195.「船旅 ~アリスの魔術講座~」
潮の香り。海峡を渡る風。晴れ渡る大空。船が鳴らすゴトゴトという機械音。そしてぐるぐると回る視界と吐き気……。
「酔ったら遠くを眺めるといいですよ、姉さん」
船頭の張り上げた声が耳を揺らす。遠い水平線と、消えつつあるハルキゲニアの船着き場を交互に見つめた。
船に乗る経験なんてはじめてで、まさかこんな目に遭うだなんて……。風に髪を揺らしている優雅な自分の姿を想像していたのだ。
「情けないですねぇ」とヨハン。
「船に弱い騎士様ってのも面白いもんだねぇ」とアリスが愉快にそうに同調した。
ノックスはわたしの背中をさすって心配そうに顔を覗き込んでいる。
「……心配してくれるのはノックスだけよ。ありがとうね」
微笑を浮かべたつもりだが、かなりぎこちない笑いになっていることだろう。我ながら格好がつかない。
「まだしばらくかかりますから、我慢出来なくなったら海に吐いてくださいね」
船頭の大声に返事をする気力はなかった。それに、人前で吐くなど絶対に出来ない。乙女としても、騎士としてもだ。
「それにしても」とアリスはノックスの隣に腰を下ろした。相変わらず品性の欠片もない胡坐である。「よく生きてたね、坊や。本当にあんたは運がいい」
「ありがとう?」とノックスは首を傾げつつ答えた。彼にとって運の良し悪しなんて判断がつかないのだろう。
それにしても、アリスの表現には少し感心した。他人によって不幸に巻き込まれてはいるが、いずれも命までは奪われていない。『関所』でグレゴリーに見放されたときはアリスが魔術によって救い、ハルキゲニアの一件ではビクターの実験の影響を受けなかった。不思議ではあったが、魔物の血液に耐性があったのだろう。ビクターはそうとは考えていないようだったが、奴の研究が万能だなんて思っていない。
今のノックスに、魔物の気配は少しも感じられない。魔力も以前と変わりない。ということは、あとを引くようなものはなにひとつ残っていないのだ。不幸中の幸い、という言葉はあまり好きではなかったが、この場合は当てはまる。
「そうそう、坊ちゃんは魔術師になりたいんでしたっけ?」とヨハンが唐突に切り出した。
ノックスははっきりと頷き、ヨハンをじっと見つめた。その間も背中をさすってくれているのだからたいした思いやりである。ヨハンもアリスも、彼を見倣ってほしいものだ。
「そういえば、あなたは魔術師なんでしょ? ノックスになにか教えてあげたらどう?」
船縁に腕をもたれて言うと、ヨハンの苦笑が聴こえた。
「いやぁ、実を言うと人に教えられるような技術はないんでさあ……。自己流と言いますか、半端に教えても悪影響になりかねないと言いますか……」
なんだそれは。魔術の継承に関しては簡単ではないと知ってはいたが、そう無下にしなくてもいいだろうに。
「そんなら、あたしが教えてやるよ」
進言したのはアリスである。
「ちゃんと教えられるのかしら? ただでさえ秘密主義のあなたが」
「馬鹿だねぇ。秘密にしておくようなことは、それなりに高度なのよ。基本的なことならお嬢ちゃんにもお見通しだろうに」
確かに、彼女の言う通りである。基本ならわたしにだって分かるし、大抵の魔術は見れば判別がつく。だからこそアリスは、自分の使用出来る高度な魔術についてのみ明かさなければそれで問題ないと考えているのだろう。
「安心しなよ。お嬢ちゃんとの決闘のときにはとびっきりのやつを見せてあげるからさぁ。報酬の受け取りに時間制限なんてないからねぇ」
いかにも愉しげな彼女の声を耳にして、わたしは盛大なため息をついた。やっぱり覚えていたか。決闘の約束を丸ごと忘れていてくれればいいのに。それはそうと時間も持ち出すということは、しばらくの間は仕掛けないと考えていいのだろうか。あのアリスといえども、まさか船の上で騒ぎを起こすとは思えない。
「デート……?」
ノックスがぽつりと呟く。耳慣れない言葉だったのだろう。
「そうよぉ。あたしとクロエお姉ちゃんは愉しい愉しいことをするの。二人きりで、秘密の愉しみよ」
「ノックスに変なことを吹き込まないで頂戴」
「はぁい、お嬢ちゃんはすっかりノックスちゃんのことが大好きなのねぇ」
まったく、調子が狂う。船酔いに加えてアリスからも煽られてはたまらない。
ノックスはわたしとアリスを交互に見つめて首を傾げていた。色んな意味で頭が痛む……。
「無駄口はいいから、ノックスに魔術を教えてあげなさいよ」
アリスは「アハハ」と愉快そうな高笑いをしたのち、ノックスを見つめた。「それじゃあ、あたしが魔術の基本を教えてあげるわ。しっかりと聞くのよ、坊や」
「うん」とノックスは素直に返す。
そしてはじまったのがアリスの魔術講座である。真面目に教えるつもりがあるのかどうかは知らなかったが、少し感覚的な内容だった。とはいえ聴く限り筋は通っている。
「まず、自分の中に魔力が流れていることを意識しなさいな。血とも息とも違う、別の流れが身体中にあるのよ。それはなにもしなければ単なる流れで、身体中を覆ったり、溢れたり、滞ったりする。坊やにはイメージ出来る?」
ノックスを見ると、彼はやっぱり首を傾げていた。それもそうだ。突然未知の『流れ』について明かされてもついていけない。
「難しいなら、目を閉じるといいさ。魔力は視覚や聴覚や嗅覚、触覚や味覚に邪魔されると把握しづらいからねぇ。……目をつむって、自分の身体のどこかに呼吸でも血液でもない別の『流れ』――感覚を見つけてごらんよ」
随分と無茶なことを……と思ったが、ノックスが素直に瞼を閉じたので邪魔しないことにした。
しばしの沈黙が降りる。ヨハンは魔術講座にいそしむ二人をニヤニヤと見つめ、船頭はちらちらとこちらを見つめている。気になるのは分かるけど、操縦に集中してほしいものだ。
そういえば、ドレンテの話によれば船は魔道具とのことだった。どうやら船に取り付けられたボタンやレバーによって、籠められた魔術の出力が変えられるようである。きっと船の下にプロペラかなにかの動力があり、それを駆動させているだけのシンプルな構造だろう。方向転換に関しても制御出来るに違いない。
やがてノックスが目を開けた。そして気落ちしたように目を伏せる。彼にしては明確な感情表現だった。
そしてひと言「難しい」と呟く。
アリスは苦笑して、ノックスの頭に片手を置いた。そしてくしゃくしゃと撫でる。
「あんまり気にしないでいいさ。はじめは誰だって難しい。あたしだってそうだったからねぇ」
「あら、意外ね。アリスって努力家だったんだ」
「そうよぉ。強くなるためには努力が必要だからね。おかげさまで、生意気な奴を叩きのめせるくらいには強くなりましたとさ」
きっとハルキゲニアの救済のために努力を積み重ねてきたんだろう。それにしても、戦闘狂の性格はなんとかしてほしいものである。
「強くなりたい」とノックスの呟きが聴こえた。
「どうして強くなりたいのさ。理由がなけりゃ、そう頑張れるもんじゃないよ」
アリスの言葉には相応の説得力があった。強くなるための正当な理由。それによって努力の量も変われば、方向性も定められる。
ノックスは言葉を探すように沈黙したが、やがて口を開いた。「ちゃんと守れるようになりたい」
主語が抜けていたが、おおよその意味は把握出来た。彼はハルキゲニアで、魔力維持装置へと引かれていくシェリーを守り切れなかったことが心残りなのだろう。だからこそ、守りたいと思った相手を守れるだけの強さがほしいのだ。
「じゃあ、とびきり強くならなきゃいけないねぇ。自分が傷つく覚悟も必要さ。……クロエお嬢ちゃんを見てごらんよ。あんなに強いのに、いっつも傷だらけになってる」
「いっつも、って……あなたはわたしのことをあまり知らないじゃないの。確かにハルキゲニアでは傷を負ったけど、『関所』であなたと戦ったときはほとんど無傷だったわよ」
図星だからこそ、少しムキになってしまう。するとアリスはクスクス笑って、それきりにしてしまった。まったく、いい性格をしている。
それから、真剣な様子で再び目をつむるノックスを見つめた。彼が本気で魔術師になろうとしているのなら、きっといくつもの苦難が訪れるだろう。それでも魔術の道を選び取るのなら、祝福すべきだ。
彼が望んで何者かになろうとする様子を見て、なんだか満ち足りた気持ちになった。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ノックス』→クロエとともに旅をする少年。魔術師を目指している。
・『関所』→アカツキ盗賊団の重要拠点。対立組織に奪われたがクロエたちの働きで取り戻した。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『グレゴリー』→タソガレ盗賊団の元頭領。詳しくは『32.「崖際にて」』『45.「ふたつの派閥」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。故人。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』『Side Johann.「跳梁跋扈の朝月夜」』にて
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『魔道具』→魔術を施した道具。魔術師であっても使用出来る。永久魔力灯などがそれにあたる。詳しくは『118.「恋は盲目」』にて
・『魔力維持装置』→ハルキゲニアを囲う防御壁に魔力を注ぐための装置。女王の城の設置されており、子供の魔力を原動力としている。詳しくは『151.「復讐に燃える」』にて




