207.「聖樹の正体」
『聖樹宮』の中心に鎮座する巨大な樹――グレガーが『聖樹』と呼んではばからないそれは、正気の目で見つめれば簡単に看破出来る代物である。
溢れんばかりの魔力を帯びた巨木は、間違いなく魔樹だった。つまるところ、グレガーは魔樹を刳り貫き、生活スペースとして利用していることになる。けれども、元騎士団ナンバー2の魔術師が単にそれだけの用途で使うなんてありえない。
「聖樹――いえ、魔樹の助けは借りれないわよ。さあ、どうするのかしら?」
切っ先をグレガーに向けると、彼はよろよろと後退した。そのあとを追って、バンシーもふわふわと彼に寄る。
「魔樹にも気付いていたか……。慧眼だが、私が無抵抗のままでいると思ったか? 貴女を傷付けるのは気が進まないが、やむを得ん」
言って、彼は両腕を大きく広げた。これでもまだ抵抗するというのか。よほどわたしを屈服させたいのだろう。
彼の両の手のひらに魔力が集い、やがて魔球が出現した。右手と左手にひとつずつ練り上げた塊。灯り苔の出す発光色とよく似ていた。
「降伏するなら今のうちだ!」
グレガーは大口を開けて叫ぶ。
「主語が抜けてるわ。誰が降伏するのかしら? もしかしてわたしのこと? だとしたらとんだ思い違いよ」
彼は舌打ちをして、大きく腕を引いた。「なら、存分に後悔しろ――!」
その言葉とともに腕が振られ、魔球が放たれた。二つの魔力の塊は、一直線にこちらへと進む。
呼吸を整えてサーベルを振った。わずかな手応えと同時に魔球は、ぱちん、とまるで水泡のように弾けて消える。
一瞬で充分だ、この程度なら。
グレガーは顔に悔しそうな怒気を漲らせていた。きっと、今の彼にとっては精一杯の攻撃だったのだろう。たった二発の魔球。密度、速度、重さ……あらゆる点において並以下の魔術だ。こんなものしか作れないほど、彼の魔術は限定されてしまっているのだろう。おそらく不死魔術の影響によって。
「大した攻撃は出来ないと思ってたわ。なんせ、魔樹に頼るほどだもの……。魔樹を使うのはあなたにとって最終手段でしょう?」
グレガーは拳を握り、こちらを睨んだまま返す。「……どこまで察しているんだ」
「そうね……あなたのしていることはおおよそ把握してるつもりよ。もちろん、細かい点で間違いはあるでしょうけどね。魔樹をどのように利用しているのか……そのあたりは理解してるわ」
「それも」言って、グレガーは拳を解いた。「王都の図書館で調べたのか? たったひとりで……しかも、夢のなかで……」
まだ信じられないのだろう。それも自然なことだ。
「そう、せっせと記憶を調べたのよ。けれど、ひとりぼっちじゃなかったわ。とっても素敵で、過去類を見ないくらい厄介な少年と一緒に答えを導き出したのよ」
記憶のなかのニコル。まだ勇者にすらなっていなかった彼の姿を思い出して、ずきんと胸が痛んだ。
「信じられん……。貴女が理解している範囲でかまわない。導き出した答えとやらを言ってみたまえ」
グレガーはやや憔悴した様子で促した。仕方がない。これで降参してくれるというのならいくらでも話してやる。
「いいわ……。まずはわたしがこの場所に連れて来られたときのことだけれど、あなたは遠隔で魔術をかけた。忘却魔術と錯覚魔術。もしかしたら洗脳魔術もブレンドされてるかもしれないわね。……バンシーの言葉で偽りの記憶を植え付けられ、なおかつ、錯覚魔術のせいで彼女たちへの敵意も消えたわ。なんにせよ、少し前の記憶さえ失ってしまったり、魔物を敵と思わなくなるほどの強力な魔術を施されたのよ、あなたに」
「待て」とグレガーは言葉を挟んだ。「忘却魔術にせよ錯覚魔術にせよ、貴女の言うほど強力な魔術なら、すぐさまかけることなんて不可能だ。しかも遠隔で? ……ありえない。魔術師何人分の魔力が必要だと思ってるんだ」
知ってるくせに。ちょっぴり眉間に皺が寄ってしまった。こちらの理解度を試すためとはいえ、こうも露骨にとぼけられると気分が悪い。
長いまばたきをひとつして、背後の魔樹を親指で示した。
「魔樹の力を借りたのよ、あなたは」
首を傾げて口を開きかけた彼を、手で制す。これ以上余計な演技を見るのはごめんだ。
「言いたいことは分かるわ。魔樹はあくまで魔具の製造のために使う材料であって、魔術師が使えるものじゃない。魔力を吸い出すことも、魔樹を介して魔術を使うことも出来ない……。けれど、方法がひとつあるわ。さっきあなたが魔樹に触れようとしたのも、それを使うためよ」
グレガーは疑り深い目でこちらを見つめたままである。
わたしは人さし指で、空中に円を描いた。そして、その円のなかにシンプルな幾何学模様を描き入れる。
グレガーが取った方法は、決してポピュラーではない。むしろ珍しいくらいだ。けれどわたしは彼に遭遇する前、ハルキゲニアでそれを目にしている。忘れたくても忘れられない強烈な体験として。
「あなたは魔紋を使ったのよ、グレガー」
彼は口元を引きしめたまま佇んでいた。沈黙は肯定と捉えていいだろう。
「魔紋の仕組みについて理解するのは随分と苦労したわ。紋様もそうだけど、なんであんなに複雑なのかしら……。まあいいわ。魔紋に魔術を籠めれば、小難しい魔術だって扱うことが出来る。……さて、魔紋それ自体がなんの魔力に依存するかだけれど、当然ご存知よね? だって、あなたはそれを利用してるんだもの……。魔紋は、描いた術者の魔力に依存する場合と、施された物自体に依存する場合があるわ」
そして、今回の場合は後者だ。グレガーは『鏡の森』で巨大な魔樹を見つけたとき、すぐさまこの方法を思いついたのだろうか。
「グレガー……魔樹に魔紋を刻み付けるのって、大変だった?」
魔樹に魔紋を刻み、そこに魔力を流し込む。これで、どんな大規模な魔術も容易に使用出来る。なんせ、扱える魔力量は膨大だ。こんなにも巨大な魔樹なら、魔術師百人分くらいの魔力は有しているのではないだろうか。
グレガーの顔には汗が滲んでいる。中性的な顔立ちも台無しだ。
「私が魔紋によって、貴女に忘却と錯覚を施したと?」
彼の声は思ったほど揺れていなかった。静かな問いである。
「そうよ」そう口にしてから、彼に一歩近寄った。「そしてここからは答え合わせ……。そのついでに、ひとつ教えてほしいことがあるの」
「なんだ」
どうしても分からないことがある。『鏡の森』にまつわる疑問の根幹にあたる部分だ。ビクターは手記のなかで、変調をきたしたメアリーと終始ともにいたはず。一方でグレガーは不死魔術の維持のため、追放者を惑わし、この『聖樹宮』で魔力を奪う意図がある。
メアリーもきっと、『聖樹宮』に足を踏み入れたに違いない。そしてグレガーの糧となった。その間、彼女はビクターたちと一緒にいたとされている――。
「現実のわたしは、今どうなってるのかしら?」
グレガーはじっとりと粘つく視線でこちらを見つめていた。そんな彼を睨み返したからなのか、一体を除いて、バンシーがひらひらとグレガーの後ろに隠れる。まったくもって魔物らしくない連中だ。
一体だけは相変わらずふわふわと宙に静止しているのが気になる。他の奴と差異があるのだろうか。今のところ敵意は感じないが、なにか仕掛けてくるかもしれない。油断は禁物だ。
「現実……『聖樹宮』にいる貴女は現実じゃないと?」
「分からないわ。現実かもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしかするとわたしは、この森のどこかに同時に存在するんじゃないのかしら?」
グレガーは沈黙している。時間を稼ごうとしているのか、返答に窮しているのか……。いずれにせよ、早くヨハンたちと合流しなければならない。少し揺さぶってみよう。
「ねえ、グレガー……メアリーのことは知っているでしょう?」
グレガーの目が大きく見開かれた。それと同時に、バンシー同士が顔を合わせて何事か囁き合っている。彼らの反応は雄弁で、もはや疑いようがない。
メアリーは『聖樹宮』を訪れている。そして同時に、ビクターとともに存在した。この矛盾を説明出来るのはグレガーしかいない。
「グレガー。もう沈黙はうんざりよ。わたしが今どうなっているのか。そして、これからどうなるのか。ぜひとも教えて頂戴」
サーベルをかまえ、彼を睨んだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『魔球』→魔力球、魔力弾、魔力塊とも呼ぶ。初歩的な攻撃魔術。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『王立図書館』→王都にある図書館。クロエが好んで通っていた場所。
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。消費魔力は術者本人か、紋を描いた物の持つ魔力に依存する。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。『鏡の森』で亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照




