209.「森の紋」
精神だけの状態。グレガーの言葉の意味が正確に掴めなかった。彼が真実を言っているとすると、わたしは今、肉体から離れたあやふやな状態でここにいるのだろうか。
そもそも精神と肉体が分離するなんて馴染みがない。
「もう少し詳しく教えてくれないかしら? 精神だけの状態ってどういうことなの?」
「言った通りだが……」一旦言葉を切って、グレガーは顎に手を添えた。彼自身も説明には苦慮するものであるらしい。「たとえば、二重歩行者は知っているか?」
即座に頭に浮かんだのは、ヨハンの不健康な骸骨顔だった。二重歩行者は彼の得意とする魔術である。
「よく知ってるわ。知り合いに魔術師がいるの」
グレガーは頷いて続ける。バンシーたちは真剣な顔付きで成り行きを見守っていた。
「なら話は早い。貴女は今、二重歩行者よろしく肉体と分離した状態にある。ただ、より濃厚に生命力を持っているのは精神体のほうだ。精神と離れればそれだけ、肉体は衰弱していくのだよ。あくまでも主体といえるのは精神だ」
どうにも信じられない話だ。そんな魔術が存在するのだろうか。
原理はともかくとして、焦りが胸に萌した。肉体と精神の両者が離れた分だけ、肉体の側が衰弱する。それはつまり、ある地点を越えると肉体の死が待っているのではないか。
「仕組みはともかくとして、急がないと駄目みたいね」
出口へと足を踏み出しかけると、バンシーがふわりとやってきた。彼女たちはわたしの耳元に代わる代わるやってきては囁く――。
「大丈夫だよ、お姉さん」
「お姉さんの身体はまだ森のなか」
「外に出るまでは大丈夫」
「元に戻れるから」
「お姉さんのお友達が介抱してるの」
「だから安心して」
「王様には内緒よ」
クスクスと笑うバンシーたちは、やはり、嘘を言っているようには見えなかった。奇妙なことだけれど、彼女たちの態度はどこまでも親切だ。
「分かった……あなたたちの言葉を信じるわ」
まったく、我ながらどうかしてる。騎士時代から考えると倒錯もいいところだ。
けれども、清々しい気分……。彼女たちは信じてもいい。たとえ魔物であっても。
ヨハンが毎度のごとく苦々しい表情を浮かべる『直観』というやつだ。
「もうすっかり本当の友達みたいだな」
グレガーがぽつりと呟く。その声に皮肉な調子はなく、却って落ち着いた様子だった。静かな諦め……そんな気持ちになっているのだろうか。まあ、無理もない。
「お姉さんとは最初から友達だもん」
「ネー」
「仲良しだもん」
「ネー」
バンシーたちは互いに顔を見合わせてきゃっきゃとはしゃぐ。クスクス笑うと裾が小刻みに揺れるのが面白い。
「ネー」と笑いかける彼女たちに、同じく「ねー」と返してやると、嬉しそうにくるくると宙を舞った。経験はないけれど、小さい子供と遊ぶのはちょうどこんな感じなんだろうか。心がほんわかと温かくて、ふわふわと軽い。
いけない。いつまでも和んでいるわけにはいかないのだ。今はグレガーの施した魔術について問いたださねば。ヨハンとアリス、そしてノックスにいつまでも不安な思いをさせるわけにもいかない。
「グレガー。あなたがわたしにかけた魔術を教えて」
すると彼は短く頷いて、口を開いた。
「貴女に施した魔術には、正式な名前がない。……いくつかの魔術的要素を組み合わせて、私が独自に編み出したものだ。言うなれば……そうだな。精神抽出魔術とでも言おうか」
なるほど。複合魔術なら知らなくとも無理はない。もしや呪術かもしれないと疑っていた分、ちょっぴり安心する。
とはいえ未知の魔術だ。引き出せるだけの情報は引き出しておくべきだろう。今のわたしにとっても、また、今後のわたしにとっても必要になるかもしれない。
「精神抽出魔術ねえ。詳しく教えてくれないかしら」
「貴女が気にしているのは影響のことだろうな……。正直に答えると、影響は一点のみだ。先ほども言った通り、肉体と精神の距離が離れるほど、肉体側が衰弱していく。それだけなら精神が元に戻ることで回復するが、一定の距離を置くと、肉体と精神は結びつきを失う」
結びつきを失う、か。遠まわしな表現を使ってほしくはない。
「それはつまり、肉体が死ぬってことでしょう?」
バンシーは気まずそうに顔を逸らし、グレガーは目を伏せた。
「そうだ」
「なるほどね。それで、あなたの言う一定の距離っていうのが、『聖樹宮』から『鏡の森』を抜けるまでの距離なのね?」
彼が頷くと、身体の動きを感知したのか、『灯り苔』がぼんやりと明滅した。
「その通り。森を抜けた瞬間に、肉体は生命力を失う」
となると、新たに疑問が生まれる。森を抜けたタイミングで死が訪れるなら、この場所から森の果てまでは等距離でなくてはならない。距離を理由にした以上、そうでなければ成立しないだろう。真円の森なんて存在するのだろうか。
わたしの疑問に答えるように、グレガーは続けた。
「厳密には、距離と、もうひとつの要素が関係している。貴女は森で魔樹を目にしたか? 『聖樹』以外に」
三度、発見している。大変貴重とされる魔樹が三本も見つかったものだから随分と興奮したのを覚えていた。ここが魔樹の群生地なら、書物に記すべき大発見とも考えたものである。もちろん、今ではそんな気なんてない。バンシーたちの住処を脅かすようなことはしたくないのだ。
「見てるわ。それも、三本」
「よろしい。……貴女に施した魔術は、魔樹と強い関連性がある。距離によって衰弱していくことは変わらないが、森を出るまでは決して死なない。魔樹が命を繋ぎとめているんだ」
そんなことがあるだろうか。魔樹との関連性に関しても、はっきりとしない。わたしは『聖樹』と呼ばれる巨木の魔紋によって、精神抽出魔術とやらを施されたのではないのか。わたしとほかの魔樹とは関係していないはずである。魔樹の根が地下で繋がっているなんてのも御伽噺じみた考えだ。
「魔樹は独立して生えてるんじゃないの? わたしが『聖樹』の魔紋で精神だけの状態にされたなら、ほかの魔樹は無関係のはずよ」
グレガーは首を振って「無関係ではない」と返した。
バンシーたちは上下に漂いつつ、わたしとグレガーを交互に見つめている。たまに顔を見合わせ、口元で人さし指を立ててクスクスと笑った。知ってるけれど、グレガーが口にするのを待っているような、そんな素振りだ。
なにをもったいぶっているんだ、と少し呆れたが、わたしが痺れを切らす前にグレガーは続けた。
「先ほど魔紋を魔樹に彫りつけたと言っていたが、それは間違っていない。……だが、彫りつけた魔紋は貴女が想像するようなものではないのだよ。そもそも精神抽出魔術と忘却魔術、そして錯覚魔術……これらすべてを高水準で施すためには聖樹の魔力だけでは到底実行出来ない。だからこそ『聖樹』には、魔力を描く魔紋だけを彫った」
魔力を描く魔紋?
言っていることが理解出来ない。
「魔力を描く、って、それじゃあ魔紋を作るための魔紋みたいじゃない」
「そうだ。私は魔紋を描き出すための魔紋を『聖樹』に彫りつけた。それと、森に生えている魔樹の多くに、特定の魔力を維持する魔紋が彫ってある。……さて、この森には何本の魔樹が生えていて、どういった分布なのか想像出来るか?」
おそらく魔樹は、数本だけではないだろう。何十本と生えているかもしれない。それの大部分にグレガーは魔紋を彫りつけた。魔力を維持するためだけの魔紋を。
なんのために?
……魔樹がグレガーの理想とする位置に生えていたらどうなるだろう。たとえば巨大な円と、その内側の装飾部を描くに足る本数が等間隔に並んでいたなら……。
ぐらり、と視界が揺れた。魔術のためではない。あまりのスケールの大きさに眩暈がしたのだ。
「私は森全体に、ひとつの巨大な魔紋を描いたんだ」
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『二重歩行者』→ヨハンの魔術。詳しくは『12.「二重歩行者」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた物の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』




