202.「聖樹宮の王様と、眠りの揺り籠」
王様――と呼ばれた人間――はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。自然、バンシーに背を押されたわたしと対峙するかたちになる。
「聖樹宮へようこそ。歓迎します」
王様はそう言って微笑んだ。声はやや低く、そこではじめて目の前の麗しい姿の人が男なのだと気が付いた。
彼の笑顔はとても自然で、どこか安らいだ気持ちにさせる。肌の表面を包み込むような、そんな具合だ。
「私は名もなき森の王。なんと呼んでいただいてもかまいません」
「なら、王様と呼ばせていただきます」
そう返して、バンシーをちらりと見つめる。彼女たちと視線を交わして笑顔を浮かべた。なんだか愉快でたまらない。素敵な場所に、素敵な友達。そして中性的な森の王様。なんて素敵なんだろう。
バンシーとわたしは、クスクスと笑い合った。
「随分と仲良しになったのですね。お嬢さん、名を教えていただけますか?」
「クロエ」
間髪入れずに答えると、彼は満足そうに目を細める。ところがわたしは、ちょっとした疑問に意識が向いていた。自分が口にした名前に、少しだけ違和感を覚えたのだ。
クロエ。その響きは少しも間違っていないし、確かにわたしの名前だ。バンシーが言うように、たったひとりで過ごすわたしの名……。けれど、誰かに呼ばれたことはなかっただろうか。親しげな口調で、誰かがわたしの名を――。
王様に手を取られ、思考は中断された。
「さあ、クロエ。貴女の住処に案内しましょう。きっと気に入りますよ」
王様に導かれるままに足を踏み出すと、後ろからバンシーの声がした。
「私たちはここで待ってるから」
「あとで遊びましょう」
「光る虫さんと追いかけっこしたり」
「近くを散歩したり」
「森のこと、色々教えてあげる」
振り返って手を振ると、彼女たちがひらひらと浮かびながら手を振り返すのが見えた。
「もうすっかり友達ですね」と王様は優しく笑う。「これからも仲良くしてあげてください……とても繊細な子たちですから」
繊細なのかぁ、と、彼女たちの知らない一面を知った気がして嬉しくなった。あの人懐っこさの裏に脆い心が隠れているのかな。
「もちろん仲良くします。友達だもの」
「そう言っていただけて嬉しく思います。ずっとずっと、仲良くしてあげてください」
「はい」
その返事に満足したのか、王様は樹上へと続く螺旋階段を示した。
「貴女の部屋は上にあります。私のあとについてきてください」
言って、コツコツと靴音を鳴らして階段を登っていく。そんな王様のローブを踏まないように気をつけながら上を目指した。
螺旋階段はぐるぐると、ずっと上まで続いている。ただでさえ巨大な樹の、さらに上へ。
不意に王様の声がした。
「聖樹宮は特別な場所です。そしてこの聖樹も、深い意味を持った特別な存在なのです。だから無暗に傷つけたりはしないでくださいね」
「はい」
聖樹宮とはこの広間のことで、聖樹は大木のことなのだろう。確かに、どちらも神聖な雰囲気を湛えている。繊細で崩れやすい、けれども力の漲った神聖な存在。
「クロエ。貴女は眠るときによく夢を見ますか?」
階段を登り続けたまま、王様が問いかける。
「多分」
答えると、王様は少しだけこちらを振り返った。そして続ける。
「聖樹宮はお嬢さんに夢を見せます。貴女の一番喜ぶ夢を……。貴女はその夢の中にい続けてもいいし、目覚めてバンシーたちと遊んでもいい。お好きなように、時間を忘れて過ごせるのですよ。……けれどまずは、夢を見ていただきましょう。とてもよい気分になりますから」
眠り。夢。
なんだかイメージの断片が頭に散って、少し気分が悪くなった。それを察したのか、王様は足を止めてわたしの額に手を当てる。
「どうやら過去が悪さをしているようです」
「過去?」
悪さをするような過去なんてあるだろうか。いまいちピンとこない。昔の自分の姿を見て、焦りや呵責に苛まれるということだろうか。なんだか曖昧だ。
「そうです。過去です。たとえば哀しい記憶や辛い記憶をふと思い出して胸が痛むことはありませんか?」
あるような、ないような。正直に首を傾げて見せると、王様はささやかな笑い声を漏らし、わたしの肩をポンポンと叩いた。
「あまり過去のことを気にしたって仕方がありません。貴女はこれから夢を見る。それが大事です。貴女の最も望む素晴らしい世界が、瞼の裏に広がっています。……それを夢だとか幻想だとか思わないでくださいね。いえ、現に夢なのですが、そこに没頭したほうがずっと気分がいいのです」
分かったような、分からないような。王様の言葉は飛躍しているので分かりづらい。
けれども「はい。没頭してみます」と答えたのは、ひとえに、彼の言葉に嘘を感じなかったからだ。王様は心の底から歓迎してくれて、バンシーたちの友達として居場所まで与えてくれた。そんな相手を疑うだなんて、随分と残酷な話ではないか。そういう苦しいものや汚いものはうんざりだ。
綺麗な景色に囲まれて、昏々と眠りたい。朝も昼もなく、ただひたすらに。なにもかも忘れて――。
「――」
声が聴こえたような気がして、思わず足を止めた。王様のものでも、バンシーのものでも、もちろんわたし自身のものでもない声。
誰だろう。誰かいるのだろうか。
「クロエ。おいでなさい」
「……はい」
促され、階段を登る。あれは空耳だろうか。誰かがわたしの名前を呼んだような気がしたのに。
「さあ、着きました。ここが貴女の寝室です。私はこの場所を、まどろみの揺り籠と呼んでいます」
木にぽっかりと空いた空洞を、あたかも小部屋のように誂えた場所だった。家具も床も天井もすべてが木目調で、白樺のような色合いをしている。
部屋の隅にはベッドがひとつ置いてある。紫色のテラテラした布団カバーがつけられていた。
「こちらの部屋でお休みになってください。ずっと歩いて来て疲れたでしょう」
「はい」
王様の前では、変な強がりや片意地など必要なかった。それは――。
あれ?
わたしはいつ片意地なんて張ったろうか。バンシーにだって素直に接していたし、今までわたしは孤独だった。強がるような相手なんていないじゃないか。けれども、この胸の実感はなんだろう。
頭の上に、柔らかい手が乗る。それはわたしの髪を優しく撫でつけた。
「聖樹宮は人間の土地とは時間の流れが異なります。きっと貴女は今、ありもしない記憶の断片や感情に心を揺さぶられているのでしょう。時間の流れが齟齬を生み出しているだけです。正常に戻るためにも、さあ、ベッドに入って目をつむってください。そして眠りに身を任せるのです」
なにも言わず、ベッドに潜り込んだ。するとすぐさま、まどろみが広がる。眠たくなんてなかったはずなのに、後頭部がぐぐぐっと無理やり暗闇に引きずり込まれていくような感じだ。ちょっぴり怖い。
不安を察したのか、王様は優しげに笑いかけた。
「怖がらなくて大丈夫ですよ。待っているのは素敵な夢です。貴女が一番喜ぶ、とっても素敵な夢……。怖いことなんてなにひとつありません。一度夢を潜り抜ければ、貴女の時間と聖樹宮の時間がぴったり一致して、今までよりもずっとしっくりと過ごせるでしょうね。もちろん、ずっと夢の中にいたってかまいません。私たちは決していなくなったりしませんから」
そう言い残して、王様は洞穴の入り口に戻っていった。そしてひと言、優しく告げる。
「クロエ――おやすみなさい」
まどろんだ頭に、王様の声が溶けていく。




