185.「1/6」
巨人の足元は、ちょうど『ラボ』の先の森林地帯である。まずは正門を目指すことにした。
駆けながら思う。もしかすると、あれは動き出さないかもしれない。そんな希望が胸に湧いたが、すぐに打ち消した。ビクターのことだ、充分な裏付けを持って仕掛けたに違いない。ただのオブジェを作るわけがないのだ。
メアリーは敵でしかないし、生前の彼女についても知らない。けれど、いくらなんでもこの仕打ちは酷過ぎる。今さらビクターに人道を求める気なんてないが、妻であるメアリーに対しては……と、どこかで歯止めを期待していたのかもしれない。
彼の常軌を逸した仕掛けは、ヨハンの想定を凌駕した。あれをなんとか出来なければ、革命の火はハルキゲニアという都市ごと消し飛ばされる。
どれだけ甘い想定をしても、キュクロプスとメアリーの混合というだけで過酷な戦闘になることは明らかだった。命がいくつあっても足りないような、そんな状況……。
不意に、ニコルの姿が頭に浮かんだ。どうして今、という疑問はすぐさま消える。今ここで命を落とせば、彼が魔王と手を組んでいる事実を知る者はいなくなるのだ。賢い選択は、住民とともに避難することだろう。そうすれば想いなかばで倒れることもない。
そこまで考えて、さらに速度を上げて駆けた。
――戦わないなんて絶対にごめんだ。ビクターの悪意に膝を折るようなものじゃないか。わたしは、いや、人は、どんな状況からでも立ち直れるはずだ。悪夢はいつか終わる。ノックスとシェリーに幸福が訪れることを期待するなら、邪悪な意志に屈するわけにはいかない。
未来を切り拓くのは、絶対にビクターの研究じゃない。それは連綿と続く人々の営みのなかにしか生まれないのだ。それを信じるからこそ、今、痛みに耐えて進むんだ。
住民とすれ違うたびに「貧民街区へ逃げて!」と、肺が焼けるような感覚になってもひたすらに叫んだ。
正門が近くなった頃、見覚えのある姿を捉えた。どこにいても目につく例のカエル頭――ケロくんである。彼のそばには案の定、アリスもいた。彼女は弐丁魔銃の弾倉を両手にそれぞれ摘んで巨人を見上げている。その眼差しは真剣そのもので、両手から流れる魔力は傍目から見ても密度が高い。集中力を研ぎ澄まし、巨人が動くまでに魔弾を装填するつもりなのだろう。
「アリス! ケロくん!」
呼びかけると、ケロくんだけがこちらを向いた。その瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
「クロエ! アリスが……アリスがあいつと戦うって言って聞かないケロォ……。クロエから言って聞かせてくれケロォ……」
そんなことだろうとは思った。ケロくんはアリスの身を案じてハラハラしているのだ。人一倍臆病なくせにアリスから離れないんだからすさまじい。
「邪魔するんじゃないよ、お嬢ちゃん。……あんなのに壊されてたまるか」
アリスはいつになく真剣な口調で釘を刺す。そこに戦闘狂の愉悦は少しも感じられなかった。それよりも、義侠心とでも言うべきものが垣間見える。
ああ、そうか……。ハルキゲニアはアリスの故郷なんだ。滅茶苦茶にされたこの街をなんとかするために戻ってきたんだ。不器用だけど、父親を心配して……。
この地にどれだけの思い入れがあるのかは分からなかったが、命を賭けるほどの強い感情であることは理解出来た。でなければこうして立っていない。
「悪いけど、あなたじゃ勝てない。殺されるだけよ」
アリスの隣に立つと、彼女は返事をせず巨人を見上げ続けた。
「クロエの言う通りケロ! 諦めて一緒に逃げるケロ!」
同調するケロくんに、アリスは舌打ちをする。「クロエお嬢ちゃん……あの小うるさいカエルを連れてさっさと消えな」
「嫌よ」
「ハッ……」と力なくアリスは笑う。「なんだい、お嬢ちゃん。あたしを嗤いに来たのかい……。馬鹿にしやがって……」
やはり、彼女も自身の無謀には気が付いているようだ。相手はルフなんかとはわけが違う。それでも挑もうとしているのだから相当の決意である。
「そうよ、あなたを馬鹿にしに来たの。あんな化け物に勝てるわけないじゃないの。本当に無謀……」
「無謀だからなんだい。これはあたしが決めたことだ。口出し無用だよ」
「知ってる。だから――あなたの無謀に付き合わせて頂戴」
アリスとケロくん。二人の丸い目がわたしに注がれた。それからケロくんは狼狽を、アリスは不敵な笑みを見せる。
「クロエ! なにを言ってるケロ! 火に油ケロ!」
騒ぎ立てるケロくんを無視して、アリスに笑いかける。ニッコリと。
「後悔しても知らないよ」とアリスは呟く。こちらの返事を知った上での言葉だろう。
「後悔出来る時が来るなら大歓迎ね」
巨人を見据え、サーベルを引き抜いた。どこまで戦えるかは分からない。けれど、独りじゃない。スパルナもきっと、どこかで様子をうかがっているに違いないのだ。
「二人ともおかしいケロ……」
「ケロくんは逃げて頂戴。それともわたしたちと一緒に心中する?」
ケロくんはめそめそと泣きながら、しかしはっきりと答えた。「心中するケロォ」
まったく……どこまでアリスにべったりなんだ、このカエルは。もしや惚れているのでは、と考えて内心で笑った。それはないか。
心中を告げたケロくんに対し、アリスは一瞥だけ投げかけた。それきりなにも言わず、弾倉に魔力を籠め続ける。
「いつになったら動き出すんだろうねぇ、あれは」
「さあ。わたしには分からないけど、いつなにが起きてもおかしくないわ」
「どうせビクターの馬鹿げた実験成果なんだろう?」
「ご名答……。最低の集大成よ」
愛を謳い、未来を目指した結末が、かつてメアリーだった化け物である。それはビクターの心を象徴していると言っていい。巨大で、おぞましい身体。おまけに全身に存在する目は何者をも見逃さず、それなのに静観している。これほど不気味で恐ろしい存在はいない。
「クロエ!」
精悍な声とともに、羽ばたきが聴こえた。振り仰ぐと、ちょうどスパルナが着地するところだった。ケロくんもアリスも目を見開いて彼を見つめている。明らかな警戒の視線をものともせず、彼は冷静にわたしの隣に立った。
「しばらく観察していたが動く気配がない。こちらから仕掛けるべきだろうか」
「いえ、勝算がない限り仕掛けないほうがいいでしょうね。下手に刺激したら大変なことになりそうだし……。今のうちに作戦を立てたほうがいいかもしれないわ」
スパルナは短く頷き、明けつつある空を突くような巨体を見上げた。
「お嬢ちゃん、そいつは……」
アリスの訝しげな声。その疑問はもっともである。誰が見ても困惑するはずだ。紫が斑に散った肉体に、白銀の翼。それが魔術の類ではないことくらい彼女とケロくんには分かっているだろう。
「詳しく説明している時間はないわ。簡単に言うと、彼はわたしたちの味方よ。信頼して大丈夫」
引きつった顔をするケロくんと、警戒心をゆるめないアリス。そんな二人にスパルナは真っ直ぐな視線を向けた。
「僕はスパルナだ。よろしく頼む」
簡単に疑問は消えそうにはなかったが、二人ともぎこちなく頷いた。ケロくんは「ケラケルケイン・ケロケインだケロ」と例の自己紹介をする。誰が一度聞いただけで覚えられるのだろう。
「よろしく。ケラケルケイン・ケロケイン」とスパルナは意外にもあっさりと復唱してのけた。
それがはじめての経験だったのか、ケロくんは目をきらきらさせて「よろしくケロ」と嬉しそうに言う。
「仲良しごっこはそこまでにしな。いつあれが動き出すか分かったもんじゃないさ。スパルナだっけ? 何者か知らないけど、寝首を掻くような真似をしたらただじゃ済まないからね」
「承知した」とスパルナは素直に返す。その調子にアリスは苦笑を浮かべた。
ばたばたと騒がしい足音が聴こえて振り向くと、ミイナとハルの姿があった。
「クロエ! あのデカブツはなんなんだ! それと、なんだよその羽の生えた奴! ああ、もう! カエルとアリスもいやがる! 滅茶苦茶じゃねえか」
ミイナはわたしのそばに来て、片手で自分の頭をくしゃくしゃと掻いた。言われてみれば随分と歪な光景だろう。
「クロエ。説明は後でいいデス。それよりも、あれはどういうことデスカ?」
ハルは比較的冷静に、巨人を指さして見せた。
「最後の敵よ」
端的に答え、周囲を見回す。アリスとスパルナは即座に首肯し、ハルも納得したように頷いた。それに合わせるように、ケロくんもぎこちなく頷く。
ミイナは盛大なため息をついてから、執行獣 で巨人を指した。「要は、あれをぶっ潰せば終わりなんだな? それでいいんだな?」
「そうよ」「そうだ」「そうねぇ」「そうケロ」「そうみたいデス」
重なり合った言葉。ミイナは唇をひと舐めして巨人を睨んだ。「そうかいそうかい。笑えない状況だな。いいじゃねえか。やってやる」
このメンバーなら、と思ったものの、確信は持てなかった。終わりかけの空に立つ巨体は、今まで感じたこともないくらいどす黒く強大な魔物の気配を溢れさせている。
――不意に、ぞわりと妙な感覚が全身に広がった。どれだけ離れていても感じ取れるほど露骨で強大な気配。それは魔物の持つものではない。アリスとケロくんもそれを感じたのか、同様に身を震わせた。
強過ぎる魔力はときに、魔力察知の出来る人間の調子を狂わせるという。ただ、それだけ巨大な力は滅多に存在しないし、当人も巧妙に隠蔽するのが常である。――王都で読んだ書物にそう記されていたはず。
その魔力に呼応するかのように、巨人も身を震わせた。そして、片手を地面に突く――。
巨大な地震が起き、次の瞬間、巨人の手には削り取られた地面が握られていた。それを大きく振りかぶる。――放たれるであろう方角はこちらだ。
アリスが弾倉を元に戻し、ハルがわたしたちの前に出て、ミイナは執行獣 をかまえ、スパルナは翼をはためかせ、わたしはサーベルをかまえ、ケロくんはおろおろとしていた。誰もが巨人の攻撃を想定し、息を呑む。
しかし致命的な攻撃は訪れず、わたしたちが行動を取ることはなかった。
巨人の腕が振られた瞬間、空中に橙色の巨大な紋が出現したのである。刹那、轟音とともに紋からなにかが伸びた。
わたしが理解したのは、攻撃が終わってからだった。紋から伸びたのは鋭く尖った巨大な岩であり、それは放られるはずだった地面とともに巨人の手を貫いたのである。敵の攻撃を粉砕し、同時にダメージを与えたのだ。
そのタイミングもそうだが、突き出た岩の威力も、紋から魔術を展開する方法も、普通の魔術師には真似出来ない。いや、一流の魔術師でもこう易々と実行出来ないだろう。超一流、あるいは、この種の魔術を洗練させたエキスパートでなければ――。
紋が消える。何者かの影が滑るように宙に現れ、巨人を向いて静止した。わたしたちは身動きひとつせず、彼女を凝視する。
大きな三角帽に、たくさんのフリルが付いた黒のドレス。彼女は器用に箒の上に立ち、腰に手を当てていた。その身体は魔力に比して異常に小さい。まるで子供――。
「せっかくここまで来たのに、なによあんた! レディに土くれをぶつけるなんて失礼しちゃう! でも残念ね。あんたみたいなよわよわじゃ、全っ然、相手にならない!」
幼い声が響き渡る。
まるで心臓が凍りつくような感覚だった。彼女の声と姿には聴き覚えがある。忘れもしない。
ルイーザ――どうしてあなたがここにいるの?
ほんの子供ながら最強の魔術師として名を馳せている存在。そして、ニコルとともに過酷な旅を辿った勇者一行のひとり。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『ラボ』→ビクターの研究施設。内部の様子に関しては『158.「待ち人、来たる」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『ルフ』→鳥型の大型魔物。詳しくは『37.「暁の怪鳥」』にて
・『ニコル』→魔王を討伐したとされる勇者。実は魔王と手を組んでいる。クロエの最終目標はニコルと魔王の討伐。
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。感情表現が薄い。
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『弐丁魔銃』→アリスの所有する魔具。元々女王が持っていた。初出は『33.「狂弾のアリス」』
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『執行獣 』→アカツキ盗賊団団長のミイナが所持する武器。詳しくは『22.「執行獣」』にて
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ネロ』→クロエの出会った死霊術師。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ルイーザ』→ニコルと共に旅をしたメンバー。最強と目される魔術師。高飛車な性格。詳しくは幕間.「魔王の城~記憶の水盆『魔女の湿原』~」参照




