206.「No.2」
わたしと王様の足元で『灯り苔』が明滅していた。黄緑色の不安定な光が沈黙を彩る。『森ぼんぼり』が放つ甘い香りが鼻を刺激した。
「仮に」と王様は重々しい口調で静寂を破った。「私がグレガーだとしても、貴女の言葉には根拠がない。それに、夢のなかの図書館で正確な知識を得るなど不可能だ。……そもそもあの夢は貴女の記憶をもとにしている。記憶の引出しに膨大な書物が入っているなど有り得ん」
それが一般的な感覚だろう。確かに、王立図書館には膨大な量の本が存在する。不死魔術に少しでも関係する情報を得るためには、その本をわたしが一度でも読んでいる必要があるだろう。無意識下の記憶までフル稼働させてあそこまでリアルな夢を見せていたのなら、それはつまり、一読したことのある書物ならあたかも本物のように顕現させられるというわけだ。
普通なら記憶の図書館で有益な情報を得ることなんて不可能だろう。そう、普通なら。
「わたしが何年図書館に通ったと思ってるの? 王都の図書は全部読破済みよ」
ぽかん、と王様が口を開く。唖然とするのも分かる。王立図書館の規模を知っていればなおさらだ。けれども、わたしを侮らないでほしい。毎日毎日図書館に通いつめて、あらゆる知識を吸収したのだ。その知は記憶の奥底に沈み込み、今の自分を形作っている。こんな状況で記憶の底を覗けるとは思っても見なかったが。
「嘘だ」
「嘘じゃないわ。でなければ、あなたの不死魔術がどんな理論で成り立っているか説明出来ないじゃない。禁止魔術の中でもマイナーな部類なのよ? それに、普通の人間なら到底実行なんて出来ないわ。それこそ、『鏡の森』くらい絶好の環境を用意しなきゃね」
王様の顔が引きつった。そして、額の汗を拭う。
「……本当にすべての書物を読破したのか?」
「ええ。もちろん」
すると王様は深いため息をつき、「正気とは思えん……本の虫の域を超えている」と呟いた。
失礼な……。こっちだってニコルに追いつくために必死で勉強したのだ。それをあれこれ言われるのは腹が立つ。
「お褒めいただき大変光栄なんだけど、そろそろ認めたらいかが? ねえ、グレガーさん。王都の図書館なら、あなたもよくご存知でしょう?」
王様は諦めたかのように、すっ、と憂鬱な表情を浮かべた。
「知っているのなら、隠す必要もないな」
彼の言葉を聴いたバンシーが戸惑うように、上下に落ち着きなく浮き沈みする。
「王様!」
「負けちゃ駄目!」
「認めたら終わりよ」
「……」
よく見ると、ふわふわと浮かぶバンシーのうち一体だけ、さっきからひと言も喋らない奴がいた。ちらちらとこちらを盗み見ては、なんでもないように振る舞っている。
「騒ぐな……もうよい。貴女にはなにもかもお見通しというわけだな?」
「そうよ」
「そうか……ところで、貴女は一体何者なんだ? 王都のことを口にしていたようだが、この森で見かけたことはない。どうやって『最果て』に入った?」
彼の疑問はもっともだった。王都からの追放者なら必ず『鏡の森』を通過する。それはつまり、グレガーの目にとまるということだ。海峡の先、『最果て』側からやってきた旅人が王都の記憶を持っているなんて、彼にとっては理解しがたい異常だろう。
「どうだっていいじゃない。……それとも、『最果て』出身のか弱い乙女だと思って捕らえたら意外な過去を持っててびっくりしちゃったのかしら?」
「ああ、そうだな……」言葉を切り、グレガーはこちらを鋭く睨んだ。「貴女は森から出ることを望んでいるようだが、それは叶わない。役目の終わっていない相手を逃がすわけがなかろう? 私のことを充分知っているなら、どれほどの存在かは理解しているだろうに」
彼の周囲で魔力が整う。いつでも魔術を放てる状況。
ニコルから聞く限り、グレガーはかなり厄介な相手だった。その理由は明白である。
王立騎士団の元ナンバー2。幻術のグレガー。その功績や具体的な魔術に関して書物には載っていなかったが、ニコルは随分と詳しかった。どこで見聞きしたのかは知らないが、多分、魔術訓練校で教わったのだろう。洗脳、幻影、錯覚、忘却……グレガーの扱う魔術はひと癖あるものばかりらしい。それを魔物との戦闘に活かしてナンバー2まで駆け上がったのである。今から何十年も前の話だが。
時が経とうとも、目の前の相手が元騎士であることに違いはない。実力のほどは分からないが、いかに昔のことであっても、騎士団ナンバー2の座を得るのは決して楽ではないはずだ。
「怖気づいたか?」
彼は悠々と口走る。その口調には、どこか演じているような雰囲気があった。
グレガーは間違いなく一流の魔術師だ……禁止魔術を作り出すくらいには。
けれど、一切恐れてなどいない。なぜなら――。
「貴女にひとつ、よい提案をしてあげよう。もし『聖樹宮』にとどまって私と手を組むなら、決して危害を加えないと約束する。バンシーも貴女に傷ひとつつけない」
バンシーは無言で頷いた。こくりこくりと、不揃いな頷き。
――やはり。
グレガーに戦意はない。いや、正確に言うなら、これ以上魔術の使用が出来ないのだ。絶対と言い切ることは出来なかったが、状況は雄弁に語っている。もし彼が洗脳魔術を再度使用出来るなら、わたしを正気に戻ったままにしておくはずがない。とっくに呆然自失の人形みたいな状態にしてしまうだろう。
グレガーにとって『聖樹宮』は、不死魔術を維持するために重要な場所だ。そこに正常な人間が居続けるなど脅威以外のなにものでもない。一刻も早く排除したいに決まっている。
なのにわたしが無事でいるということは、つまり、彼はなんらかの理由で魔術を行使出来なくなっているか、あるいは、わたしを夢遊状態にしてしまえるほどの魔力を消費出来ないのである。
一度きりの、爆発的な威力の洗脳魔術。決して正気には戻るまいという自信の表れであり、おそらく彼の唯一の弱点だろう。気付いてしまえばなんてことはない。サーベルさえ奪わないという油断ぶりも、彼の過信を示している。
大きく息を吸うと、鼻腔に甘い香りが満ちた。
「とっても素敵な提案をありがとう。――お断りよ」
サーベルを抜き去る。鞘と刀身がこすれる心地よい音が響いた。
「やめて」
「お姉さん怖いよ」
「乱暴は嫌」
「酷いことしないで」
「……」
口々に叫ぶバンシーを無視し、グレガーをじっと見つめた。彼は明らかに狼狽の表情を浮かべ、一歩後退する。
「やめたまえ! 私は魔術で貴女を傷つけたくないのだ! 剣を納めろ!」
まったく、呆れてしまう。
「いい加減にして。どれだけ嘘を言えば気が済むのよ。わたしを傷つけたくないんじゃなくて、傷つけられないだけ。賭けてもいいわ。あなたは洗脳魔術を使えないし、使おうとしたら斬る」
じりじりとグレガーが後退する。これ以上下がらせるつもりなんてない。
足に力を入れてから駆けるまで、すべては一瞬だった。彼にわたしの姿が追えただろうか。元騎士団ナンバー2の魔術師に。
「……残念。聖樹には手を触れないで頂戴」
グレガーの背後――彼が聖樹と呼んだ巨木と彼との間に割って入り、言い放った。するとグレガーは、絶望的な表情で荒い息を吐く。
もし動きがあるとするなら、それは聖樹を起点にしておこなわれると読んでいた。だからこそ、自然と対処出来たのである。
「ぐっ……」
グレガーは悔しげに俯いた。
彼が魔術を行使出来るとすれば、その手段はひとつ。わたしは聖樹――否、巨大な魔樹を振り仰いだ。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『王立図書館』→王都にある図書館。クロエが好んで通っていた場所。
・『禁止魔術』→使用の禁止された魔術。王都で定められ、王都の周辺地域にのみ浸透しているルール。
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『最果て』→グレキランス(王都)の南方に広がる巨大な岩山の先に広がる地方。クロエは、ニコルの転移魔術によって『最果て』まで飛ばされた。詳しくは『4.「剣を振るえ」』にて




