184.「エンドレス・ナイトメア」
夜の終わりを貫くような巨体が、遥か離れた森林地帯に屹立していた。間違いなくキュクロプスの大きさだったが、肌が異常である。身体のいたるところにぱっくりと傷があり、その奥で巨大な瞳が落ち着きなく動いていた。
目を凝らすと、その巨人はメアリー同様、紫色の肌をしているように見えた。
「なんで……」
ほとんど無意識に疑問が漏れ出す。
同調するように、ヨハンの疑問が後ろから聴こえた。「どうしてあんなものが……。見逃すはずは……」
彼ですら発見出来なかった小瓶は、酷く邪悪な様相の巨人を生み出した。ヨハンがどうやって瓶を探し出したのかは分からないが、あれほどの存在なら瓶詰めにされていても真っ先に気付きそうなものである。
ただ、事実として巨人の出現を防ぐことは出来なかったのだ。
「すべてを見抜けるなど、単なる自惚れだ。私を凌駕したつもりでいたようだが、所詮は井の中の蛙でしかない」
ビクターの声は落ち着いていたが、奥底に隠しきれない愉悦が混じっている。彼は悠々と言葉を続けた。
「本来あれは使う予定ではなかった。そもそも城を守る騎士団が落ちると思っていなかったからな……。万が一にもこの広間にたどり着く者がいれば――そしてメアリーを圧倒する者が現れれば、グレキランス侵攻を焦ってでも一切を発動する必要があった。無論、街の縮小吸入瓶はそのひとつだ。よもや防がれるとは思わなかったが、それすらも万が一という懸念はある。誘爆が上手くいったとして、すべての魔物が討伐されるおそれだってあったからな……。そこで私は、最大の実験をすることにしたのだよ」
ヨハンの返事は聴こえない。わたしもまた、夜にたたずむ巨人から目を離すことが出来なかった。
ビクターはさらに言葉を重ねる。
「人間の魔物化実験は成功したが、一方通行でしかない。逆に、魔物の人間化実験も成功を納めてはいたが、それも一方通行だ。魔物と人間のバランスを取れるのが死体のみ……。ところで、その蘇った人間に魔物化の薬液を注入したらどうなるだろうか? これは仮説だったが、肉体は魔物のそれとなり、理性や強靭さは蘇った人間のそれならばどうだろう? これ以上の存在はいるだろうか? あと戻りはできないがね」
思わず息を呑む。ということはつまり、遥か遠方に立つ巨人は――。
「あの魔物は……メアリーなの?」
振り向くと、ビクターは影ひとつない笑みを浮かべた。「ご名答。君たちが目にしているのは私の妻――メアリーだ」
「あんたはメアリーの身体に細工を施したのか? もう二度と戻れないと知りながら?」
ヨハンが声を荒げた。そんな語調の彼ははじめてだったが、そうなる気持ちはよく分かる。
「そうだ。私は最終手段としてメアリーの肉体に小瓶を入れておいたのだよ。使わなければ摘出すればいいからな。しかし、機会は訪れた。……メアリーは我々人類の未来に最も貢献してくれた。――嗚呼! メアリー!! 私は君を心から愛している!!」
奥歯を噛みしめて目を閉じる。もう身体の痛みなんて意識にのぼらない。セシルのときも感じたが、ビクターが口にする『愛』は地獄に生る真っ黒な果実だ。独り善がりをとっくに超越した、終わらない悪夢。
よろよろと、エリザベートがわたしの隣まできた。薄暗闇の先に立つ怪物を見て短い悲鳴をあげる。
「あ、あ……。あたくしはあんなものを作れなんて……ひと言も……」
首を横に振る彼女は、どこか哀れだった。巨人を凝視する見開かれた目には涙がにじんでいる。
「あれを生み出したのはビクターだけど、あなたが彼の研究を支えたのよ。……今まで目を背けてきたのかもしれないけど、あれはあなたたちがやったことの結末よ」
ハルキゲニアを支配したことも、壁を造り出したことも、騎士団を結成したことも、子供相手に実験を重ねたことも――すべてがそこに結実している。あの怪物を見てもなおグレキランス侵攻を考えるのだとしたら、決して越えてはならない一線を越えてしまっている。
エリザベートが膝を折った。呆然と、かつてメアリーだった巨人を見つめている。その瞳に涙が光った。
もはや聞くまでもない。彼女は限界ぎりぎりのところで踏みとどまっている。我儘で独裁的、高慢で加虐的な女王様。その程度だ。決して許せはしないが、心まで怪物になってはいない。ビクターと違って。
「お嬢さん」
呼びかける声がしてヨハンを見たが、彼はビクターを見据えたままで、こちらには横顔を見せている。その目付きは冷たい。
「今すぐスパルナさんの加勢に向かってください。このままでは彼が殺されてしまう」
ふ、と先ほどのシェリーの叫びが頭をよぎった。スパルナは間違いなく巨人に立ち向かうために消えたのである。両の翼を駆使してあれを討伐するつもりなのだろう。
通常のキュクロプスなら今のスパルナでも討伐出来る。しかし、あれはどう考えても別物だ。その異様な姿もそうだが、元がメアリーだったというだけで悪い想像は容易に出来る。彼女の機動力は失われただろうけど、肉体の強靭さはきっとそのままだ。そして仮に、あの瞳がひとつひとつ器官として機能しているならばどこにも死角がない。
「お嬢さん……間違っても戦わないでください。あくまでもスパルナさんを止めるだけです。あとは住民に貧民街区まで逃げるよう呼びかけてください」
どうして貧民街区なのかは明白だった。今はまだ、魔物の出現時刻を抜けていない。壁の外に出たら格好の餌食だ。だからこそ、巨人の位置から最も離れた貧民街区が逃げ場としてはベストである。しかし、あれはきっと陽が昇っても動き続けるに違いない。そうなれば『戦わない』選択肢は消さなければ。
ただ、一旦は彼の考えに従うべきだ。
「分かった! ノックス、シェリー! 彼の指示に従って頂戴!」
頷く二人の目には、どこか不安の色が見えた。
「大丈夫。スパルナは助けるし、わたしも死なない。きっとまた会えるから」
言って、わたしは駆け出した。痛みなど知ったことではないし、眩暈など入り込む隙間もない。全身を鞭打って駆け続ける。
広間を抜けて回廊を通過すると『帽子屋』とウォルターが倒れていたが、気にする余裕はなかった。事態は一刻を争う。先ほど広間の亀裂から見た限りは、飛翔するスパルナの姿はなかった。ということは、どこかから機を窺っているに違いない。
彼の無謀さを思うと気が焦った。ただでさえキュクロプスの肉体は凶器である。一発でも攻撃を受けたら――。
階段を降りて一階の広間へ出ると、思わず足を止めそうになった。半壊していたのだ。床は無残に割れ、壁もヒビ割れた箇所がほとんどである。
確かここは、レオネルとグレイベルが対峙していた場所だ。その戦闘の結末は知らなかったが、広間の惨状は過酷な戦闘を示唆していた。あの優しい老魔術師が生きてレジスタンスを指揮していますように、と心で願いながらさらに進む。
エントランスを通過すると、城から『中央街道』までの間にレジスタンスと住民が混在していた。皆足を止めて、突如出現した巨人を見上げている。当然だ。なにが起こっているのか分からず判断に迷っているのだろう。
「逃げて!! 貧民街区まで!! 早く!!」
叫ぶと、彼らは我に返ったように『中央街道』を引き返していった。アリスやケロくん、ミイナやジン、そしてハルはどこにいるだろう。レオネルとドレンテの行方も気になった。
苦々しい思いで巨人を見上げる。それはぎょろぎょろと目玉を動かしながら、ただずんでいた。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
なお、地図については第四話の最後(133項目)に載せておりますのでそちらも是非。
・『キュクロプス』→巨人の魔物。『51.「災厄の巨人」』に登場
・『メアリー』→ビクターの妻。既に亡くなっているが、ビクターの実験によって蘇った。意思はないとされている。詳しくは『153.「鎮魂と祝福、祈りと愛~博士の手記~」』『154.「本当の目的地」』参照
・『ビクター』→人体実験を繰り返す研究者。元々王都の人間だったが追放された。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』にて
・『グレキランス』→クロエの一旦の目的地。通称『王都』。
・『縮小吸入瓶』→付近にあるものを縮小させ、吸入してしまう小瓶。ビクターの発明した魔道具。彼は魔物を詰め込んで使っている。詳しくは『147.「博士のテスト・サイト」』にて
・『セシル』→『アカデミー』の働いていた女性。ビクターの実験の犠牲者。詳しくは『第五話「魔術都市ハルキゲニア~②テスト・サイト~」』参照
・『スパルナ』→人型魔物。英雄を目指す律儀な青年。一時的にシェリーを保護していた。本名はボリス。詳しくは『第三話「軛を越えて~③英雄志望者と生贄少女~」』『178.「白銀の翼」』にて
・『シェリー』→ハイペリカムで保護された少女。クロエによって『アカデミー』に引き渡された。人懐っこく、気さく。詳しくは『94.「灰色の片翼」』『98.「グッド・バイ」』にて
・『ノックス』→クロエとともに旅をした少年。感情表現が薄い。
・『帽子屋』→ハルキゲニアの騎士団長。魔力察知能力に長けている。シルクハットの魔具『奇術帽』で戦う。本名はジャックであり、『タソガレ盗賊団』元リーダー。詳しくは『137.「帽子屋の奇術帽」』『152.「今日もクロエさんは器用~肖像の追憶~」』『48.「ウォルター≒ジャック」』にて
・『ウォルター』→タソガレ盗賊団のボス。穏健派。元ボスであるジャックを心酔している。詳しくは『48.「ウォルター≒ジャック」』など参照
・『レオネル』→かつてハルキゲニアを魔物から守っていた魔術師。レジスタンスのメンバー。防御魔術の使い手。詳しくは『104.「ハルキゲニア今昔物語」』にて
・『グレイベル』→ハルキゲニアの防衛を担っていた魔術師。女王の軍門に下った。レオネルの弟子。詳しくは『111.「要注意人物」』『Side Leonel.「復讐にうってつけの日」』にて
・『アリス』→魔銃を使う魔術師。魔砲使い。ハルキゲニアの元領主ドレンテの娘。『33.「狂弾のアリス」』にて初登場
・『ケロくん』→カエル頭の魔術師。正式名称はケラケルケイン・ケロケイン。本名はアーヴィン。詳細は『第三話「軛を越えて~②カエル男と廃墟の魔女~」』『幕間.「ハルキゲニア~時計塔最上階~」』参照
・『ミイナ』→アカツキ盗賊団のリーダー。詳しくは『第二話「アカツキ盗賊団」』にて
・『ジン』→アカツキ盗賊団の副団長。主にミイナの暴走を止める役目を負っている。弓の名手。詳しくは『20.「警戒、そして盗賊達の胃袋へ」』にて
・『ハル』→ネロの死霊術によって蘇った少女。メイド人形を演じている。元々はアカツキ盗賊団に所属。生前の名前はアイシャ。詳しくは『第一話「人形使いと死霊術師」』参照
・『ドレンテ』→ハルキゲニアの元領主。レジスタンスのリーダーであり、アリスの父。詳しくは『107.「トラスという男」』にて




