203.「王立図書館」
がくん、と身体が震えて身を起こした。
いけない。眠ってしまった。
書架に収まった大量の本をぼんやりと見つめ、なんでここにいるのだろうと疑問が浮かぶ。わたしはどこでなにをしていたんだっけ。
霞が晴れるように、徐々に頭がはっきりとしていく。あくびをひとつして、わたしはなにもかも思い出した。
――そうだ。図書館で自習をしてたんだ。睡眠時間を削ってまでこうして学びに来ているので、ときおりウトウトしてしまうのである。
机に頬杖を突いて、書架を眺めた。王立図書館の奥の奥、滅多に人の来ない隅っこに、自習用の机と椅子がぽつんと置いてある。もちろん、もっと目立つ場所に自習用のスペースはいくらでもあった。それこそソファや肘掛け椅子なんてのも設置してある。にもかかわらず、わざわざ奥まった場所にある席を選ぶのには理由があった。
あまり勉強している姿を見られたくないのだ。気恥ずかしい。それに、静かなほうが集中出来る。椅子が硬いのは問題だったが、それも解決済みだ。スライムクッションを持参したのは我ながら良いアイデアである。
日頃の睡眠不足がたたっている――そう思って少し情けない気持ちになった。魔具訓練校では、今のところよい成績を残せていない。他の子と比べて知識も少なく、魔具を扱う技術もまだまだだ。どうしても焦ってしまう。追いつきたい人がいる、というのが一番の要因だけど。
自分の力不足を痛感するのは非常に悔しいことである。なんとか努力で追いつこうと目論んでいるからこそ図書館に通っているのだ。決して友達がいないわけではない。確かに人付き合いは得意ではないけど、でも、たったひとり、自信を持って友達と言える存在はいる。
こうしてぼんやりしている時間がもったいなく思えて、机に広げた分厚い本に目を落とした。細かい字で、なにやらわけの分からないことが書いてある。字は読めるが、内容がさっぱりだ。一度眠ったせいで、自分が開いた書籍がなんなのかも忘れてしまっている。ため息をついて、表紙を見た。
『魔術応用~魔紋編~』。思わず顔をしかめてしまう。どうりで分からないわけだ。魔紋の概要は知っていたが、応用――つまり、具体的に魔紋を描くという段になるとわたしなんかには決して実行出来ない。学ぶにしても、魔紋のスタンダードな形から複雑な描き方、展開方法などは実際に魔術を体得出来ないとなかなか理解困難なのである。
魔術師だったら、実際に魔紋を描いて呑み込むのだろうけど、そうじゃない人間――つまりわたしは頭に詰め込むだけだ。そもそもが専門的な分野なので、知識だけで今後の役に立つとも思えない。
どうしてわざわざ魔紋の本を選んだのか、自分でも納得出来ない。おそらく挑戦的な気持ちで読み始めたのだろうが、途中からぐっすりである。
大きく伸びをすると、完全に覚醒した。それとともに身体も軽くなる。
別の本を探しに行こう。
魔紋について記された重たい本を片手に歩き出した。
館内は、外からは想像出来ないくらいの広さに感じられる。天井から一階までが吹き抜けになっているから、といった視覚的な理由もあるのだろうけど、わたしは密かにある可能性を疑っていた。『この広さも魔術なんじゃないの?』という好奇心に満ちた疑念である。たとえば空間を広げるような魔術や魔道具があって、それが常に維持されていれば小さなスペースも広大になるに違いない。
うん、きっとそうだ。たとえば司書さんは、そういう魔術のエキスパートじゃないだろうか。眼鏡をかけておっとりとした優しいお姉さんだけど、実は凄腕なんじゃないのかな、なんて。
薄々は勘付いていたが、書架が壁代わりになっており、なおかつ天井までびっしりと書架の迷路で埋まっているからそう感じるだけなのだろう。けれど、そんなふうに考えるのはちょっとロマンがない。せっかく素敵な場所なんだから、空想のなかでは自由に物語ってもいいじゃないか。
「あら」
書架の曲がり角を折れると、司書さんとばったり出くわした。相変わらずおっとりと優しげな雰囲気。「司書さん、こんにちは」
ぺこりとお辞儀をすると、彼女はニッコリと微笑んだ。「こんにちは、クロエ。あなたは勉強熱心ね」
「えへへ」と笑いが漏れてしまう。真っ直ぐな褒め言葉に弱いのだ、わたしは。慣れていない、というのもある。
照れ隠しのつもりで、小さく返した。「追いつきたい人がいるの」
「知ってる。本当に頑張り屋さんね」
司書さんはふんわりした口調で言う。彼女を見ていると、なんだかこちらもほんわかした気分になって心地よい。
「司書さん司書さん、この本、難し過ぎます」と口を尖らせると、彼女は小さく笑い声を上げた。
「だってそれ、魔術師のための本だもの。あなたは魔具専門でしょ? だったら難しく感じて当然よ。それにね――」彼女はわたしの耳元に口を寄せ、小声で囁いた。「その本、魔術師でも途中で読みやめちゃうのよ。小難しくて眠たくなるから、眠りの書なんて言われてる」
司書さんと顔を見合わせて、クスクスと笑った。まるで内緒を共有したような、そんな満足感が胸に広がる。
「それなら理解出来なくてもしょうがないよね。……でも、ちょっと悔しいかも」
「クロエは負けず嫌いだもんね」
それは否定出来ない。けれども、今のわたしがどれだけ頭を捻ったところで魔紋の書籍は理解出来そうになかった。
「また気が向いたときにチャレンジすればいいわ。その本、わたしが戻しておくから頂戴」
す、っと腕から本が抜き去られた。分厚い書物だったが、司書さんはほっそりした腕で軽々と抱える。
「自分で戻すから――」
言いかけたわたしに、首を振って見せる。「これはわたしの仕事なの。図書館にあんまり人が来ないから、お姉さん退屈なのよ。だから、たまにはちゃんと仕事させてね」
言って、彼女は器用にウインクをした。有無を言わせぬウインク。いつもそれを見せてくれるのだが、やっぱりかっこいい。
「そうそう」と、彼女はなにか思い出したように声のトーンを上げた。「あなたが追いつきたい人が、階下にいたわよ」
ちょっぴりからかうような笑みと、二度目のウインク。そして背を向けてひらひらと手を振る彼女は、騎士よりも魔術師よりも、ずっとずっとかっこよく見えた。
彼女が去っても、しばらくは後姿の名残を目に浮かべてぼんやりしていたが、こうしている場合ではない。ぷるぷると頭を振って気持ちを切り替える。早く会いに行かなきゃ。
書架の迷路を早足で抜けると、吹き抜けにたどり着いた。柵に乗り出して階下を覗いたが、そこに人影はない。吹き抜けから見えるのは長テーブルと椅子が均等に配置された学習スペースくらいで、そこにいないとなると一階の書架迷路に入っているのだろう。
螺旋状のゆるやかな階段をリズムよく降りて、辺りを見回した。やはり人影はない。
書架迷路の入り口は複数あり、それぞれ二階へ続く階段が設置されていたり、はたまた三階まで突き抜ける梯子段が設置されていたりする。一度書架迷路に入った人を探すのはなかなか難しいのだ。
けれども、必ず会える自信があった。なぜなら――。
「やっぱりここにいた」
書架迷路の奥まった場所。永久魔力灯の照らす机。向かい合わせに椅子が二脚。その片方に彼が座っていた。
彼は、パタン、と本を閉じてこちらを見つめる。その顔に浮かぶ微笑は、わたしがなによりも好きなものだった。温かくて、安心出来る。この人だけは絶対に裏切らない。そう思わせてくれる微笑。
「やあ、クロエ」
涼しげな声。思わず頬がゆるんでしまう。彼に言葉を返そうとして、なぜだか違和感を覚えた。けれどもその正体を把握するより先に、声になった。
「――ニコル」
意識せず、自然と口から漏れ出た言葉は、胸の内で弾け、鋭い痛みをもたらした。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『魔紋』→魔術の応用技術のひとつ。壁や地面に紋を描き、そこを介して魔術を使用する方法。高度とされている。詳しくは『186.「夜明け前の魔女」』にて
・『王立図書館』→王都にある図書館。クロエが好んで通っていた場所。
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『永久魔力灯』→魔力を施した灯り。光度や色調は籠められた魔力に依存する。魔道具。詳しくは『38.「隠し部屋と親爺」』参照




