幕間.「魔王の城~書斎~」
静かな夜だった。やや欠けた月は天高く昇り、魔王の城を青白く染め上げている。風もどこかおずおずと、遠慮がちに窓を揺らすのみ。
月光の射し込む一室は、ニコルが書斎に使っている場所だった。図書塔から持ってきた歴史書が机に積まれ、本棚には雑多な学術書がずらりと並んでいる。インクと古びた紙の匂いに覆われたこの空間が、ニコルは好きだった。
こうして窓際のテーブルで書物を捲っていると、月光に浸された紙面が妖しい魅力を持って迫ってくるようにニコルは感じた。
そんな彼の向かいで、魔王も熱心に本のページを捲っている。その目はきらきらと輝き、無邪気な子供のようにニコルには思えた。ちらとそのページを盗み見ると、ひらひらした可憐な洋服を着た女の子が大樹の根元で眠っている。字に比して挿絵が随分と大きい。
その本にはニコルにも覚えがあった。魔術師を目指す女の子が様々な障害を乗り越えて伝説の大樹を目指すという童話である。王都にはない、この『ラガニア地方』だけに伝わる物語。
「ユグドラシル物語だね」とニコルは笑いかけた。
すると魔王は満面の笑みで頷く。
「そう、『ユグ物』じゃ! 昔からずっと好きで、毎日読んでも飽きないくらい――もう、これは、喩えようのない名著なのじゃ」
本を抱きしめてうっとりと目を閉じる彼女に、ニコルは苦笑を浮かべた。好きな物があるのは素晴らしいけれど、本を抱きしめてうっとりしてる姿は誰かさんに似てる。そう思ったが、ニコルは決して口に出さなかった。クロエの話題を出すと不機嫌になるに違いないのだから。
「女の子が聖樹に導かれて冒険する話だっけ?」
すると、魔王は頬を膨らませた。「違う。魔術師を目指す不遇な女の子が妖精に導かれて波乱万丈の毎日を送りつつも聖樹ユグドラシルを目指して旅する、とっっっても素敵なお話じゃ!」
つまり冒険譚じゃないか、とニコルは笑いをこらえる。「そうだったね、素敵なお話だ」
「だからこそ――」魔王は、ぐっと拳を握って眉間に皺を寄せた。「ユグドラシルを見たことがあるだなんてホラを吹いたあのペテン師――メフィストは許せぬ。」
相変わらず直情的だなぁ、とニコルは困ったように微笑んだ。そしてメフィストのことを頭に浮かべる。
「メフィストは僕らのためにしっかり働いてくれているようだけど……」
と助け舟を出しても、魔王は膨れ面で首を横に振った。
「それとこれとは別じゃ。そもそも、あんな嘘つきを信用するなんてニコルはどうかしておる」
ニコルは肩を竦めて、紙面に目を落とした。そうしてぼんやりとメフィストのことを考える。牢獄に囚われた彼の哀れな姿を思い出して、しんみりとした気分になった。
不意に後ろから抱きすくめられ、ニコルは顔を上げた。目の前に座っていた魔王はいつの間にか消えている。鼻腔にふんわりと、花の香りが漂った。
ニコルは魔王の腕をそっと撫でる。紫の滑らかな肌は、人間のそれよりもずっと美しく思えてならない。そしてその美は、悲哀を多分に含んでいる。
「早く、全部終わればいい」
魔王の声は震えていた。ニコルは振り向かず、彼女の腕を撫で続けた。
テーブルの向かいに置かれた本を見つめて、ニコルは細く長い息を吐いた。物には記憶が詰まっている。それに触れた過去の自分も、間違いなくそこにいるのだ。彼女の場合、それが『ユグドラシル物語』だったというだけ……。そういえば、結局主人公の女の子はユグドラシルにたどり着けたんだっけか、とニコルは記憶を探った。けれどもそれはぼんやりとしていて、思い出せそうにない。すぐそこにある答えを捲るのは、どうしても躊躇われた。
もしもバッドエンドだったら――。
「全部終わらせるよ」
ニコルは目を閉じて、瓦礫と魔物に満たされた王都を思い描いた。
夜は短く、そして深い。月光は魔王の咽び泣きとニコルの沈黙を、等しく照らしていた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『メフィスト』→ニコルと魔王に協力する存在。初出は『幕間.「魔王の城~尖塔~」』
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。




