212.「ひとりぼっちの暗闇から」
人ならざる者に導かれて森を歩く。幻想的な経験ではあったが、どこか背徳的な気分を覚えた。理由ははっきりしている。彼女がバンシーという魔物であり、人にあだなす存在だからだ。
けれどもそれは一般論であり、『鏡の森』で出会った彼女らは決して悪意に満ちた存在ではない。歩を進めるためには、時に常識を打ち破らねばならないのだろう。
森のあちこちに『鏡蜘蛛』の巣が張られていた。それらはわたしと、半身の魔物を映している。こうして落ち着いて周囲を見ると、『鏡の森』という名は実に的確だ。森のあちこちに巣を張る『鏡蜘蛛』ももちろんだが、グレガーの魔術だってそれを表している。
肉体と精神。まるで鏡のように両者が分断され、実体が遠ざかるにつれ両者の像も小さくなっていく。そして最後には、鏡にさえ映らない。肉体は生命を失い、精神は消滅する。
しかし、だ。
グレガーの言葉によると、精神は消えて終わりではない。その後にはバンシーが現れ、彼女が精神を受け継いでいる。妙な話ではあったが、ビクターの研究を目にした以上、前例のない試みにはどんな異変が起こっても不思議ではないのだ。
バンシーは楽しげにわたしの手を引く。ときおり振り返っては、ニッコリと笑いを交わした。まるで森を散歩しているような感覚。彼女によると今は夜であるらしかったが、魔物の心配はないらしい。というのも、バンシーが牛耳っている土地なので不思議と他の魔物が寄りつかないとの話である。眉唾ではあったが、彼女の口から語られると信じられる。
『聖樹宮』からヨハンたち――つまり、わたしの肉体までは彼女が正確に導くことを約束した。一度はわたしを庇い、そして迷いなく友達だと言い放ったバンシーである。たとえ魔物であろうとも信用していた。
「お姉さん、疲れてない?」
「大丈夫よ。あなたこそ、ちゃんと『聖樹宮』に戻れる?」
彼女は得意げに頷く。「森のことはなんでも分かるの。ちゃんと帰れるから心配しないで」
余計なお節介か。彼女たちバンシーにとって、『鏡の森』は庭のようなものだろう。足を踏み入れた者を正確に『聖樹宮』へと導くことが出来るくらいだから。
「ところであなたは、いつからこの森にいるの?」
ふと疑問を投げかけると、彼女は首を傾げて見せた。
「うぅん……ずっと昔?」
どうやらはっきりしないようだ。時間の感覚が人間とは異なっているのかもしれない。魔物の生きる長さについて触れた論文は存在しないはずだ。その身に流れる時間については誰も知らないのである。特殊な魔物を除き、その多くが夜間のみ活動する種であり、昼になればたちまち靄となって消える運命なのだ。それが魔物にとっての死ではないとされている以上、彼らの自然な生死について多くを知ること自体が不可能なのである。
もしかすると、自然に死が訪れることはないのかもしれない。そう考えると、彼らにとって時間とは単に昼夜のめぐりや、あるいは季節の変化程度のものなのだろう。であれば重要度が低くても頷ける。
それからしばらく森を進み、魔紋の彫られた魔樹をバンシーが教えてくれたので三本ほど切り倒した。もったいないことだとは思ったが、グレガーが心変わりしないとも限らない。
「デリケートなことを聞くようで悪いんだけど、あなたは昔の――つまり、人間だった頃の記憶は持ってるの?」
こちらの問いかけに、彼女は考え込むように「うぅん」と唸った。唇に指を当てて、斜め上空を見つめている。人間らしい仕草だ。
ひとしきり悩んだあと、バンシーは慎重にぽつぽつと答えた。
「あんまり覚えてないけど、森に入る前は大好きな人と一緒にいたの」
「大好きな人?」
なんだなんだ。気になるじゃないか。
彼女は恥ずかしそうに頷き、それから確かめるように言葉を紡いだ。
「この森に入って、王様のベッドで眠ったあと……。気が付くと今の姿になってたの」
なんとも判断しがたい内容である。消えた精神体がバンシーになったとも、元々存在したバンシーに受け継がれて森に出現したともいえるだろう。いずれにせよ、その部分の追及は困難であるし、得た情報だけでは推測の域から出られない。
「そういうものなのね」と返すと、彼女はクスクスと笑い声を上げた。今の自分に疑いを持っていない、純粋な笑いである。
「そういうものなの」と口にして、バンシーは続けた。「最初は他の子と一緒に遊んでたの。かけっこしたり、かくれんぼしたり」
微笑ましい。たとえ精神を受け継いだとしても、ほかの仲間の持つ無邪気さに感化されたのか、段々と子供っぽくなっていったのだろうか。彼女以外のバンシーも、言葉や仕草、そして態度が幼かったことを思い出す。王都で見かける通常のバンシーは、もっとずっと狡猾で知恵者だ。こんなあどけない様子など見たことがない。その辺もやっぱり、例外的なのだろう。
「でもね」ぽつりと零れた言葉は、それまでとは打って変わって哀しげな口調だった。「そのうち、真っ暗な穴に閉じ込められたの」
「それって……グレガーになにかされたってこと?」
だとしたらちょっと許せない。バンシーになってからも酷いことをされたのなら、引き返して頬を思いっきりぺちぺちしてやりたい気分だ。
バンシーは即座に首を振って否定した。「ううん。王様がしたんじゃないの」
「なら、どうして真っ暗な穴に?」
その答えは、彼女自身にもはっきりしないようで、「分かんない」と短い返事をしただけである。
「すごくね、怖かった」と率直に言う。
当然だろう。いつの間にか暗い穴に閉じ込められるなんて、想像するだけでぞっとする。
「声を出しても返事はないし、真っ暗でなにも見えないし、寒かった。……その穴はね、自分からは絶対に出られないの。出られない、って分かってたの」
直感的に、そう思ったということか。根拠も理由もないけれど、どうしてか確信してしまう感覚はわたしも覚えがある。その直感が強い引力を持つことも、把握していた。
「……すごく怖かったでしょうね。どのくらいの間、閉じ込められていたの?」
彼女は「うぅん」と再び唸った。そして指を折って、なにやら数えている様子である。
しばらく沈黙したまま、歩き続けた。彼女の計算は続いていたし、わたしも返事を待っていたのだ。崖を迂回し、やがてぽつりぽつりと『爆弾胞子』が見え始めた頃、彼女はようやく口を開いた。
「たぶん、少しだけ前。森が明るくなって、暗くなって――それを何回か繰り返したから」
すると、数日前まで彼女は暗闇の穴に囚われていたということになる。どれだけの時間かは計り知れなかったが、途轍もなく不安で、孤独で、怖かったろう。
「けどね」
打って変わって、彼女は柔らかな声を出した。それまでの憂いに沈んだ口調とは随分とギャップがある。
彼女はもったいぶるようにちらちらとこちらを振り向き、照れ臭そうに笑った。可愛らしい仕草だ。しかし、愛らしく開かれた唇から漏れた言葉は意外なものだった。
「ひとりぼっちの寂しい暗闇で、お姉さんの声がしたの。……なんて言ってるかも分からなかったけど、必死な声……。ちょっぴり怒ってたかも。けど、なんだかね、それが私を救ってくれるように思えたの。ひとりぼっちの暗闇から手を引いて、明るい場所へ」
彼女の横顔を見つめ、はたと気が付いた。胸に押し寄せる感情は複雑で、けれども決して悪いものではない。
「それから、気が付いたら『聖樹宮』に戻ってたの。たぶん、お姉さんのおかげよ」
それは違う、と言おうとして口を開きかけたが、そのまま閉じた。事細かに説明する必要なんてない。今は彼女が森で生きていて、こうして親切なお友達でいることがなによりも大事なのだ。
なんだか、胸がいっぱいだ。
「良かった……。本当に……」
「森で楽しく遊べるのもお姉さんのおかげ。お姉さん大好きっ!」
言って、彼女はわたしに抱きついた。その肌は冷たく、人間のそれとは決定的に違っている。
けれど。
「あなたが楽しく生活してるなら、なによりね」
そう返すので精一杯だった。彼女はその返事に満足したらしく、ニッコリと微笑む。そして不意に、前方を指さした。
「寂しいけど、ここでお別れ……。真っ直ぐ進めば、お友達と会えるから大丈夫」
その顔は寂しげに見えた。
「ありがとう。けど、あなたともずっとお友達よ。離れていても、ずっと」
この言葉はちゃんと届いただろうか。彼女の笑みがその証明なら、わたしは満足だ。
ゆっくりと足を踏み出す。もう、隣にバンシーがついてくることはなかった。振り返ると、ふわふわと浮かんで手を振る彼女の姿が見える。
「最後に、あなたの名前を教えて」
聞くと、彼女は背を向けてふわふわと去っていった。
けれども、森にこだまするように彼女の返事が届く。姿は見えなくなっていても、その声は確かに響いた。
「私は――メアリー」
じんわりと、心に染み入る音色だった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照




