200.「暗がりに白い影」
ただでさえ厄介なバンシー。そいつが他の魔術師を間近で観察して知識を深めたのなら、『鏡の森』の進行は随分と困難になるだろう。
バンシーを含め、知能のある魔物は絶対に討ち漏らすなというのが戦闘の常識である。連中は学習するのだ。
ここのバンシーはどのくらいの時間、生き残ってきたのだろう。何年もの間、追放された魔術師を惑わしてきたのならとんでもない猛者だ。
「魔術に理解のある魔物ですか……面倒ですね」
ヨハンは心底うんざりした口調で呟く。そう感じて当然だ。本来は夜中に出現するバンシーが、薄暗い森とはいえこうして昼間に出現し、なおかつ魔術師から技術を吸収しているなんて……どれだけ脅威か、容易に想像がつく。
「アリス……ノックスに防御魔術をかけて頂戴」
「そうだねぇ……。『関所』でかけた魔術じゃ突破されちまうから――」
言って、アリスはノックスの肩に手を触れた。すると、彼の身体が魔力の膜で覆われる。
「なにをしたの?」
「大したことじゃないさ。呪力の球くらいなら防げる膜を張っただけ。これなら叫ばれても大きな影響はないだろうね。ただし――」
アリスはしゃがみ込んで目線をノックスと合わせる。そして警告するように続けた。「油断するんじゃないよ。足取り蔦や爆弾胞子からは身を守ってくれないからね」
きょとんと頷くノックスが少し不安だ。理解していればいいのだが……。
バンシーの気配はいまだにぼんやりとしている。距離を正確に掴むことが出来ない。位置を特定されないように意図して動いているのだろう。
「進みましょう。時間がもったいないわ」
「そうですね……夜になればバンシーに加えてグールや子鬼が出るかもしれませんし」
ヨハンの言葉通り、今はまだ安全なほうなのだ。夜になれば他の魔物も発生する。それに、視界は今以上に悪くなり、足取り蔦や爆弾胞子に引っかかる懸念がぐっと高まるだろう。
神経を尖らせて歩いていると、バンシーの気配が強まった。まだ正確に感知することは出来ないが、かなり接近されているだろう。それも、四方八方から気配を感じる。
「近いわ」
ぼそり、と注意を促した。アリスはいつでも発砲出来るよう、両手にそれぞれ魔銃を持っている。ヨハンはナイフを手にしていたが、おそらく出番はないだろう。むざむざ接近を許す相手とは思えない。
気配はどんどん近付いて来る。
不意に、前を歩くアリスとの間に白く小さい影が落ちてきた。ちょうど拳ほどの大きさのなにか。
その物体が地面に落下した瞬間――。
閃光と衝撃。土埃が舞い、足を掴まれるような感触を覚えた。そして身体が宙に浮く。
「この……!」
足首を掴んだ蔦を斬った際に、わたしと同様に宙に浮いたアリスの姿が見えた。
「アリス!!」
発砲音が響き、彼女の足に絡んだ蔦が弾け飛ぶ。直後、アリスは威圧するようにこちらを睨んだ。
着地しても、彼女は苛立ちの籠った目付きでこちらを睨んでいる。――そういえば、彼女は心配や警告がなによりも嫌いなんだ。忘れてた。
土埃が少しずつ収まっていく。それにつれて、ぞわぞわと悪寒が広がった。
ノックスがいない。
「ノックス!!」
そしてヨハンの姿もなかった。もしや足取り蔦に掴まってすでに本体の中へ……。
「いやはや、まいりましたな」
ヨハンの声が木々の先の暗がりから聴こえた。声の方向から、ぼんやりと魔物の気配がする。ヨハンが交戦しているなら助けに行くべきだろう。彼と一緒にノックスがいるかもしれない。
駆けるわたしの後ろからアリスの叫びが聴こえた。「お嬢ちゃん!」
「アリスは待ってて!」
暗がりの先に、ヨハンの姿が見えた。こちらに背を向けている。草を分け、足を速めた。あと少し。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
――どうしてヨハンはこちらに背を向けたままなのだろう?
不審に思って足をゆるめようとした瞬間、地面の感触が消えた。そして、視界が落ちていく。わたしの目に映ったのは、浮かぶ布きれと異様に白い手と顔――。
騙された、と思ったときには手遅れだった。動転していたとはいえ、これほど接近してもバンシー位置を正確に読み取れないとは思っていなかったのだ。
やがて全身に鈍い衝撃が広がった。痺れと痛みが伝播し、呼吸が出来なくなる。ただ、それも一瞬のことだった。
なんとか集中力を保って立ち上がる。傷も痛みも大したことはない。見上げると、先ほどのバンシーは消えていた。
崖になった箇所で足を滑らせて落ちたのだろう。それほどの高さではない。戻ろうと思えばさして苦労はしないはずだ。
失態をさらしている場合ではない。早く戻らなきゃ――。
足を踏み出すと、下草に隠れるように横たわる人影に気が付いた。それは小さく、白の髪をしていて――。
「ノックス!!」
駆け寄ろうとして、はたと足が止まる。
あれは本物だろうか。もしかすると、また騙されているのではないか。相手が巧妙に気配を消すことが出来て、なおかつ変装の呪術を使えるとしたら……。
サーベルを握り直したわたしの耳元で、囁きが聴こえた。
「鋭いのねぇ、お姉さん」
咄嗟にそちらを向くと、宙に浮いたバンシーがいた。よく周囲を見回すと、五体のバンシーがそれぞれ距離を置いて浮かんでいる。いつの間に囲まれていたのか、まったく気が付かなかった。
警戒はしていたはずだ。『鏡の森』のバンシーは今まで討伐してきたそれとは決定的に違う。そう言い聞かせていたつもりだった。なのにこうして囲まれているということは、連中がこちらの想定を遥かに超えているということだろう。気配の消し方を熟知し、精神的な揺さぶり方もお手のもの……。
敵はサーベルの有効範囲を知っているのか、一定の距離を保って浮かんでいる。崖を足場にして三角跳びをしても刃は届かないだろう。
「お姉さん、その坊やは助けなくていいの?」
さも心配そうなバンシーの呟きが聴こえた。一瞥すると、ノックスらしき姿は相変わらず倒れたままだ。
「その子、崖から落ちちゃったの。助けてあげてよ」
その声に惑わされてはいけない。バンシーが口にすることはすべて真逆の意味に捉えるのが常識だ。
けれど……。
焦りが心に広がる。この森のバンシーは特殊だ。言葉に真実を織り交ぜて揺さぶってくることも充分に考えられる。しかし、わざわざノックスを助けるように言うだろうか。なんのために? 連中に得なんてあるのか?
「お姉さん。私たちは嘘つきだけど、たまには本当のことも言うのよ」
「その子は私たちがポンポンを落としたときに」
「ポンポンっていうのは、お姉さんたちが言う爆弾胞子のことよ」
「そう。ポンポンを落とした衝撃で崖まで飛んじゃったの」
「そこまでするつもりなんてなかった」
「心が痛むわ」
「早く助けてあげて」
「早く」
「早く」
「早く」
バンシーは口々に言葉を紡ぐ。まるで悪い夢だ。連中が爆弾胞子を落下させてわたしたちを吹き飛ばしたのなら、ノックスがここに倒れていてもおかしくはない。けれど、奴らの言葉を信じる気には――。
「「「「「死んじゃうよ?」」」」」
五体のバンシーの声が重なった。
……決して連中の言葉に惑わされたわけではない。倒れた人影が本当にノックスだとしたら、手当てをしないとまずいと思っただけだ。その上で騙されるのならやむを得ない……。
しゃがみ込んでノックスを見つめる。恐る恐る脈を取ると、背が凍った。口元に手をかざし、心臓に耳を当てる。
心臓は停止し、息はない。身体は冷たく、唇は青かった。
ほんの小さな鼓動でもいい。
彼の心臓に耳を押し当てたまま涙を流した。
――刹那。
「お姉さん、とっても優しいのね」
ぎょっとして身を起こすとノックスの姿は消え、目の前にはバンシーの顔があった。そして――急激に魔物の気配が強くなる。目の前の一体と、急接近した五体のバンシー。
サーベルを振る余裕はなかった。
耳元で身体を裂くような六重の絶叫がして、周囲の景色ががたがたと歪む。
そして、なにもかも分からなくなった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『グール』→一般的な魔物。鋭い爪で人を襲う。詳しくは『8.「月夜の丘と魔物討伐」』にて
・『子鬼』→集団で行動する小型魔物。狂暴。詳しくは『29.「夜をゆく鬼」』にて
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて




