201.「森の中心へ」
バンシーに手を引かれ、森を歩いていた。頭はぼんやりとして、まともにものを考えることが出来ない。どうしてこんなことになっているのかもはっきりとしなかった。
「もう少しだから、頑張って歩いてね」
「疲れたら言ってね。休憩させてあげる」
「お腹減ってない?」
バンシーはどうしてか親身に話しかけてくる。魔物のくせに、なんだか優しい。親切な魔物など存在してたまるか、という拒否感はあったものの、それが行動となって表れることはなかった。彼女たちに引かれて歩くことは決して気分の悪いものではなかったからだ。むしろ心地よい。
「お姉さん、綺麗ね」
「あ、笑った」
「キュートな笑顔ね。素敵」
褒め上手な魔物。彼女たちの声を聴いていると足はどんどん軽くなっていく。知らない森を親切な存在に導かれていくなんて、まるで御伽噺のひと幕のようだった。
左右を見ると、木々の間に張りめぐらされた鏡蜘蛛の巣がわたしたちの姿を反射している。バンシーたちは下半身こそなかったが、一様に白銀の美しい髪をした美女だった。その表情は、思っていたよりずっと柔らかい。
こうして考えてみると、彼女たちは決して悪い存在ではないのかもしれない。固定観念から毛嫌いしていたが、正直に向き合えば分かり合えるのかも……。今もこうしてわたしを気遣ってくれてるし……。
「どこへ行くの?」
思い切ってたずねてみた。すると、バンシーは満面の笑みを浮かべる。
「やっと話しかけてくれた!」
「嬉しい!」
なんだ、彼女たちも返事がなくて寂しかったのか。喋るくらいならいくらでもしてあげるのに。
「今まで黙っててごめんね」
「いいの」
「お姉さんが怖がってるのは知ってたから」
「ちょっぴり寂しかったけど」
「でも、こうしてお喋り出来て嬉しい!」
木々は左右に立ち並んでいた。まるで街路樹のようである。地面は苔むしてはいたが、足を取られるほどの障害物はない。それどころか、道と呼んでいいくらい整っているように見えた。
「まるで街の通りみたい。左右に木が並んでて、真っ直ぐ道が続いてる……」
思ったままを口にすると、バンシーたちはクスクスと笑った。その声に嘲りや軽蔑、あるいは悪意など欠片も感じない。それどころか、子供の無邪気な言葉を楽しむような慈しみが籠っている。
「ここは森の大通りなの」
「危険な生き物なんていないのよ」
「そう、安全な場所」
「森の中心へ続く安全な道」
森の中心。そう考えて、首を傾げた。わたしはどうしてここに来たんだっけ?
なにか目的があったようにも思うけど、はっきりしない。思い出せないということは、つまり、大した用事ではないのだろう。
「お姉さんは森に迷い込んだの」
「ひとりぼっちで、キノコを取りに来たの」
キノコを取りに来た……あんまりしっくりとこない。けれど彼女たちが言うなら本当なのだろう。
「キノコを取りに来たなら家に帰らなきゃ……」
呟くと、バンシーは寂しそうに俯いた。どうしたのだろう。
「お姉さんは帰ってもひとりなのよ?」
「ひとりで森に来て」
「ひとりで家に帰る」
「ひとりの家で眠って」
「ひとりぼっちの朝を迎える」
「明日も明後日も」
「それが続く」
そうだった――かもしれない。けれど寂しさは確かに、心の奥深くにある。わたしはどうしようもなく傷付いていたはずだ。
ひとりきりなら、帰っても仕方がないのかも。
「お姉さんがあんまり寂しそうだから」
「私たちが友達になってあげたいの」
ぽつり、と心に波紋が広がった。
友達。その響きがなにか複雑な感情を呼び起こそうとしているようで、少し怖い。
「はじめての友達って嬉しいよね」
「けど、ちょっぴり怖いよね」
「でも、安心して」
「私たちずっとお姉さんと一緒にいてあげる」
「楽しいときも」
「哀しいときも」
「全部一緒」
「それってとっても素敵じゃない?」
ふわり、と心が軽くなる。彼女たちの言葉は不思議な力を持っていた。心のなかに温かな風が吹き、すっ、と楽になる。満たされる気持ちって、こんな感じなんだろうな。
「うん。素敵」
バンシーは微笑み、彼女たちのひとりはわたしに抱きついた。
「お姉さん大好き」
「可愛い」
「今日から大事なお友達」
「よろしくね」
満足感が胸に広がる。彼女たちと一緒なら大丈夫だ。きっとなにがあったって素敵に生きていける。
「よろしくね」
バンシーたちは嬉しいのか、わたしの手を握ってぶんぶんと振った。その様子が喜びを表現しているようで、こっちまで嬉しくなる。友達が嬉しいと自分も嬉しい。当たり前のことなんだろうけど、新鮮だ。
遥か前方に薄明かりが見えた。ぽつりぽつりと、ランプのように灯っている。光はどんどん増えていき、やがてそれがなんなのかを理解して足が止まった。
「わぁ」
思わず感嘆の声が漏れる。バンシーはこちらの歩調に合わせて、ふわふわと空中に静止した。
「凄いでしょ!」
「森の灯り」
「祈りの青」
「これがあるのは森の中心近くだけなの」
木々の枝葉から、ほんのり光る小さな球が下がっていた。その光は青だったり、紫だったり、黄だったりと様々だったが、どれも幻想的な雰囲気を醸し出している。
「素敵……」
無意識に口からこぼれる。こんな素直に感動したのは久しぶりの気がする。これまでずっとひとりだったなら、それも自然かもしれない。誰かと一緒にいてはじめて感動が、濃く強くなるのだろう。
……あれ? どうしてこんな達観した気持ちになるんだろう? ずっと昔はひとりじゃなかったのかしら?
「それじゃ、行こう」
「この先はもっと綺麗な景色があるの」
「お姉さんのびっくりする顔、好きよ」
バンシーに手を引かれ、歩みを再開する。思考は中断されたが別になんてことはない。過去のことは過去のこと。今はひとりぼっちじゃなくなったということが一番大事だ。
友達。その言葉が胸に温かさをくれる。
嬉しいなぁ。これからはひとりじゃない。
やがて左右の木々が途切れた。森の広間――そんなふうに表現できるだろう。その光景に目を奪われて、またも足を止めた。バンシーも合わせて止まってくれる。
水音に満たされた空間。頭上は濃い枝葉に覆われ、空は少しも見えない。けれど、暗闇とは程遠い景色だ。樹上から下がる球状の灯りはそのままに、地面にはところどころキノコが生えている。それが七色に光っているのだから不思議だ。
広間の中心にはとりわけ巨大な樹が、遥か上まで伸びていた。その樹を覆うように、光の粒が舞っている。
「あれは光る虫さん」
「ここにしかいないの」
「地面に生えてるのは光るキノコさん」
「ここにしかないの」
「さあ、行きましょう」
手を引かれて一歩踏み出すと、足元で水音がして冷たい感触が広がった。
「お姉さん、おっちょこちょいね」
「そういうところも好き」
「好きだらけ」
「ほら、横の地面を踏んで」
巨木の周りは地面が少しばかり高くなっており、それを囲むように浅い池が広がっていた。池のあちこちに足場のような地面があり、それを踏んで広間の中心へ行けるようだった。
バンシーに導かれるまま、足場をたどる。
「わっ」
広間の中心にたどり着いたとき、思わず声が出た。踏んだ地面がほんのりと黄緑色に光ったのだ。バンシーはこちらの反応を楽しむようにクスクスと笑う。
「光る苔よ」
「ここにしかないの」
「お姉さんの反応、面白い」
「素敵」
「だーい好き」
間近で見ると、巨木はかなりの迫力だった。何年かかってここまで成長したんだろう。そして、全体的に光を帯びている。その光の正体がなんなのか、知っているような気もしたが答えは出なかった。
ふと巨木の根元に目をやると、そこに扉がついていることに気付いた。よく観察すると、扉のほかにも簡単な梯子や、樹をぐるりとめぐる木製の螺旋階段までついている。
「なんだか家みたい……」
それも、オシャレで豪華なやつ。
「そうなの、家なの」
「私たちの家」
「帰る場所」
「そして」
「王様の家」
「そして」
「これからあなたの家になるの」
わたしの家になる?
それと、王様ってなんだろう。
湧いた疑問の答えが、彼女たちの口から紡がれることはなかった。その代わり、巨木に取り付けられた扉が開かれる。
荘厳な軋みとともに姿を現したのは、碧のローブを羽織った、背の高い男だった。頭には花の冠。老人のようにも、若者のようにも、女性のようにも、男性のようにも見える。不思議だ……。その顔が中性的で、身体の線もなんとなく柔らかく見えるのでそう感じたのだろう。しっとりと豊かな長髪は、バンシーたちと同様に白銀の色をしていた。
「さあ」とバンシーはわたしの背をそっと押した。「王様にご挨拶しましょう」
発言や単語が不明な部分は『第六話「鏡の森」』をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最終部に載せておりますのでそちらも是非。




