幕間.「それからの奇蹟~ある日のハルキゲニア~」
※前半:セシリア視点の三人称です。
※後半:ケイン視点の三人称です。
※セシリアに関しては『155.「セシリア~遺された奇蹟~」』をご参照ください。
その日は朝から快晴だった。早くに目覚めたセシリアは、ベッドでもぞもぞと名残惜しく寝返りを打ち、それからようやく身を起こしたのである。
ベッド脇に立てかけておいた松葉杖を取り、部屋を出た。
一歩一歩、慎重に歩く。気を抜くと倒れてしまうから。
「あら、セシリアおはよう」
「おはようございます」
「顔を洗ったら朝ごはんにしましょうね」
「はぁい」
セシリアは寝惚け眼のまま、にっこりと微笑んだ。
行き場のない彼女を引き取ったのは、富裕街区に住む夫婦だった。なぜ自分を受け入れてくれたのか、幼いセシリアには分からない。ただ、幸福だった。温かい食事とふんわりした寝床。彼女のための松葉杖。そしてなにより、優しい夫婦がそばにいてくれるのはなによりも嬉しい。
玄関で器用にしゃがみ込み、背の低い桶から水を掬う。冷たさに身体が震えた。ぱしゃぱしゃと顔を洗っていると、セシリアの頭にぼんやり老人の姿が浮かんできた。足が痛くて、苦しくてたまらなかったときに、その老人はずっとそばで励ましてくれたのだ。大丈夫、きっと大丈夫、と。
それ以来、老人とは会っていない。いつか必ずお礼を言おうと心に決めているのに。
食事を済ますと、早速外へ出た。行き先は決まっている。今日もカエル先生に会いに行くのだ。
セシリアは『スクール』と呼ばれる魔術師育成教室に通っている。講師はなんだか長ったらしい名前で自己紹介をしていたが、その顔であだ名は決まっていた。カエル頭だったので『カエル先生』。そんなふうに呼ぶと先生はケロケロと怒るが、その様子も彼女には面白かった。
市民街区と富裕街区の中間にその施設はある。大きな門の先――広い庭のなかにちょこんと建てられた小屋。それが『スクール』である。
セシリアは、かつてこの場所になにが建っていたのか覚えていた。そこでおこなわれていたことを詳しくは知らなかったが、とても恐ろしいなにかだったことは分かる。しかし彼女はそれについて、詳しく語る気はなかった。忘れてはいけないことだと思うけど、無暗に広めるのは違う。そんな物事だと捉えていたのである。
小屋に入ると、子供たちがひしめいていた。賑やかな声。そして彼らの中心でもみくちゃにされているカエル先生。いつものことながら、セシリアは笑いをこらえられなかった。
「やめるケロォ! 僕は先生ケロォ! 講義をはじめるから、みんな座るケロォ」
カエル先生はぷんぷんと怒って見せていたが、しばらくはこのもみくちゃが続くことをセシリアは知っていた。
ほかの子たちが満足し、ようやく講義がはじまる。カエル先生が木切れに花を咲かせたり、空中にぷかぷかと泡を浮かばせたり、そういう面白い物を見せつつ魔術の仕組みを教えてくれるのだ。茶々を入れられたりしてちょくちょく進行が止まるけど、決して退屈ではなかった。
セシリアには夢がある。そして、『スクール』に通う子も同じだ。誰もが魔術師を目指している。
魔術師になってからのことは人によって様々だったが、セシリアは特にぼんやりしていた。魔術師は、なにをすればいいんだろう。カエル先生みたいになりたいとも思うし、毎晩壁の外で魔物と戦っている偉い大人にもなりたいと思う。けれど、どの選択肢もなんだかしっくりこない感覚があった。
『スクール』が終わってもセシリアは小屋に残っていた。
「セシリア、どうしたケロ?」
カエル先生はよれた上着や乱れたシャツを直しつつ話しかけた。ようやくもみくちゃから解放されたばかりなのだ、先生は。
「話したいことがあるの」
「なら、家まで送るからゆっくり話すケロ」
言って、カエル先生はセシリアに肩車をした。急に高くなった視界に、なんだか気分がウキウキする。けれども悩みは簡単に消えてくれるものではない。
外はカボチャを溶かしたみたいな夕暮れが広がっていた。遠くには解体途中の城があって、ハルキゲニアを行き来する商人の馬車もちらほら見える。
カエル先生に肩車をされながらも、セシリアはなかなか言い出せなかった。相談事はいつだってもじもじと喉の奥に引っ込んで、なかなか出てきてくれない。
「ちょっと休憩してもいいケロ?」
「うん」
泉の広場のベンチに、二人で腰かけた。先生は目を細めて夕暮れを眺めている。カエル頭じゃなければ、きっと真剣な表情をしているんだろうなあ、とセシリアは思った。
広場では色々な人が、あちこちで話を交わしている。各地の食べ物がどうのとか、領主のドレンテさんがどうのとか、色々だ。そのなかには当然、セシリアのよく知らない話題もある。物騒なものも、もちろん。たとえば――。
牢屋に入れられていた双子が、夜間防衛に回された。二人はハルキゲニアの敵だったのに、ドレンテさんが雇い入れたらしい。なんとも不安だが、今のところは意外なくらいしおらしく働いている。しかし、いつ裏切るか……。
もちろん、セシリアにはなんのことやら分からない。けれど大人たちの話題なんていつもそんな感じだ。カエル先生だけは例外だったけど。
「セシリアは頑張り屋さんケロ」
突然先生に言われて、セシリアはびっくりした。
「そんなことないよ」
「でも、毎日真剣に魔術を勉強してるケロ」
それは事実だった。カエル先生の言う言葉を聞き漏らさないよう、そして、しっかりと覚えるよう懸命になっていたのだ。すべては魔術師になるために。
「だって、魔術師になりたいんだもの。……でも、なったあとにどうすればいいか分かんない」
セシリアが正直に打ち明けると、先生は少し俯いた。
「セシリアは、目指す人はいないケロ?」
そう言われて、思い浮かんだのはあの老人だった。本当に辛いとき、ずっとそばにいてくれた人……。目指す、という意味とは違うけれど。
「目指す人はいないけど、尊敬してる人はいる。わたしが辛いとき、ずっと励ましてくれたおじいちゃんなの。今どこにいるのか分からないけど、すごく嬉しかった」
セシリアが答えると、カエル先生は口の端を持ち上げた。多分、笑っているのだろう、とセシリアは思って少しおかしく感じた。
「セシリアはきっといい魔術師なれるケロ。なったあとは、その人みたいに尊敬される人を目指せばいいケロ」
「なれるかな」と小さく呟くと、セシリアは頭に柔らかな感触を覚えた。カエル先生が撫でてくれているのだ。
「なろうとしないと、なれないケロ。先生は応援するケロ」
セシリアは、ちょっぴり泣きそうになった。簡単に『なれる』と断言されるより、先生の一歩引いた言葉のほうが温かく感じたのだ。
「先生、ありがとう」
先生はやはり、不器用に笑った。そして「さ、もう暗くなるケロ」と言ってセシリアを肩車した。
ケインが広場のベンチに戻る頃には、すっかり陽が落ちていた。もうじき魔物の時間がやってくる。それまでに少しでも仮眠を取っておきたかったが、気が昂ってしまっていた。
セシリアの口にした老人の話――それが、以前ハルキゲニアの防衛を担っており、女王の城で命を落としたレオネルを指していることは察しがついたからだ。
敵わない。ケインは本心からそう思った。弾圧され、一度は追放されたにもかかわらず革命の種火を守り、自ら戦士として女王の城へと乗り込んだ老魔術師。彼の命はどれだけの子供を救っただろうか。
いや、とケインは思う。子供だけじゃない。ハルキゲニアに暮らすすべての人々を救ったのだ。無論、そこにはケインも含まれている。レオネルの死に際を見た二人の子供は今、『スクール』で目下修行中だ。言うまでもなく、命がけで守ってくれた老魔術師を目標に頑張っている。
未来を担うこと。ケインは自分自身に、それを強く課した。裏切り者としての意識は当然あったが、だからこそ、真にハルキゲニアを立て直すために尽力しようと決めたのだ。夜間防衛と『スクール』の運営。その二つが主な仕事である。
特に夜間防衛は、胃に穴が空きそうなほど負担が大きい。魔物だけではなく、元々敵であった双子――ドレンテの恩赦により、夜間防衛と引き換えに居場所を得た姉弟――にも警戒しなければならない。ただ、近頃は多少なりとも安心出来るようにはなってきた。丸くなったとは言わないが、敵意は感じないし、よく働いてくれている。
まるで奇蹟だ。ケインはそう思わずにはいられなかった。レオネルが繋いだあらゆる糸が、敵と味方、そして裏切り者を問わずハルキゲニア再興のために紡がれている。
ぽたり、と膝に水滴を感じて、ケインは慌てて目を拭った。陽の落ちた広場でひとり涙を流すカエルなんて、笑えない。
さて、とケインは立ち上がった。夜が来る前に、体調を整えておかねばならない。
人の一生は短く、夜は永遠にめぐってくる。そのために個人が出来ることなんて、ちっぽけなものだ。しかし、すべては連綿と受け継がれていく。
ケインは胸に手を当て、レオネルの姿を頭に浮かべた。そして彼が遺したすべてに、想いを馳せた。
◆改稿
・2019/02/22 誤字修正。
◆参照
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『カエル先生』→ケインと同一人物。下記参照。
・『ケイン』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて
・『牢屋に入れられていた双子』→『白兎』と『黒兎』を指す。下記参照。
・『白兎』→ハルキゲニアの元騎士。魔術師。本名はルカ。詳しくは『112.「ツイン・ラビット」』『164.「ふりふり」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『黒兎』→ハルキゲニアの元騎士。ナイフを複製する魔具『魔力写刀』の使い手。残忍な性格。本名はクラウス。詳しくは『127.「魔力写刀」』『Side Alice.「卑劣の街のアリス」』にて
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。防御魔術の使い手。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて




