198.「足取り蔦と魔樹」
ノックスの頭を撫でつつ思う。星を読んで方位を導くような技術を一体どこで手に入れたのだろう、と。
「どこで天文学なんて習ったの?」
聞くと、ノックスは首を傾げた。「天文学……?」
馴染みがない言葉なのだろう。これまで体系的な学習機会に恵まれなかったのが分かる。
「えーと……星を見て方角を判断したりすることよ」
かなり大雑把だったが、これ以上の上手い説明を思いつかなかった。ノックスはそれで得心がいったのか、ぽつりと答える。
「ずっと空を見上げてたから」
断片的な言葉。けれど、彼の境遇と照らし合わせればなんとなく想像出来た。誰からも正当な扱いを受けず、ひとりぼっちで空を見上げる時間が多かったということだろう。そのうちに、星と方位の関係性を呑み込んだというわけだ。
簡単なことではない。星の位置関係や時期による変化、月と太陽の周期を誰に教わるわけでもなく理解するなんて……きっと膨大な時間な必要だ。少し眩暈がした。
彼の悲劇的な人生から萌芽しているからこそ、それを才能や努力という通り一遍の言葉で讃えることが出来なかった。
そんなわたしのモヤモヤを、アリスは一気に飛び越える。
「坊やならすぐに魔術を覚えられるよ。それだけの才能があれば楽勝さ」
彼女のまるきり無責任な台詞に呆れたが、こくりと頷くノックスを否定する気にはなれなかった。
「そういえばアリスさん。『鏡の森』には他にどんな動植物が生息しているんですか? 我々が知ってるのは爆弾胞子くらいのものでさぁ……」
そうだ。この森についてもっと知っておく必要がある。アリスの知る限りの知識を共有すれば、今後の進み方も変わってくるかもしれないのだ。
「そうさねぇ……。あたしが知ってるのは足取り蔦くらいのものよ」
「足取り蔦?」
あまり馴染みがない名前である。王都の書物に記載があっただろうか。
アリスは得意気に頷いて、笑みを浮かべた。「お嬢ちゃんは知らないのかい?」
「わたしだってなにもかも知ってるわけじゃないわ。足取り蔦がなんなのか教えて頂戴」
「しょうがないねぇ……。足取り蔦は肉食の植物さ。地面に蔦を垂らしていてね、それに触れた動物を絡め取るのさ。ちょうど足払いみたいにね。……本体が壺みたいになっていて、そこに獲物を放り込むってわけ。中は溶解液の池って話だよ」
随分とバイオレンスな生態だ。
「まるで魔物ね」
率直に言うと、アリスは不敵な笑みを浮かべた。「魔物よりはずっとマシさ。……ここいらはバンシーが出るって噂だよ」
バンシー。その名を聞いてげんなりした。呪力を操る小型の魔物である。使用する呪術は二つ。呪力球と、平衡感覚を奪う叫びの呪術である。連中は複数体で行動するのが一般的だった。見た目は宙に浮くローブ、細く白い腕、そして同じくらい白い女性の顔である。常に空中浮遊しているので、わたしのように武器一本で戦うタイプにとっては厄介な敵だった。
「バンシーですか……面倒ですね」とヨハンはぼそりと呟く。
「ええ、本当に……。アリスはバンシーを討伐したことはある?」
彼女は気のなさそうに頷いた。「一度だけね。……腹の立つ相手だよ」
彼女の気持ちはよく理解出来る。呪力球と叫びだけでも面倒なのだが、それにも増して嫌なのは奴らの知能である。人語を解し、それを用いてこちらを騙そうとするのだ。王都にもたくさんの逸話が残されている。助けを叫ぶ女性の悲鳴がして駆けつけるとバンシーだった、なんてのは可愛いほうである。なかには人質を取られて不利な交渉に応じるほかなかった例もある。ラーミア同様、頭が回る魔物は総じて卑劣な手段を駆使するのだ。
「あまりのんびりしていられませんね。夜が来る前に森を抜ける必要がありそうです」
立ち上がったヨハンに続いて、さらに北へと進む。
森はすっかり様相を変えていた。それまでは木々が密集する道なき道を進んでいたのだが、深くなるにつれて木々は巨大になっていった。巨木と巨木の間が空いているので歩きやすくはあったが、その分、空を覆う枝葉は濃い。夜の手前のような薄暗さだった。
「ところでアリスは、どうして『鏡の森』のことを詳しく知ってるの?」
先を歩く彼女は、こちらを一瞥して前に向き直った。そして沈黙している。
少しばかり逡巡した様子だったが、結局はぽつりと答えてくれた。
「レオネルに聞いたのさ。あれはなんでも知ってたからね」
老魔術師の背が記憶に蘇る。ハルキゲニアで命を落とした賢明な魔術師。アリスは彼の弟子だったとドレンテから聞いている。師を亡くした哀しみは、その胸中に澱となって積もっているのだろう。
だからこそ、わざと素っ気なく返した。「そう。……確かになんでも知ってそうだったものね」
ハルキゲニアの悲劇。その傷痕はまだ癒えていない。魔術都市で生まれ育ったアリスにとっては、まだ生々しい痛みが残っていることだろう。
「無駄話は終わりだよ、お嬢ちゃん」
言って、アリスは右前方を指さした。そちらを見ると、鏡蜘蛛の巣がある。
「鏡蜘蛛ね」
アリスは短く首を横に振った。「巣の下に、ちょこっとだけ出ている植物があるだろう? ブヨブヨしたやつ。あれが足取り蔦の本体よ」
よく見ると鏡蜘蛛の巣によって反射していない下部に、心持ち身体を覗かせている黄緑の物体がある。壺のお尻の部分に似ていた。あれが足取り蔦の本体なのだとしたら、随分と巧妙に出来ている。
「足取り蔦の本体は虫を寄せるフェロモンを出してるらしいよ。だからああやって、鏡蜘蛛もおこぼれに預かろうとしてるわけ」
別種の存在がこうして共生しているのを目の当たりにすると、さすがにしたたかさを感じた。虫や小動物にとってはかなり過酷な環境だろう。
「本体があるってことは蔦もあるだろうから、気を付けな」
「斬れば問題ないでしょう?」
「……余計な体力を使いたいならそれでいいさ」
アリスが呆れたように言う。いざとなったら蔦を切断すれば大丈夫だろうけど、彼女の言う通り、体力は充分に残しておいたほうがいい。素直に忠告に従って、地面に注意しつつ進んだ。
ふと辺りを見ると、妙なことに気が付いた。巨木の一本が異様に輝いているのだ。それはわたしのよく知る光で、ヨハンやアリス、そしてノックスの身の内にあるものと瓜二つである。
「どうかしましたか?」
怪訝そうにヨハンは言う。立ち止まって木を見つめるわたしを不審に思ったのだろう。彼を一瞥して、それからまた木へ視線を戻した。
「すごい……これ、魔樹よ」
ヨハンは感心したように「ほう」と声を上げる。
魔力の宿った樹木は、魔樹と呼ばれていた。木の品種に関わらずそれは発生する。どういった発生理由なのかも解明されておらず、植林して増やすことも出来ないらしい。未知の部分がほとんどだった。その多くは切り倒され、魔具の核となる部分に使用される。大変貴重な品――そんなふうに、どの書物でも希少性を表す文言が使われていた。
自然に生えている魔樹を目にしたのはこれがはじめてである。こうして見ると、なんとも奇妙な存在だ。周囲の木々となにも変わらない見た目なのに、魔力だけが溢れんばかりに宿っている。
「削って持っていきましょうか?」とヨハンは冗談っぽく言った。
「駄目よ。どんな影響があるか知れたものじゃないんだから」
「まあ、それもそうですね」と彼は肩を竦める。もしかすると本気で削りたかったのかもしれない。魔樹の力が失われなければ、きっと高額で取引が出来るだろう。そんな功利的な考えで、神秘的な存在を傷付けるのはどうかと思う。
「魔樹ねぇ」とアリスの素っ気ない声が聴こえた。
その瞬間である。
視界が急激に揺れ、世界が逆さまになった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。防御魔術の使い手。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』
・『爆弾胞子』→森に生える菌糸類の一種。衝撃を与えると爆発する。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。
・『ハルキゲニア』→『最果て』地方の北端に位置する都市。昔から魔術が盛んだった。別名、魔術都市。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア」』にて
・『呪力』→魔物の持つ魔力を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『呪術』→魔物の使う魔術を便宜的に名付けたもの。質的な差異はない。初出は『4.「剣を振るえ」』
・『ラーミア』→半人半蛇の魔物。知能の高い種。『86.「魔力の奔流」』に登場




