102.「毒瑠璃の洞窟」』にて




