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197.「鏡の森」

 船を降りて船頭(せんどう)に別れを告げた。彼は心配そうにいつまでもこちらを見つめていたが、決して引きとめることはしなかった。わたしの目的に関してはドレンテから聞きおよんでいるのだろう。過酷だから引き返すなんて選択肢は存在しないのだ。


 桟橋(さんばし)を渡り、ようやく地面を踏みしめる。肺いっぱいに吸い込む空気は、潮の香りと草の匂いに満ちていた。


「いよいよですね」


 ヨハンに言われて海峡(かいきょう)を振り向くと、ちょうど船が去っていくところだった。軌道(きどう)に残った白波が鮮やかに()える。


「もう後戻りは出来ないわよ」


 誰にともなく呟くと、「うん」とノックスは返し、「戻るつもりなんてないわ」とアリスは挑発的に笑った。それぞれ目的は異なるだろうけど、進むつもりでここまで来たのだ。それを承知していても、やっぱり(たくま)しいと感じてしまう。


「さて、どう進みますかね」とヨハンは前方に立ちはだかる森を見据(みす)えた。


「アリスは『鏡の森』についてどこまで知ってるの?」


 聞くと、彼女は短く答えた。「危険な場所ってことくらいさ」


 そんなことは百も承知である。わざわざ言われるまでもない。「それ以上のことはドレンテさんから聞いてないのね?」


「ああ、そうさ。こうして森に入ることなんてありえないことだからねぇ」


 それもそうか。いかに危険な場所であろうとも、こうして海峡に(はば)まれていれば易々(やすやす)とたどり着くことは出来ない。危険だから行ってはいけない、と教えるだけで充分だろう。


「今はちょうど真昼ですか。夜までには森を抜けられますかねぇ」


 ヨハンはぼそりと呟く。


「そうね……。少し難しいかも。岩山がかなりに遠くに見えるから、直進してもぎりぎりなんじゃないかしら? そう上手くいくとも考えられないし、ひと晩は森で過ごすことになるかもしれないわ……」


 不安になってノックスを見下ろすと、彼の顔には(おび)えなど少しも表れていなかった。いつもの無表情。もし夜の森で魔物との戦闘になったら、全力で守り抜こう。


「お嬢ちゃんは心配性だねぇ。坊やのことは安心しなよ。あたしの魔術でなんとかしてやるからさ」


「本当!?」


 アリスの手を取って感謝を伝えたいくらいの気持ちだった。彼女の防御魔術なら、ノックスを守りつつ戦うのも随分(ずいぶん)とハードルが下がる。多少厄介な相手でもなんとかなるだろう。


 アリスはこちらの勢いに()されたのか、困り顔を浮かべた。「本当さ。けど、あんたのことは助けないからね。自分でなんとかするんだよ」


「もちろんよ。助かるわ。ありがとう、アリス」


 はじめはアリスの同行に関して不安だらけだったが、こうして考えてみると心強い。ヨハンに(あつか)えるであろう魔術は怪しげな隠密系のものばかりだったので、防御魔術がどれほどありがたいか……。


 アリスは顔を(ゆが)めて、ぐしゃぐしゃと自分の髪を乱した。「調子狂うわ。あんたは一時的な協力者なだけだし、あんまり感謝するんじゃないよ。……それで見逃してもらえると思ってるなら甘いからねぇ」


「分かってるわ」


 決闘の約束は決して消えないということだろう。反故(ほご)にしてくれると一番なのだが、彼女の執着が簡単に収まるとは思えない。


「ほら、いつまでも立ち話をしていると陽が暮れてしまいます。出発しますよ。ひとまずは森を真っ直ぐ進みましょう。……一度入ると岩山を確認出来なくなるかもしれませんので、方向感覚を失わないように気を付けてください」


 (うなず)いて、ノックスの手を握る。「行きましょう」


 彼も手を握り返した。そこに震えはない――今のところは、だ。これから先どうなるかは分からない。もし彼が恐怖によって混乱することがあれば、そのときはわたしがなんとかしてやらなきゃ。


 そしてわたしたちは森に足を踏み入れた。




 数歩進んだだけで辺りは薄暗闇に包まれた。名も知らない木々が立ち並び、鬱蒼(うっそう)とした枝葉で空を(おお)ってしまっている。青々とした香りと、(かび)のような(にお)いが周囲にただよっていた。


「なんで『鏡の森』って言うのかしら」


 沈黙に耐えかねて呟くと、前を歩くアリスが振り向いて得意気に答えた。「鏡蜘蛛(かがみぐも)がうようよしてやがるからさ。そこらじゅうに巣を張るもんだから、あちこち反射してまるで鏡の迷路ってわけ」


「ふうん。鏡蜘蛛ねえ」


 王都の書物で鏡蜘蛛の項目を読んだことがあった。半透明な身体を持つ蜘蛛だ。木々の間や枝に巣を張るのだが、糸と糸の間に特殊な(まく)があり、それがちょうど鏡のように景色を反射するのだ。交尾のために同族を求める羽虫(はむし)が、鏡に映る自分を仲間だと思って近付くのである。いざ感動の出会い、という瞬間にべったりと巣に張り付いて鏡蜘蛛の餌食(えじき)となるのだ。人間にとっては道に迷う程度の影響しかない。


「……そういえばアリス。さっきは『鏡の森』についてほとんど知らないような口振りだったじゃない。鏡蜘蛛のことをどうして黙ってたのよ?」


「お嬢ちゃんが鏡蜘蛛の巣に引っかかるような間抜けなら話してたけどね。そうじゃないだろう?」


「そのつもりだけど、知ってることは教えてくれてもいいじゃない」


 アリスはクスクスと笑って前を向いた。まったく……。


 やがて森の左右に、わたしたちの姿が反射した。鏡蜘蛛の巣があるのだろう。ノックスはまじまじとそれを見つめながら歩いている。ちょっぴり不安になって彼の手を握り直した。


「離れちゃ駄目だからね」


「うん」


 返事は素直なのだが、どうにも不安が晴れない。それもそのはずで、今までノックスとたどってきた道は街道や町や村であり、道なき道を進んだことなんてほとんどないのだ。


 先を歩いていたはずのヨハンが、いつの間にかペースを落として隣に並んだ。そして一瞥(いちべつ)ののち、ぼそりと呟く。「ビクターの手記について覚えていますか?」


「ええ」


 そこに(しる)されていた内容はしっかりと頭に入っている。確か手記のなかでは、『鏡の森』を数時間歩き続けたあとでメアリーの体調に変化が表れたのだ。それ以降は、森を離れようとすればするほど容体(ようだい)が悪化していき、森を抜ける(ころ)には命を失った。


「なにが起こっていたか、私にも把握しきれません。……同じ状況が繰り返されるかもしれませんので、変化があればそれがどのようなものであれ、包み隠さず教えてください」


 彼の口調は普段とは打って変わって真剣だった。メアリーの変調について、ヨハンも見当がつかないのだろう。だからこそ未知の病を恐れているのだ。


 ノックスの小さな手をぎゅっと握りしめる。もし彼に症状が出たらどうすればいいだろう。森の中で解決策を探るしかないかもしれない。手記によると、森を進みさえしなければ症状は悪化しないとの話だった。


「ノックス、喉(かわ)いてない?」


「大丈夫」


「なにかあったらすぐに言いなさいね」


 頷くノックスを見ていたのか、アリスはため息()じりの笑いを漏らした。「過保護な騎士様だねぇ……」


 いいじゃないか、別に過保護だって。今はそれだけの状況なんだ。




 やがて開けた場所に出ると、ヨハンが休憩を申し出た。余裕な様子を(たも)ちつつ、仕方がないといった具合に合意する意地っ張りなアリスがなんとなく面白かった。


 辺りを見回すと、なんとも奇妙な光景が広がっていた。どの木々の間にもわたしたちがいるのだ。正確には、わたしたちが映る角度に鏡蜘蛛の巣が張られているのである。アリスの言った通り、鏡張りの迷宮といった様相(ようそう)である。


「岩山は見えそうにありませんねぇ」と言って、ヨハンは肩を落とした。背の高い木々が、空へと枝葉を伸ばしている。その隙間にようやく空の断片が見えた。


「星で方角を確認すればいいかも」


 なんとなく呟くと、ヨハンは空を見上げて「無理です。天文学には(うと)いですし、それに、今は昼間ですよ」と返した。


「冗談よ。わたしだって星で方位を知ることなんて出来ない」


「へぇ、騎士様でも知らないことがあるんだねぇ」とアリスがニヤニヤと(あお)る。


 不意に、ノックスの指が木々を真っ直ぐに()した。彼は空を見上げ、薄く口を開く。「あっちが北。……こっちが南」


 ぎょっとして彼を見つめる。ヨハンとアリスも同様の反応である。


「ノックス……どうして方位が分かるの?」


 彼は小首を(かし)げて「星」と呟いた。


「確かに、昼間でも薄っすら星は出ていますが……いやはや、まいりましたね」


 ヨハンは感心したようにノックスを眺めている。半信半疑といった様子だ。


「坊やは嘘をつくような子じゃないと思うから、あたしは信じるよ」となぜかアリスは自信満々の様子で(うなず)く。


「ノックス。それが本当なら素晴らしい特技よ。すごく助かる」


 確か、岩山の方角は北だったはずだ。空さえ見上げられれば方位の心配はいらないことになる。無論、それが正しければ、だが。


 けれど、照れたように口の(はし)に笑みを浮かべているノックスを疑う気にはなれなかった。

発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。

なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。



・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて


・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場


・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。星で方位を把握出来る。


・『鏡の森』→ハルキゲニアの北に位置する海峡を渡った先の森。初出は『104.「ハルキゲニア今昔物語」』


・『王都』→グレキランスのこと。クロエの一旦の目的地。


・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)朝月夜(あさづくよ)」』にて


・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。巨人となるもルイーザに討伐された。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』『184.「エンドレス・ナイトメア」』参照

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