199.「真昼の森のバンシー」
足取り蔦について話すアリスの声が蘇る。蔦に触れれば絡め取られ、溶解液に満たされた本体にドボン……。
油断していたつもりはなかったが、こうして宙吊りになったということはそういうことだろう。冗談じゃない。溶かされてたまるか。腰のサーベルを抜き放ち、足元に絡みついた蔦を斬り付けた。
確かな手応えののち、地面が近付く。
あ、と思ったときには背をしたたかに打ち付けていた。
「馬鹿だねぇ、クロエお嬢ちゃん。あんた、そんなんでよく騎士を名乗れるじゃないか」
「うるさい……少し油断しただけよ」
くそう。身体の痛みはそれほどでもなく、すぐに立ち上がれたがさすがに恥ずかしい。アリスに注意されたばかりだというのにこうして醜態をさらすとは……。
「着地点に爆弾胞子がなくて良かったですね」とヨハンはニヤニヤと追撃する。彼の言う通り、爆弾胞子があれば背骨に深刻な傷を負ったに違いない。
気を引きしめていたつもりでも、ふとした瞬間に抜けてしまっている。四六時中気を張っているわけにもいかないが、せめてなにかあったときには冷静に対処出来るようにしなければ。
心配そうにこちらを見つめるノックスに「平気よ」と投げかける。
「あんまり悠長に過ごしている余裕はないですよ。さあ、行きましょう」
先を急かすヨハンに頷きかけ、わたしたちは歩を進めた。魔樹の発見は衝撃的だったが、それに気を奪われているようじゃ先が思いやられる。集中しなければ。
森は相変わらず巨木が続いていた。踏みしめる地面は柔らかく、苔むしている。足元に蔦が這っていないか気を付けて見てはいたが、万が一のことを考えてノックスの手を握った。
「お。爆弾胞子がありますね」とヨハンが声を上げる。
見ると、木々の根元にぽつぽつと白い球のような物体があった。球状のキノコ――つまりは爆弾胞子である。うっかり衝撃を与えれば破裂音とともに吹き飛ばされることだろう。
「見た目は可愛いのにね……」
ぼそりと呟くと、アリスが短く笑った。「見た目なんて飾りさ。案外、見た目のいい奴のほうが厄介だったりするからねぇ」
確かに、彼女の言う通りだ。森に自生する植物は特にその傾向が強い。そして人間もまた、同じようなものだろう。可愛らしいドレスを着た奴は特に警戒が必要だ。『白兎』しかり、ルイーザしかり……。
「あ」
思わず声を上げると、ヨハンが振り向いた。「今度はなにを見つけたんです?」
前方にそびえる一本の木を指さす。「また魔樹がある……こんなにたくさん自生してるなんて、すごい……」
ただでさえ希少とされる魔樹が、一時間経たずに再び姿を現すなんて異様である。もしや同じ道をぐるぐると回っているのかと訝ったが、周囲の景色は異なっていた。すると、本当に複数の魔樹があるのだろう。『鏡の森』おそるべし。
「随分と嬉しそうだけど、お嬢ちゃんは植物博士なのかい?」
「多分違いますよ。知ってる物を見つけたんではしゃいでるだけでしょうなぁ」
勝手放題喋る二人の声を聴いて、思わずため息が漏れる。失敬な。
「はしゃいでなんかいないわ。珍しい物を見つけたから驚いただけ。……王都から出たことがなかったから、本で読んだ知識を目の当たりにする機会がなかったのよ」
「へぇ。勉強熱心だったんだねぇ」とアリスが気のなさそうに返す。
「あんまり無駄口を叩いていると、また足を取られますよ。坊ちゃんを見倣ってください」とヨハンが釘を刺す。
話しながらも意識は足元に向けていたから油断はないのだが、彼の言葉に従うべきだろう。どんな存在がわたしたちの声を聴いているか分からない。これだけ深い森だ、もしかすると人の声や物音に寄せられる獣がいたっておかしくないではないか。
不意に、背が凍り付くような感覚に襲われた。先ほどの落下による後遺症などではない。
何度も味わった感覚である。慣れ親しんだ警戒のシグナル。
「気をつけて……魔物の気配がする」
ヨハンが真剣な口調で返す。「場所と距離は分かりますか?」
「いえ、分からないわ。だけど、そう遠くないはず。……多分バンシーよ」
バンシーの気配は特徴がある。グールより巧妙に隠された気配だからこそ、距離や方角は近寄らなければ分からない。そして敵の数も同様に、接近を許してはじめて把握出来る。突然現れたというよりも、こちらが気配を感じ取れる範囲にバンシーが入ったのだろう。察知範囲はそのときどきの体調次第ではあったが、おおむね二百メートル前後といったところか。
しかし、妙だ。
「昼間に現れるバンシーなんて聞いたことがある?」
問いかけると、ヨハンは首を横に振った。「いえ、夜に出現するとばかり思っていました。『鏡の森』のバンシーは特殊なんでしょうか?」
「そうなんでしょうね……きっと。周りに注意して進みましょう」
アリスが魔銃を抜いた。それに倣い、わたしもサーベルを抜刀する。片手はノックスと繋いだままだ。
進んでも気配は読み切れない。強くなったり弱くなったり、落ち着きがなかった。バンシーが気配を押し殺そうとしているのだろう。その結果、こちらの察知にも大きな影響が出ているのだ。正確に感知出来るのは、視認出来るほど近付いてからになるかもしれない。
今はバンシーに気をつけなければならないが、同時に、足元への注意をおろそかにするわけにはいかない。爆弾胞子や足取り蔦といった危険が潜んでいるのだから。想像した以上に、森での戦闘は困難だろう。
目前に魔力が視え、思わず身構えたが魔樹だった。こんな近距離に三本も魔樹があるなんて……。
直後、ぞわりと悪寒が広がった。バンシーの気配が急に濃くなったのだ。
「近いわ……! 気を付けて」
声を抑えて注意を促す。こちらの連携次第のところもあったが、言葉を介した作戦は却って危険だろう。バンシーは人語を解する。つまり、声に出してしまえばなにもかも筒抜けになってしまうのだ。
不意に、魔樹の魔力が大きくなった。
――いや、違う。あれは……。
「――!」
なにか来る。そう叫ぼうとしたときには遅かった。魔樹の裏から呪力球が放たれたのである。密度の高い呪力の塊が、曲線を描いてこちらへと接近する。
ノックスを背後に隠し、サーベルを振るう。速度も重さも大したことはない。ヨハンとアリスは、それぞれ接近する呪力球をかわした。
ふ、っと気配が遠ざかる。どうやらバンシーはこちらに姿を見せる気がないらしい。ああやって不意打ちを繰り返して消耗させる作戦なのだろう。本当に狡猾だ。
魔樹を隠れ蓑にするそのアイデアは、連中が編み出したのだろうか。確かに有効な戦術である。魔力と呪力は便宜的な区別であり、質としては見分けがつかない。だからこそ、呪力球を準備する際の呪力の高まりや集中が、魔樹に宿る魔力によって隠されてしまう。
こちらが魔力を察知出来る前提の作戦――そう考えて、ぞっとした。
「ここにいるバンシーは、普通の敵だと思わないほうがいいわね」
思わず呟くと、アリスとヨハンが怪訝そうにこちらを見つめた。
「王都からの追放者が『鏡の森』にたどり着けたなら、バンシーとも遭遇したはずよ。追放される人間のなかには特別な技術や強力な魔術を持っている者もいる……。そんな存在を相手にしてきたのなら、ここのバンシーは魔術に関してかなり理解があるでしょうね」
経験を積んだ魔物。サーベルを握る手に力が入った。バンシーの持つ狡猾さが、魔術師との戦闘によってさらに磨かれたとすると、とんでもなく厄介な相手となる……。
遠ざかっては、曖昧に距離を保つバンシーの気配。奴らを討伐するなら、こちらも相応の対策を打たなければならないだろう。まるで熟練の魔術師を相手にするかのように……。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『魔銃』→魔力を籠めた弾丸を発射出来る魔具。通常、魔術師は魔具を使用出来ないが、魔銃(大別すると魔砲)は例外的使用出来る。アリスが所有。詳しくは『33.「狂弾のアリス」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『白兎』→ハルキゲニアの元騎士。魔術師。本名はルカ。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』『164.「ふりふり」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。エリザベートの娘。詳しくは『幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」』参照
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』




